「国王至上法(首長法)」は、イングランド宗教改革の転回点となった立法で、主として1534年のヘンリ8世による制定(The Act of Supremacy 1534)と、1559年のエリザベス1世による再制定(The Act of Supremacy 1559)の二本を指します。要点は、ローマ教皇ではなくイングランド国王(のち女王)こそが「イングランド国教会(Church of England)の最高権威である」と法律で宣言し、王権が教会統治に最終的決定権を持つと定めたことです。1534年法は国王を“Supreme Head(至上首長)”とした急進的断絶を定式化し、王への忠誠誓約を義務づけ、違反者を反逆罪として処罰可能にしました。カトリック勢力の巻き返しで一時廃止されたのち、1559年法は称号を“Supreme Governor(至上総督)”に緩和しつつ、王権優位の枠組みを恒久化し、以後のイングランド(のちイギリス)における〈国家と教会〉の関係を長期に規定しました。概念の芯だけ押さえるなら、〈ローマからの離脱→王を教会の最終権威に→誓約と監督で制度化→エリザベス期に持続可能な形へ調整〉という流れです。
背景と成立――ヘンリ8世の断絶と1534年法の骨格
16世紀前半、ヘンリ8世はカトリック世界の君主でしたが、王妃キャサリン・オブ・アラゴンとの婚姻無効を求めたことが転機でした。男子後継者確保と王位継承の安定という政治的要請に、ローマ教皇庁(クレメンス7世)が消極姿勢を崩さず、外政・内政の焦りが高まります。トマス・クロムウェルやトマス・クランマーら改革派官僚・聖職者は、〈王国の教会は王国の法の内にある〉という「王国教会主義(エラスト主義)」の論理を整え、次々にローマとの法的な回路を切断しました。
この前段として、1532年の聖職者服従法(Submission of the Clergy)は、聖職者の立法権を王の監督下に置き、1533年の大権留保法(Act in Restraint of Appeals)は、教会裁判の最終上訴をローマへ持ち出すことを禁じ、「この王国は帝国である」と自立を宣言しました。さらに1534年の王位継承法(Act of Succession)がアン・ブーリンとの間の子を正嫡とし、王と新継承秩序への誓約(Oath)を義務づけます。
こうした法制化の帰結として、1534年の国王至上法(Act of Supremacy 1534)が成立しました。法は、国王を「イングランド教会の至上首長(Supreme Head)」と規定し、教会の教導・統治・規律に関する究極の監督権を王権に帰属させます。併せて反逆法(Treason Act 1534)が制定され、王の至上首長権を否定したり、口頭・文書で教皇権を認めたりする行為を反逆罪に問えるようにしました。大法官を務めたトマス・モア、ロチェスター司教ジョン・フィッシャーら良心的反対者は誓約を拒み、処刑されています。
至上首長権は理念だけではなく、組織と財政の大転換をも伴いました。王権は司教任命や教会法の承認に決定権を持ち、教会裁判の最終審は王の名で下されます。1536年以降の修道院解散(Dissolution of the Monasteries)は財政・統治両面で決定的でした。王室は修道院の土地・資産を没収・処分し、王室財政の強化と新興ジェントリ層の形成を促しました。他方、伝統的信心と地域共同体の要であった修道院の消滅は社会不安を招き、1536年の恩寵の巡礼(Pilgrimage of Grace)と呼ばれる大規模反乱が北部で発生します。反乱は鎮圧されましたが、宗教・地域・身分を横断した緊張が表面化しました。
運用と反作用――誓約・監督装置・処罰、そして一時的巻き戻し
1534年法の運用は、誓約制度と監督装置で支えられました。王権は聖俗の官職者に至上首長への忠誓誓約を課し、不服従者を排除・処罰します。司教区では王の代理として諮問官・巡察使が教会規律や説教内容、典礼の遵守を点検し、教会財産の把握と改革の進捗を監督しました。聖像・巡礼・聖遺物崇敬の抑制、英語聖書の普及、説教の統制などが段階的に進み、カトリック的実践は「迷信」として整理されていきます。
