カニング – 世界史用語集

「カニング」は、通常は19世紀前半のイギリス外相・首相ジョージ・カニング(George Canning, 1770–1827)を指す歴史用語です。彼はウィーン体制下で「英国の孤立(splendid isolation)」の萌芽を示し、神聖同盟の大陸反動に距離を取りつつ、自由主義的通商と海軍力を背景にイギリスの国益拡大を図りました。とりわけ1820年代のラテンアメリカ独立諸国の承認、ポルトガル憲政体制の支援、ギリシア問題の仲介などで、欧州大陸の干渉主義から一歩退きつつ、海洋世界での影響力を強める方向を打ち出したことで知られます。一方、日本史・世界史の教科書や資料集では「インド大反乱(1857)の鎮圧と英領インド統治の再編」を担ったインド総督・初代インド総督(Viceroy)チャールズ・カニング(第1代カニング伯, 1812–1862)を指す場合もあります。本項では、語の用法上の曖昧さに配慮しつつ、中心にジョージ・カニングを据えて解説し、最後に補節としてチャールズ・カニングの要点をまとめます。

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誰を指す用語か――同名人物と文脈の見分け方

世界史用語「カニング」は文脈で意味が分かれます。19世紀前半の欧州外交やラテンアメリカ独立、ウィーン体制、モンロー宣言との関係が語られているなら、まずジョージ・カニングを指します。他方、1857年のインド大反乱、東インド会社の廃止、インド統治法(1858)、初代インド総督の設置などの記述に出る「カニング卿」は、チャールズ・カニングを意味します。両者は親族関係にあり(チャールズはジョージの姪婿であり、後に第1代カニング伯の称号を継ぐ家系)、19世紀前半〜中葉の英国外交・帝国統治の重要局面にそれぞれ名を刻みました。

ジョージ・カニング――経歴・外交理念・主要政策

ジョージ・カニングはアイルランド系の家に生まれ、イートン校とオックスフォードで学んだのち、若くして政治の世界に入りました。演説の名手として頭角を現し、ピット小ピットの流れを汲むトーリー系の政治家として、ナポレオン戦争期・戦後の長い外交舞台で要職を歴任します。1807年には外相・下院院内総務として入閣しますが、陸相キャッスルレー(カースルレイ)との確執が高じて決闘事件に至り、一時政界を離れました。その後インド庁長官などを経て、1822年、キャッスルレーの死去後に再び外相に就任、1827年には首相に上り詰めますが、就任わずか数か月で病没しました。

彼の外交理念を一言で表すなら、「大陸の反動と距離を取りつつ、海洋と通商で英国の影響力を最大化する現実主義」です。ウィーン体制下の欧州では、神聖同盟(オーストリア、プロイセン、ロシア)が革命・自由主義運動を抑え込むため干渉主義をとりました。カニングは、英国が『秩序の回復』の名の下に大陸の内政へ深入りすることには慎重で、むしろ海軍力と通商利益、植民地・海上交通の安全保障に資源を振り向けました。

(1)ラテンアメリカ独立諸国の承認――1820年代初頭、スペイン帝国のアメリカ植民地は次々に独立を達成します。神聖同盟がスペイン側支援のため軍事干渉を議論する一方、米国は1823年にモンロー宣言を掲げ「欧州の新たな植民を拒否」を表明しました。カニングは米国と同床同夢ではなく、英国単独の自由裁量を重んじつつ、1824〜25年にかけてメキシコ、コロンビア、ブエノスアイレス(のちアルゼンチン)などを順次承認し、通商条約を締結します。彼の狙いは、旧宗主国スペインの復権や大陸の集団干渉を牽制しつつ、新生国家群との貿易・投資で英国が主導的地位を確保することでした。これにより、ラテンアメリカ市場は急速にロンドン資本・商船・保険に結びつきます。

(2)ポルトガル憲政体制の擁護――1820年代、ポルトガルでは自由主義憲章をめぐって内乱状態にあり、保守勢力(のちのドン・ミゲル)が絶対主義回復を志向していました。1826年、カニングは古い英葡同盟を根拠に英軍を派遣してリスボンの憲政体制を支援し、スペインや神聖同盟勢力の干渉を抑止しました。軍事的介入といっても、目的は覇権的介入ではなく、海上交通と条約関係の安定を守るための限定的関与であり、彼の「大陸不関与・海洋関与」のバランス感覚をよく示します。

(3)ギリシア問題への関与――ギリシア独立戦争(1821–29)に対し、カニングは当初は慎重でしたが、ロシアの単独行動による地中海勢力均衡の破綻を危惧し、最終的に英仏露の三国調停路線に進みます。1827年7月のロンドン条約は、その枠組みを定めたもので、これは彼が首相に就いた直後の成果でした(同年10月のナヴァリノ海戦は彼の死後ですが、道筋は彼の下で整えられました)。目的は人道主義だけでなく、ロシアの南下とオスマン帝国の動揺が英国の東地中海・インド航路に与える影響を管理することにありました。

