コンゴ動乱(Congo Crisis, 1960–1965)は、ベルギー領コンゴの独立直後に勃発した国家崩壊的な混乱で、カタンガや南カサイの分離、国内諸勢力の権力闘争、国連軍(ONUC)の介入、冷戦構図に絡む多国間の関与、傭兵・民兵の動員、そして最終的なモブツ体制の成立へ至る一連の出来事を指します。首相ルムンバの失脚と暗殺、ダグ・ハマーショルド国連事務総長の墜死、ツォンベの復帰とシンバ反乱、米比協力の「赤龍作戦」など、個別の象徴的事件が連なる一方で、背景には植民地期の統治構造と資源の政治地理、急激な権力移行に伴う行政・軍の未整備という構造的問題がありました。以下では、独立と発火、国連と大国の介入、政変と内戦の拡大、収束と制度的帰結という観点から、複雑な危機の全体像をわかりやすく整理します。
独立と発火—レオポルドヴィルからエリザベートヴィルへ
1960年6月30日、ベルギー領コンゴは急転直下の政権移行で独立し、国家元首カサヴブ、首相ルムンバの下でコンゴ共和国(のちのコンゴ民主共和国、旧ザイール)が誕生しました。植民地期は初等教育偏重で高等行政人材の養成が乏しく、司法・軍・官僚の中核はなおベルギー人に依存していました。独立式典でルムンバが植民地支配の不正を弾劾する演説を行い、旧宗主国との緊張は表面化します。
引き金は、独立直後に国軍(フォース・パブリック)が待遇改善と人種差別の撤廃を求めて蜂起した「軍反乱」でした。指揮官ルンドゥラらの動きは、欧人居住区の襲撃と退避を誘発し、ベルギー軍は自国民保護を名目に軍事介入します。これに呼応し、7月11日には鉱産資源豊かなカタンガ州で州首相モイーズ・ツォンベが分離独立を宣言、ついで南カサイでアルベール・カロンジが自治を主張し、国家は複数の権力中心に分裂しました。鉱業会社ユニオン・ミニエール(UMHK)などの経済利害と旧宗主国の思惑は、分離政権の後ろ盾となり、中央政府との軋轢を深めます。
中央政府はベルギー軍の撤収と国内秩序回復を求め、アフリカ諸国の支持を背景に国連に援助を要請しました。冷戦のただ中、コンゴは一挙に国際政治の焦点に躍り出ます。
国連介入と大国の関与—ONUCの任務、ハマーショルドの墜死、東西の影
国連安全保障理事会の決定で派遣された国連コンゴ活動(ONUC)は、アフリカとアジアを主力とする多国籍部隊でした。任務は(1)ベルギー軍の撤退促進、(2)治安維持と人道支援、(3)国家主権の回復支援、と定義され、内戦当事者化を避けつつ分離州の承認を拒むという、難易度の高いバランス運用を強いられました。初期には鉄道・空港・通信の確保や民間人保護に重点が置かれ、中央政府軍の指揮下に入ることは避けられました。
やがて、カタンガの分離状態が長期化し、海外傭兵と企業の支援が明白になるにつれ、ONUCは段階的に強制力の行使へ舵を切ります。1961年9月、国連部隊はエリザベートヴィル(現ルブンバシ)一帯でカタンガ側の軍事力を排除する作戦を実施(モートア作戦)し、停戦交渉のために飛行したダグ・ハマーショルド国連事務総長の搭乗機が北ローデシア(現ザンビア)・ンドラ近郊で墜落、本人を含む同乗者全員が死亡しました。事故原因は諸説あるものの、国連外交の最中枢が現地で失われた衝撃は大きく、国連の関与の正当性とリスクを世界に印象づけました。
米ソは直接介入を避けながらも、情報・資金・顧問・航空輸送で影響力を競いました。米国はルムンバ政権のソ連接近を警戒し、対立勢力との連携・資源の安定供給・欧州同盟国との協調を重視しました。ソ連は中央政府への支持表明と国連批判を行いつつ、アフリカ解放の象徴としてコンゴ問題を利用します。フランスやベルギーは民間会社・傭兵ネットワークを通じて現地に関与し、アフリカ諸国はそれぞれの理念と安全保障計算にもとづき国連派兵や外交支援を行いました。
政変と内戦の拡大—ルムンバ失脚、ツォンベの台頭、シンバ反乱と赤龍作戦