しかし、ヘンリ8世の改革は教義レベルでは折衷的でした。教会統治は王の下に置きつつ、典礼や多くの教義は従来を温存する局面も多く、プロテスタント急進派とカトリック保守派の双方と綱引きが続きました。王の死後、宗教政策は短期で大きく揺れます。エドワード6世(1547–53)期には祈祷書整備・教義改革が進み、メアリ1世(1553–58)期にはローマとの関係回復と旧教回帰が断行され、1534年法は廃止されます(プロテスタント弾圧も実施)。この振り子運動は、宗教的内戦を避けたい政治エリートの危機感を強め、安定的な折衷体制への志向を育てました。
1558年に即位したエリザベス1世は、教義・典礼・統治の三面で「エリザベス的宗教和解(Elizabethan Settlement)」を設計します。その柱の一つが1559年の(再)国王至上法(Act of Supremacy 1559)でした。
1559年法の調整――「至上首長」から「至上総督」へ、持続可能な教会国家
1559年の再制定は、1534年の骨格を維持しつつも、語と制度を調整して持続可能性を高めました。第一に、君主の称号が“Supreme Head(至上首長)”から、より含みのある“Supreme Governor(至上総督)”へ改められます。これは、キリストのみが教会の「頭(Head)」であるという神学上の配慮や、女性君主(エリザベス)の宗教的権威をめぐる反発を和らげる現実的措置でした。
第二に、国家による監督装置の明文化です。1559年法は、国王(女王)が委任する委員(Commissioners)に教会規律の監督と違反の摘発権限を与え、のちに高等宗務法廷(Court of High Commission)として制度化されます。第三に、誓約の再設定です。王権に仕える官吏・聖職者に至上総督への誓約を求め、拒否者は免職や処罰の対象となりました(ただし一般国民への一律強制は避ける運用もあり)。
同年の統一法(Act of Uniformity 1559)と併走し、英語祈祷書と礼拝形態の統一、典礼不参加者(レキューサント)への罰金などの枠組みが整えられました。これにより、教義は中庸的カルヴァン主義、典礼は英国的折衷、統治は王権監督という「国教会の三位一体」が成立します。1570年にローマ教皇がエリザベスを破門(勅書Regnans in Excelsis)すると、治安・外交環境は緊張し、至上総督体制はより厳格に運用されましたが、基本枠組みは17世紀を通じて維持されました。
長期的に見ると、1559年法は〈宗教的多様性を抱えた王国を、統一的法秩序の下に束ねる装置〉として機能しました。清教徒(ピューリタン)やカトリックの抵抗・順応は時期によって揺れ、内戦と共和政(1640年代)・王政復古(1660)を経ても、国家が教会に優越する原則は大枠で残り、のちの寛容化(寛容法1689)や職制資格法(テスト法の廃止)といった調整を重ねて現在へ続きます。
射程と比較――教権から国制へ、島内外の多層的影響
国王至上法の射程は、単なる宗教政策を超えて、イングランドの国制を組み替えるものでした。第一に、王権が教会組織・教会財産・教会法に対して最終審の権能を持つことで、立法(議会)・行政(王権)・司法(王名裁判権)と教会司法の境界が再定義されました。第二に、修道院財産の世俗化と聖職任用の王権掌握により、土地所有と地方統治の勢力地図が更新され、新興地主・行政エリートが台頭しました。第三に、誓約制度は、宗教上の忠誠と政治上の忠誠を重ね合わせ、臣民の〈公共の言語〉を編成する効果を持ちました。
比較の視点では、フランスのガリカニスム(フランス教会主義)や、神聖ローマ帝国の帝国教会体制、日本の近世における寺檀制度など、国家が宗教組織を行政装置として統合・監督する諸形態と通底します。ただし、イングランドの場合は議会立法による制度化と、英語典礼・教義折衷の組み合わせが独自でした。スコットランドでは長老制(プレスビテリアン)教会が国家教会となり、王の至上権は別様の形で現れ、アイルランドでは国教会の設置が多数派カトリックと鋭い断層を生みました。
その後の修正として、非国教徒・カトリック解放(1829)、アイルランド国教会の廃止(1869)、ウェールズの国教会解体(1920)などが重なり、島内の宗教制度は多層化しますが、イングランドにおいて王(女王)が国教会の「世俗的首座」であるという慣行は残り、現代でも戴冠式や主教任命に象徴的・制度的影響を及ぼしています。つまり、1534年法と1559年法で定められた「王権の教会監督」という原理は、表現と範囲を調整しながら長期の制度史を貫いているのです。