(4)通商自由化と海洋覇権の強化――カニングの時期、貿易政策の実務はハスキソンら通商当局者が担いましたが、彼は全般として保護主義的独占よりも通商自由化を支持し、航海法の運用緩和や新興市場との条約網拡大を後押ししました。これは、英国が製造業と海運・金融で優位に立つ現実に即した戦略であり、自由貿易帝国(informal empire)の方向性を早くも示したと評価されます。

こうした政策は、ウィーン体制の「大陸の集団安全保障」とは別の、英国流の秩序観を提示しました。彼はかつて「新世界を旧世界の均衡へと呼び出した」と述べたと伝えられますが、その要旨は、ラテンアメリカという新たなプレイヤーの承認と通商関係を通じ、欧州大陸内の力学に外部の重しを加えるという発想にありました。

評価と限界――カニング外交は何を遺したか

カニング外交の長期的意義は三点に要約できます。第一に、海洋中心の国益追求を明確にし、神聖同盟型の内政干渉から距離を取ったことで、英国を「大陸の番人」ではなく「海上覇権の調律者」に位置づけ直しました。第二に、自由貿易帝国の原像を示し、植民地獲得ではなく市場と規範(通商・金融・保険・法)のネットワークで影響力を行使する道を広げました。第三に、新興国家群との関係設計において、承認と条約の組み合わせで秩序形成を図る手法を確立し、後世の国際法・外交慣行にも影響を与えました。

同時に限界も明確です。第一に、ラテンアメリカ承認は人道や民族自決の理念というより、英国の通商利益と対露・対仏の力学管理に根ざすもので、旧宗主国や在地社会の混乱・内戦には深く踏み込みませんでした。第二に、ギリシア問題でも人道と勢力均衡の綱引きが続き、結果としてオスマン帝国の弱体化とロシアの影響拡大をどこまで抑制できたかは評価が割れます。第三に、内政面ではカトリック教徒解放や選挙制度改革などの大問題に取り組む時間がなく、彼の早逝は政策の継続性を断ちました。カニング流の現実主義は、理想主義でも覇権主義でもなく、海上権と通商の組み合わせに特化した「イギリス的実利」の際立つ外交だったと言えるでしょう。

(補)第1代カニング伯チャールズ・カニング――インド統治の転換点

1857年、ベンガル軍を中心にインド各地で大規模な反乱・戦争が勃発しました(インド大反乱/セポイの反乱)。当時のベンガル総督〈総督=Governor-General〉であったチャールズ・カニング(後に第1代カニング伯)は、長期戦のなかで報復的鎮圧に傾く現地司令官や世論を抑え、可能な限りの寛容と法的手続きを重視しました。この態度は敵対者から「クレメンシー・カニング(寛大なカニング)」と嘲られる一方、のちの和解と再統合の前提を整えるものでもありました。

反乱を契機として、イギリス政府は東インド会社を廃止し、インド統治法(1858)によってインド支配を王権直轄に切り替えます。カニングは初代インド総督(Viceroy)となり、植民地軍の編制改革(ヨーロッパ人兵力の比率増加、砲兵の英軍直轄化など)、地主制・土地税制の見直し(とくにアワド/オードの復旧措置)、宗教・慣習への過度の干渉を避ける新方針の確立などを進めました。さらにインド参事会法(1861)で立法評議会へのインド人任命を制度化し、限定的とはいえ協議の場を設けます。刑法典の整備(1860のインド刑法典)は法秩序の近代化を進め、治安と裁判の枠組みを統一しました。

チャールズ・カニングの統治は、強権的鎮圧と懐柔の中間でバランスをとるもので、反乱後の英領インド体制—藩王国(ネイティヴ・ステート)の温存、宗教慣習への配慮、交通・通信(鉄道・電信)の拡張、徴税と司法の官僚制化—の基本線を定めました。彼に対する評価は、民族主義的視点と帝国史の視点で割れますが、転換期の制度設計者としての重要性は共通して認められます。

以上のように、「カニング」は19世紀英国の二人の政治家を指し、そのどちらも国家の方向を定める岐路に立ちました。ジョージ・カニングは海洋と通商を軸に大陸干渉から距離を置く外交を、チャールズ・カニングは反乱後の英領インド統治の再編を担いました。用語として出会ったときは、文脈—欧州外交かインド統治か—を手掛かりに、どちらのカニングなのかを見分けることが、史料理解の第一歩になります。