国内政治は短期間で激変します。1960年9月、国家元首カサヴブは首相ルムンバを解任し、ルムンバはこれを拒否。権力の二重化の中、参謀長モブツは「中立化」を掲げてクーデタを敢行し、政治家の活動を凍結して「技術者政府」を名目上樹立しました。ルムンバは東部へ移動して支持基盤の再結集を図る途上で拘束され、1961年1月、カタンガへ移送の後に殺害されます。この暗殺は国内外に深い衝撃を与え、ルムンバは以後、アフリカ解放と反植民地主義の殉教者として記憶されることになります。
一方、カタンガではツォンベが分離政権を維持しつつ国際交渉の場に現れ、国連との衝突と停戦を繰り返しました。1962–63年、ONUCは段階的な武装解除と行政統合を進め、1963年末までにカタンガ分離政権は崩壊します。しかし国家の安定には至らず、1964年には東部で「シンバ(ライオン)反乱」が拡大しました。これは民族主義・社会的急進主義を掲げる勢力の連合で、スタンリーヴィル(現キシンガニ)などを制圧し、欧人・コンゴ人双方の捕虜・人質問題が国際的関心を集めます。
同年秋、新たに首相に就いたツォンベは西側の支援で反乱鎮圧を進め、ベルギー空挺部隊と米軍輸送機、さらにフィリピン人パイロットや傭兵を動員して「赤龍作戦(ドラゴン・ルージュ)」を敢行しました。作戦はスタンリーヴィルの空港を強襲して人質救出と都市奪還を図るもので、多数の人命が救われた一方、報復的殺害や混乱による犠牲も発生しました。続く「黒ドラゴン」「青ドラゴン」などの派生作戦と併せ、シンバ勢力は東部森林地帯へ後退しますが、完全な平定には至らず、地域の不安定は尾を引きました。
1965年、選挙と連立交渉の混乱の末、モブツは再びクーデタを行い、実権を確立します。以後、国名はザイールへ改称され、モブツの長期体制が冷戦終結まで続くことになります。
収束と制度的帰結—国家建設の再出発、資源と軍の政治、記憶の整理
コンゴ動乱の収束は、単なる治安回復ではありませんでした。第一に、国連は前例のない規模・任務の平和維持活動を通じ、武力行使の範囲、国家主権と人道の関係、内戦における中立性の限界といった難題に直面しました。ONUCの経験は、その後のPKOの教訓(交戦規則、民間人保護、現地警察・行政支援)となり、国連の制度設計に大きな足跡を残します。
第二に、国内政治では軍の役割が決定的に拡大しました。モブツは軍と治安機構を独自の庇護ネットワークで囲い込み、資源収入と外援を梃子に統治基盤を固めました。これは、動乱期に露呈した「行政・軍の脆弱性」を補うための現実的選択でもありましたが、同時に汚職・個人支配・地方疎外を深刻化させ、後の破綻の土壌を作りました。資源(銅・コバルト・工業ダイヤ)と政治の結びつきは、動乱期に転形したグローバルな利害連結の継続でもあります。
第三に、社会的には都市と地方の断絶、教育・医療の崩壊、難民・国内避難民の発生が長期の影を落としました。都市の非正規経済は生存戦略として拡大し、ディアスポラは近隣諸国・欧米に広がりました。動乱期の暴力と介入の記憶は、国内の記憶文化や政治言説、博物館・記念碑の設計にも影響し、ルムンバやハマーショルド、ツォンベ、モブツらの評価は、世代と地域によって大きく揺れます。
最後に、用語の整理です。「コンゴ動乱」は1960–65年の広義の危機を総称する語で、個別事件—カタンガ分離、南カサイ問題、ルムンバ暗殺、ONUCのモートア作戦、シンバ反乱、赤龍作戦—は相互に連鎖しています。舞台名も歴史的呼称が変遷します。レオポルドヴィル(現キンシャサ)、エリザベートヴィル(現ルブンバシ)、スタンリーヴィル(現キシンガニ)などの旧称・新称の対応を押さえると理解が進みます。また、「コンゴ共和国(ブラザヴィル)」は対岸の別国家で、動乱の中心は旧ベルギー領側であった点も混同しないことが重要です。
総じて、コンゴ動乱は、植民地から独立国家への急激な移行が、資源・軍・国際政治の三重の圧力の下でいかに脆弱であったかを示す事例です。個々の劇的な事件の背後に、行政人材の不足、軍の職業化の遅れ、地方多様性の統合の難しさ、外部アクターの利害の交錯がありました。危機は1965年の体制転換でいったん収束しますが、その根は長く残り、のちの1990年代の紛争へと連続していきます。歴史を辿る際には、センセーショナルな局面だけでなく、制度と日常のほころびを丁寧に読み解くことが、この動乱の理解に役立ちます。

