アッバース家の成立とイスラーム世界における位置づけ
アッバース家(バヌー・アル=アッバース、Banu al-‘Abbās)は、イスラーム史において750年に成立したアッバース朝の王家であり、預言者ムハンマドの叔父であるアル=アッバース・イブン・アブドゥル=ムッタリブの子孫にあたります。預言者の血統を引く家系であることから宗教的正統性を主張できたため、イスラーム世界における支配者としての地位を獲得しました。
7世紀後半、最初のイスラーム王朝であるウマイヤ朝が成立すると、アッバース家は当初は影響力の小さい家系のひとつに過ぎませんでした。しかし、ウマイヤ朝がアラブ人優位の政策を取り、マワーリー(非アラブ人改宗者)やシーア派などの不満が高まると、アッバース家は反ウマイヤ運動の象徴的存在となっていきました。特にホラーサーン地方においては、ウマイヤ朝に不満を抱く諸勢力を糾合し、アッバース家の名のもとに反乱を組織しました。
アッバース革命とアッバース朝の成立
750年、アブー・アル=アッバース(通称アッ=サッファーフ、「流血者」)が蜂起し、ザーブ河畔の戦いでウマイヤ朝を破りました。これによりアッバース家は新しいイスラーム帝国の支配者となり、アッバース朝が成立します。アッバース家の支配は、イスラーム史において「黄金時代」を築く契機となりました。
アッバース家は、ウマイヤ朝に対抗するために「預言者の一族」の正統性を強調しました。これはシーア派の支持を取り付ける上で効果的でしたが、実際にはアリー家(アリーとファーティマの子孫)ではなく、ムハンマドの叔父の系統でした。そのため、シーア派の一部からは「裏切り」とも見られ、アッバース家とアリー家の対立はその後も続きました。
アッバース朝初期の歴代カリフ(アッ=サッファーフ、アル=マンスール、ハールーン・アッ=ラシード、アル=マアムーンなど)は、中央集権体制を整備し、バグダードを新首都として建設しました。これによりアッバース家はイスラーム世界の宗教的・政治的中心として君臨しました。
アッバース家の権威と衰退
アッバース家の支配は長期にわたりましたが、その実態は時代とともに大きく変化しました。9世紀以降、カリフ権力は次第に弱まり、トルコ系軍人や地方政権(ブワイフ朝、セルジューク朝など)に実権を奪われるようになります。カリフは名目的な宗教的権威を保持し続けましたが、実質的には「象徴的存在」と化しました。
1258年、モンゴル帝国のフラグ軍によってバグダードが陥落し、アッバース家の本拠は壊滅しました。このとき最後のアッバース朝カリフ・アル=ムスタスイムは処刑され、バグダードのアッバース家の支配は終焉を迎えました。しかし、アッバース家の血統は完全には絶えず、1261年にマムルーク朝の庇護下でカイロにアッバース家のカリフが擁立されました。
カイロのアッバース家カリフは実権を持たず、象徴的な宗教的権威として存続しました。マムルーク朝やオスマン帝国のスルタンたちは、この「形式的なカリフ位」を利用して自らの支配に宗教的正統性を与えました。最終的に1517年、オスマン帝国がマムルーク朝を滅ぼすと、カリフの称号はオスマン・スルタンへと移り、アッバース家は歴史的役割を終えました。
アッバース家の歴史的意義
アッバース家の意義は、イスラーム史の中で「宗教的正統性を背景に広範な支持を集めた王家」であった点にあります。ウマイヤ朝のアラブ優位政策に対抗し、非アラブ人やシーア派を取り込みながら大帝国を築いたことは、イスラーム共同体(ウンマ)の拡大と多様化に直結しました。
また、アッバース朝の時代は学問と文化の繁栄期であり、「イスラーム文明の黄金時代」と呼ばれます。バグダードの知恵の館(バイト・アル=ヒクマ)を中心に、ギリシア哲学や科学の翻訳、数学・天文学・医学の発展が進みました。アッバース家はこの文化的繁栄の象徴的担い手であったといえるでしょう。
同時に、アッバース家の歴史は「権力と正統性の分離」を示す事例でもあります。バグダード陥落以後、カリフは実権を失いながらも宗教的権威を保持し続けました。これはイスラーム世界における「権力の実態」と「権威の象徴」の二重構造を生み出し、その後のイスラーム政治史に大きな影響を与えました。
総じて、アッバース家はイスラーム史において最も長期にわたり影響を及ぼした王家の一つであり、その存在はイスラーム文明の政治・宗教・文化のあり方を考える上で不可欠なものといえるでしょう。

