「五月危機(五月革命)」は、1958年5月にフランスで生じた政変過程の呼称で、アルジェリア戦争の泥沼化を背景に、アルジェ(当時はフランス領アルジェリアの中心都市)で軍・入植者が「救国委員会」を樹立してパリ政府に圧力をかけ、第四共和政の議院内閣制が行き詰まり、シャルル・ド・ゴールが非常権限と憲法改正委任を受けて復帰、翌1958年に第五共和政が発足するまでの一連の動きを指します。アルジェでの群衆蜂起と軍の介入、パリ政界の混乱、共和国大統領の「ド・ゴール要請」、空挺部隊の本土強襲計画(作戦名レザレクシオン=復活作戦)の噂——これらが同時進行で高まり、国家の枠組みが文字通り「五月」に組み替えられたため、この名で呼ばれます。事件はクーデターで終わらず、国民投票で新憲法が承認されるという制度的出口に結びつき、フランス政治を半大統領制(強い行政府)へと転換させました。概要だけ掴むなら、〈アルジェリア戦争の危機→アルジェ蜂起と軍圧力→ド・ゴール登場→非常権限・新憲法→第五共和政〉という流れです。
背景──第四共和政の不安定化とアルジェリア戦争
1946年に成立した第四共和政は比例代表制を基調に複数党の連立で政権を回していましたが、内閣平均寿命が短く、植民地政策や経済・社会政策の大綱で決定が遅れがちでした。1954年にアルジェリアで民族解放戦線(FLN)が蜂起し、独立戦争が本格化すると、入植者(ピエ・ノワール)と軍は「アルジェリアはフランス不可分の一部」と位置づける頑強な統合主義を掲げ、パリでは和平交渉派・強硬派が割れて、政権は対応を誤れば倒れる不安定な局面に陥ります。1958年春、第四共和政は再び内閣更迭の局面を迎え、ピエール・プリムラン(ピエール・プルムラン/ピエール・プフリムランとも表記)の首班指名をめぐって国会が紛糾していました。
こうした制度疲労の上に、フランス軍の「政治化」が重なります。インドシナ戦争敗北の痛手(ディエンビエンフー、1954)とアルジェリアでの対ゲリラ戦の苛酷な現実は、軍の士気とメンツを大きく傷つけ、文民政府への不信を助長していました。入植者社会は「パリは我々を見捨てる」との危機意識を共有し、軍と民間強硬派の協働体制がアルジェで出来上がっていきます。
危機の展開──アルジェの「救国委員会」からド・ゴール招請へ
1958年5月13日、アルジェで戦没者追悼式が抗議集会に転化し、群衆と入植者民兵、空挺部隊の一部が総督府を襲撃。将軍たちは秩序回復の名で「公の安全委員会(救国委員会)」の樹立を宣言し、その議長に空挺部隊でアルジェ駐留軍の中核を担ったジャック・マス将軍(通称マシュー/マス)を推します。彼らは「対FLNで勝利を」と唱えつつ、パリに「国家の指導者」を要求し、その名にド・ゴールを挙げました。これに拍車をかけたのが、空挺部隊がコルシカ島を無血占拠した「革命のための試験飛行」で、次は本土パリへ空挺強襲(復活作戦)か、という噂が一気に広がります。
パリでは、下院がプリムランの首相信任を審議する最中で、アルジェからの圧力は「議会主権」に対する軍・入植者の挑戦と受け止められました。共和国大統領ルネ・コティは政局収拾のため、かつて自由フランスを率い、1946年に第四共和憲法を批判して政界を去っていたシャルル・ド・ゴール将軍に組閣を要請します。ド・ゴールは「共和国の合法性の中でのみ」権力を引き受けるとし、①6か月の非常大権(政府への立法委任)②新憲法の起草・国民投票提案の権限、を条件に復帰を受諾。1958年6月1日、国民議会は大差でド・ゴールを首相に選出し、政権は合法的に移行しました。
ド・ゴールはただちにアルジェを視察(6月4日)し、名高い「Je vous ai compris(諸君の気持ちはわかる)」演説で熱狂をさらいます。彼は「フランス人の諸君—ムスリムの諸君—フランス系の諸君」など分節化された呼びかけで、アルジェリアにおける〈すべての住民〉への包摂を示唆しつつ、直ちに「統合」か「独立」かを明言しませんでした。この曖昧さは、軍と入植者の支持をつなぎ止める一方、のちに政策が自治・民族自決へ動いた際の反発の火種にもなります。
制度的出口──非常権限と1958年憲法(第五共和政)
六月の非常権限の下で、政府は秩序回復と行政改革を進めつつ、ミシェル・ドブレらを中心に新憲法草案を起草しました。設計思想は、第四共和政で露呈した「議会の断片化と政府の短命」を防ぐことにあり、核心は次の通りです。(1)強い行政府——大統領は首相任免、国民議会解散権、国民投票付託(レフェランダム)、非常時権限(第16条)を持つ。(2)二元代表制——大統領(当初は間接選挙、1962年に国民直接選挙に改正)と議会が並立し、首相は議会に責任を負いつつ大統領の信任を要す。(3)違憲審査——憲法院の創設で、法律の合憲性を事前統制。(4)内閣安定装置——内閣不信任のハードルを上げ、予算法案には政府責任制度(49条3項)などの特則を設ける。
