五港(五口)通商章程 – 世界史用語集

「五港(五口)通商章程」は、1842年の南京条約で開港された広州・厦門(アモイ)・福州・寧波・上海の五港における貿易実務の枠組みを詳細に定めた取り決めで、1843年10月に虎門(フーメン、英語名 The Bogue)で清とイギリスの間に締結された補充協定群(通称「虎門条約」)の中核文書です。正式には①中英五口通商章程と②五口通商税則から成り、領事駐在や関税率、通商規則、関税徴収の手続などを細かく規定しました。これにより、条約港での外国商人の居留と営業、領事裁判権(治外法権)、最恵国待遇、低率の協定関税(一般に5%前後)といった「不平等」な通商体制が制度化され、のちの米国(望厦条約)・フランス(黄埔条約)など諸国との条約に連鎖し、清朝の対外体制を大きく転換しました。本章程は、単なる貿易の技術規則にとどまらず、租界形成や税関の近代化、沿岸物流の再編、上海の台頭といった19世紀中国の構造変化を引き起こした出発点として位置づけられます。

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成立の背景と位置づけ:アヘン戦争後の「補充条約」

1840~42年のアヘン戦争の敗北により、清は南京条約を締結しました。これにより香港割譲、五港開市、賠償金支払い、行商(公行)制度の廃止などが決まりましたが、実際にどのような税率で、どのような書類と手順で入出港や通関、居留・訴訟・警備を運用するのかは未整備のままでした。そこで翌1843年、欽差大臣・耆英ら清側全権と、ポッティンジャー(N. Pottinger)ら英側代表の間で、南京条約の履行細目として虎門で追加取り決めが結ばれます。これが「虎門条約」であり、その中心に置かれたのが五港通商章程と税則でした。

五口通商章程は、五港における貿易と居留の基本秩序を定め、同時に署名された五口通商税則は、品目別の関税率と計算方法、検量・検尺の基準、港湾手数料(灯台・碇泊・量目手数)などを規定しました。これらは英清間の取り決めですが、南京条約に付属した「最恵国待遇」の結果、米仏ほか各国が類似の条件を引き出し、清の対外通商は原則としてこれらの規矩に従うことになります。

内容の骨子:領事・治外法権・最恵国待遇・協定関税・通商手続

章程・税則の中身は多岐にわたりますが、歴史上とくに重要な要素を以下に整理します。

① 領事駐在と領事裁判権(治外法権):各開港場に英国領事の駐在を認め、英人の民刑事事件は原則として英領事(および本国法廷)の管轄に付すと定めました。これは清の司法権の限定を意味し、後続条約で米仏ほかにも及びます。清国民と英国民の紛争は領事と清官吏の共同審理などの形をとり、以後の「領事裁判制度」の雛形となりました。

② 最恵国待遇(Most-Favored-Nation, MFN)

イギリスが清から将来さらに有利な待遇を与えられた場合、他国にも自動的に波及する、または英が他国に与えた利益を英にも与えるという趣旨の最恵国条項を確認しました(文言は条約間で細部差があるものの、実務上は横並び原則が確立)。これにより、個別に獲得された譲歩が連鎖し、「不平等条約体制」が一挙に多国間へ拡張します。

③ 協定関税と税関実務:五口通商税則は、一般的に輸出入とも従価5%程度を標準としつつ、品目ごとの細目(生糸・茶・綿布・綿糸・砂糖・酒類・鴉片を含む多種類)を掲載しました。税率の固定は、清が関税政策で産業保護や財政運営を弾力的に行う余地を狭め、「関税自主権」の喪失と評されます。他方で、称量・検査・通関書類・関税納付のプロセスが標準化されたことで、貿易コストは低下し、港間でのルールの一貫性が高まりました。

④ 居留・交易・航行のルール:英人商人は各港の指定区域内に居留し、家屋・倉庫の賃借・建設が可能になりました。港外・内地への自由旅行は原則として許可制で制限されましたが、のちに航路・通商範囲は段階的に拡大します。内海沿岸の沿岸航路(カボタージュ)や河川航行は当初制限的でしたが、後年の追加条約・租界行政の発達により、実質的な広がりを見せます。

⑤ 官民取引の撤廃と自由貿易化:広州で長らく貿易仲介を担ってきた行商(公行)を廃し、外国商人は中国商人と直接取引できるとしました。これにより、買弁(コンプラドール)と呼ばれる新しい仲介層が勃興し、商社・銀行・保険・海運が連動した条約港経済が形成されます。

