「国王派」は、一般に君主の権利や特権を擁護し、政治的対立の局面で国王(女王)側についた勢力の総称です。世界史では場面ごとに意味合いが少しずつ異なりますが、最も典型的な用例は17世紀イングランド内戦の王党派(ロイヤリスト、別名キャヴァリアーズ)で、議会派(ラウンドヘッド)と対峙しました。この項目では、とくにイングランドの事例を中心に、彼らの社会的基盤、思想と要求、軍事・政治の動き、敗北と帰還、そして他地域における「国王派」の応用例まで見通すことで、用語の核心をつかみやすく整理します。要するに、国王派とは〈君主の至上権・慣習法・身分秩序の維持〉を旗印に、急進的な制度変革にブレーキをかけようとする人々を指すことが多いのです。
語の射程と用例の幅──最頻出はイングランド内戦の王党派
「国王派」という日本語は、文脈によって複数の歴史場面を指します。第一に、最頻出は17世紀のイングランド内戦(1642–1651)でチャールズ1世(のちチャールズ2世)を支持した王党派(Royalists / Cavaliers)です。第二に、フランス革命・復古期で王権復活・維持を望んだ保王派(ロワイヤリスト)も国王派と訳されます。第三に、スペイン継承戦争期のハプスブルク支持派や、ラテンアメリカ独立戦争で宗主国の国王に忠誠を誓った勢力、東南アジアの王統争いなどにも「国王派」という説明が当てられます。
ただし、受験・教科書レベルでは、単に「国王派」とあればイングランド内戦の王党派を指すのが通例です。本稿はこの前提に立ちながら、他地域の応用例は最後に簡潔に触れるにとどめます。
イングランド内戦の国王派(王党派)の基盤──社会層・宗教・地方性
王党派の社会的基盤は、伝統的な大貴族・ジェントリの一部、法曹・宮廷人、国教会(アングリカン)聖職者、保守的な都市商人、地方ではカトリックの小共同体などでした。彼らは、君主の特権(課税・官職任命・教会統治)と、身分秩序・地方慣習の維持を重視し、議会の権限拡大や急進的宗教改革に警戒的でした。宗教面では、アングリカンの礼拝と教会制度を守る姿勢が強く、長老制や会衆派の拡張を図る議会側の改革に抵抗しました。地理的には、ロンドンと東部の商工業地帯が議会派の本拠だったのに対し、王党派はウェールズ、西部・北部の農村、北ミッドランド、南西部コーンウォールなどで支持が厚く、地域ごとの経済・宗教・旧来の領主ネットワークが動員の核となりました。
思想的には、王権神授説の純粋形だけでなく、慣習法(コモン・ロー)の秩序やマグナ・カルタ以来の統治の連続性、王権・貴族・庶民の相補性という「混合政体」像を重んじる保守主義が見られます。これは、議会独走や宗教的多元化がもたらす社会不安への懸念でもありました。
内戦の展開と国王派の戦争──戦力・指揮官・転機
1642年、ノッティンガムで王が軍旗を掲げ、内戦が本格化します。初期の王党派は貴族・ジェントリの私兵と地方動員で優勢な局地戦もありました。著名な指揮官に、チャールズ1世の義弟で騎兵に冴えを見せたルパート王子、外交・財政に通じたクラレンス公(のちのチャールズ2世側近)らがいます。騎兵の機動と伝統的な封建動員に依存した王党軍は、訓練・補給・統一指揮の面で制約が大きく、政治・宗教の統一戦略を欠いたことが次第に響きました。
一方の議会派は、オリヴァー・クロムウェルが育てた「鉄騎隊」を核に、新模範軍(ニュー・モデル・アーミー)として全国的に編制を統一し、規律・給与・宗教的モラルの管理で優位に立ちます。転機は1644年のマーストン・ムーアの戦いで、議会派が北部を掌握、続く1645年のネーズビーの戦いで王党派主力が壊滅的打撃を受け、王の文書が押収されて外交工作や内部事情が暴露されました。これにより、王党派は財政・補給の基盤を失い、地方の拠点も次々と陥落、1646年にチャールズ1世は投降へ追い込まれます。