1958年9月28日の国民投票で新憲法は大差で承認され、10月4日に公布、第五共和政が発足しました。新体制下で行われた12月の選挙では、ゴール派(UNR)と保守・中道が優位を占め、12月21日、ド・ゴールは選挙人団によって共和国大統領に選出、1959年1月に就任します。ここに「五月危機(五月革命)」は、軍事蜂起の圧力と制度的な合法手続きの混成という特異な経路を経て、政体転換を実現しました。
アルジェリア戦争の帰趨──自治・民族自決・そして独立へ
ド・ゴール政権は、当初アルジェリアの統合維持を示唆する発言も残しましたが、1959年以降、現実的な出口は民族自決しかないと判断を固めます。「アルジェリア人のアルジェリア(Algérie algérienne)」構想や、自決三選択(独立・フランス統合・自治)を提示し、停戦と住民投票へ向けた交渉の道筋を開きました。これに強硬派の入植者・軍の一部が反発し、1961年にはアルジェの将軍たち(サラン、シャルル、ジュオー、ジレ)による四月クーデター未遂、OAS(秘密軍事組織)によるテロが激化します。にもかかわらず、1962年3月のエビアン協定で停戦と自決が合意され、7月、アルジェリアは独立を達成しました。五月危機から四年、フランスは帝国の終末を制度的に処理し、欧州統合・核抑止・ド・ゴール主義外交へ軸足を移していきます。
評価と意味──「軍の影」と「憲法革命」の二面性
五月危機は、(A)軍・入植者の圧力が議会政治を屈服させた「半ば外圧の政変」と、(B)国民投票を経た新憲法で政体を刷新した「憲法革命」という二面を持ちます。政体の安定化・行政府の強化・合憲審査の導入などは、第四共和政の病理に対する処方箋でしたが、第16条(非常権限)の広さや49条3項の乱用余地など、「強すぎる行政府」への警戒も残しました。実際、第五共和政は長期の政局安定をもたらした一方で、大統領権限の肥大や議会軽視を招きやすいという批判も根強く、任期や共habitation(ねじれ)の経験を通じて均衡の運用が探られてきました。
また、五月危機は「アルジェリアからの逆流(boomerang)」と形容されます。植民地での非常手段(軍の政治化、秘密作戦、入植者社会の動員)が本国政治を揺さぶり、憲政に深い影を落としたという意味です。その後のフランスは、軍の文民統制の再構築、諜報・治安機関の法的統制、政策決定の透明化を課題として引き受けました。反面、植民地戦争の記憶は社会に分断を残し、移民・記憶政治・市民権の議論に長い尾を引いています。
年表(簡略)と主要人物
【1954】アルジェリア戦争勃発(FLN蜂起)/【1956】特別権限法、徴兵増強(第四共和)/【1958年5月13日】アルジェで「救国委員会」樹立、群衆蜂起/【5月24日】空挺部隊がコルシカを無血占拠(復活作戦の前段かと騒然)/【5月29日】大統領コティがド・ゴールに組閣要請/【6月1日】ド・ゴール内閣成立、非常権限と憲法起草の委任/【6月4日】ド・ゴール、アルジェで「諸君の気持ちはわかる」演説/【9月28日】新憲法の国民投票承認/【10月4日】第五共和憲法公布/【12月21日】ド・ゴール、大統領に選出(1959年1月就任)/【1959–62】自決路線、エビアン協定、アルジェリア独立。
主要人物:シャルル・ド・ゴール(将軍→首相→大統領)、ルネ・コティ(第四共和大統領)、ピエール・プリムラン(就任直前の首相指名者)、ミシェル・ドブレ(憲法起草の中核、初代首相)、ジャック・マス将軍(アルジェ救国委員会の顔)、ラウル・サラン将軍(後の反乱将軍)、FLN指導部(ベン・ベラら)。
用語と比較──「五月革命」と他地域の『五月』
日本語で「五月危機(五月革命)」といえば本項の1958年フランスの出来事を指すことが多い一方、「五月革命」はラテンアメリカ史で1810年のブエノスアイレス(アルゼンチン独立の端緒)を意味することもあります。両者は無関係で、前者は〈議会制の行き詰まり+植民地戦争の逆流+将軍の圧力+憲法改正〉、後者は〈宗主国王政の空白を突いた自治政府樹立〉という別の歴史文脈に属します。試験や記述では「1958年仏」「1810年亜」を明示して混同を避けるのが安全です。
学習のポイント(実務的まとめ)
五月危機を理解する近道は、①アルジェリア戦争という「外部要因」が本国制度に刺さった瞬間だと捉える、②第四共和の制度疲労と第五共和の設計思想(強い行政府・合憲審査・非常権限)を対比する、③合法性(国民投票)と暴力の圧力(軍・入植者動員)が交錯した「二重の顔」を押さえる、の三点です。ド・ゴールの「わかった」演説の曖昧さが時間を稼ぎ、最終的に自決と独立へ舵を切った矛盾も、当時の内外力学を理解する糸口になります。最後に、1958年憲法がその後のフランス政治文化(大統領中心・レファレンダム政治)に与えた長期影響を意識しておくと、欧州政治の比較にも応用が利きます。