⑥ 通商に付随する行政規定:検疫・船舶の信号・港内規律、灯台・停泊料、密貿易の取締り、港湾施設の使用、兵器・塩など禁制品の扱い、官吏・領事間の連絡手順が明文化されました。これは在来の「通事(通訳)—牙行—官府」の慣行依存から、文書基準にもとづく「近代的手続」への転換でもありました。

実施と波及:租界・上海の台頭・税関と近代物流の誕生

章程の施行により、各地の開港場では外国人居留地(のちの租界)が形成され、領事館・商館・倉庫・ドック・ミッション(宣教所)・病院・学校などが整備されていきます。とりわけ上海は、長江・大運河・沿岸航路の結節に位置し、江南・湖広・江北の物資集散と金融の中枢へと急速に成長しました。外国貨物の輸入(綿製品・機械・金属)と中国の輸出(茶・生糸・砂糖・大豆・豆粕など)が拡大し、保険・為替・海運・倉庫証券(河用票据)といった金融・物流の近代的制度が広がります。

税関制度も大きく変貌します。当初は各港の海関が清官吏の管理下にありましたが、徴税と監督の効率化のために、やがて江海関—税関総税務司を中心とする「中国海関(Imperial Maritime Customs)」体制が整い、洋務運動期の海関改革と結びついて、統計・検疫・灯台・航路標識事業が発展しました。これは、清末民初の財政近代化と国家機能の再編を支える重要な足場になります。

社会面では、条約港に中国人の居留・就業が集中し、都市文化とメディア(新聞・写真・印刷)、教育(新式学堂)、法律実務(弁護士・代書)、娯楽(劇場・茶館)などの新しい職能と空間が生まれました。他方で、アヘン貿易の合法化・拡大(税則による課税対象化)、銀流出と銀相場の変動、地域間の産業格差、華南・華中の手工業の打撃といった負の影響も顕著でした。港湾労働者やクーリーの過酷な労働、買弁・商人層の急速な富裕化と都市下層の貧困化という二極化も進みます。

国際関係への影響:不平等条約体制と「開港—治外法権—協定税率」のトライアド

五口通商章程は、清朝の対外関係を構造的に変えました。第一に、最恵国待遇により、英清間の譲歩が米国(1844望厦条約)・フランス(1844黄埔条約)などに連鎖し、さらに1858年の天津条約群・1860年北京条約で通商・布教・内地旅行・租界行政が拡大・固定化します。第二に、治外法権は、清の主権的司法権を条約港で分割し、警察・裁判・刑罰の運用を複線化しました。第三に、協定税率は、保護関税や産業政策としての関税操作を封じ、清財政の重要収入を外国勢力の監督下に置く結果をもたらしました。

この三位一体の枠組みは、近代中国の「半植民地」的性格を決定づけたと論じられます。他方で、国際私法・商事法・海商法・破産法といった法分野の整備、郵便・灯台・航路標識・検疫といった公共インフラの導入、国際金融・保険・標準計量の普及など、近代経済の制度移植が加速した側面も否定できません。洋務運動(自強運動)は、まさにこの外圧と制度移植の矛盾の中から生まれた国家再生の試みでした。

評価と歴史的意義:技術規則から体制原理へ

五港通商章程は、一見すれば港湾管理と通関手順の「技術的規則」にすぎません。しかし実際には、(A)司法主権の限定、(B)関税主権の喪失、(C)最恵国待遇による国際条件の固定化、(D)居留地行政の制度化、という四重の変化を導きました。これにより、条約港は単なる「貿易の窓口」から、法・警察・税・金融・教育・文化の複合的な制度空間へと変貌し、清の内外秩序に恒久的な改編を促したのです。

長期的に見ると、章程のもとで形成された都市・金融・物流ネットワークは、辛亥革命後の中華民国期にも引き継がれ、上海・天津・漢口などの都市経済は、中国の工業化・銀行化の前線になりました。同時に、不平等条約撤廃と関税自主権回復(1928関税会議、1930年以降の関税改正など)をめぐる外交・内政の焦点が、20世紀半ばまで継続します。五口通商章程は、近代中国の「出発点」と「制約条件」を同時に刻印した文書だったと言えます。

要するに、五港(五口)通商章程は、アヘン戦争後の開港を実務化し、条約港の制度世界を立ち上げた基本法でした。そこから生まれた居留・司法・税関・金融・物流の諸制度は、中国社会を深く変え、同時に清国家の主権を削るものでした。光と影の両面を持つこの章程を理解することは、東アジアの国際関係と近代化のダイナミクス—外圧・内発・社会変容—を読み解く鍵となるのです。