第二次内戦(1648)では、スコットランド勢との連携で王党派が一時反攻するも、議会派に鎮圧され、1649年にチャールズ1世は裁判ののち処刑されました。これは王権神聖不可侵の観念に致命的な一撃を加え、国王派の思想的支柱を動揺させます。
敗北の理由と王党派の内情──資金・制度・宗教の裂け目
王党派敗北の要因は重層的です。第一に、財政・補給の脆弱さです。臨時課税や貴族の私財に頼る動員は持続性に乏しく、海上封鎖で輸入や寄付が細り、ロンドンの金力を掴んだ議会派に劣後しました。第二に、軍事制度の差です。新模範軍の常備・全国統一・士官登用の実績主義に対して、王党軍は封建的・地方分散的で、統一作戦の遂行が困難でした。第三に、宗教・政治の内部分裂です。アングリカン保守・寛容派・カトリック支持層の利害は一致せず、対外的にもカトリック諸国との連携が国内世論の反発を招くなど、統一メッセージの構築に失敗しました。
とはいえ、王党派は単なる反動勢力ではありませんでした。多くの地方紳士は、法と秩序、地元共同体の安定、農村経済の継続を守るための現実主義から国王支持に回っており、議会派の急進的宗教政策や都市優位の課税に対する反感が動員の燃料になっていました。王党派の文化(騎士道・名誉・宮廷趣味)は、文学・演劇・礼式にも影響を与え、政治文化の多様性を支えています。
亡命と復古──王党派の再編、王政復古への帰還
チャールズ1世処刑後、王党派の中核は国外へ退き、王太子チャールズ(のちのチャールズ2世)は大陸で支援を求めます。国内では一部地域で王党残党が蜂起を試みますが、共和政(コモンウェルス)下の軍政に抑え込まれました。クロムウェル死後の権力真空と、軍・議会・市民の離反が重なると、〈秩序の回復〉を求める空気が高まり、1660年に王政復古が実現します。チャールズ2世は比較的寛容な恩赦を発し、国教会を再整備しつつも、議会・法律・財政の枠組みを尊重して旧来の王権絶対化を避けました。王党派も、この新しい条件の下で政界・官僚機構・地方統治に復帰し、17世紀後半の政党政治(トーリー=ホイッグ)の萌芽に関与します。
一方、カトリックを含む広義の国王派の一部は、ジェームズ2世の時代に宗教政策をめぐる新たな亀裂を経験し、1688–89年の名誉革命で再び体制が更新されます。ここで確立するのは、王権と議会が法の下に協働する立憲王政で、国王派といえどももはや「無制限の王権」ではなく、伝統・教会・秩序を基調としつつ議会政治に適応した〈保守主義〉へと姿を変えていきました。
「国王派」という語の比較史──フランス・イベリア・アメリカ大陸の事例
フランス革命期の保王派(ロワイヤリスト)は、ブルボン王政の維持・復活を求めた勢力で、ヴァンデ地方の反乱や亡命貴族の活動、テルミドール以後の政治で影響力を維持します。彼らの主張は王権そのものの神聖化というより、宗教(カトリック)と地方・身分秩序の維持への願望に支えられました。スペイン・ポルトガルでは、ナポレオン戦争期の王権正統をめぐる対立が「国王派」対「自由主義派」の形で現れ、のちのカルリスタ戦争などに尾を引きます。ラテンアメリカ独立戦争では、植民地官吏・半島人・王党ミリシアなどが国王派(realistas)として独立派と戦い、メキシコやペルーなどで長期の内戦となりました。これらの諸例に共通するのは、国王派が単に王の個人に忠誠というより、旧来の宗教・身分・地域秩序と結びついた秩序維持連合として動いた点です。
まとめとしての要点整理(英内戦文脈)
イングランド内戦における国王派(王党派)は、①国教会・慣習法・身分秩序の維持を望む社会層に支えられ、②封建的・地方分散的な動員と財政基盤の弱さから劣勢に立ち、③ニュー・モデル・アーミーの軍事制度に敗れ、④亡命と復古を経て立憲王政下の保守主義へと転生しました。教科書のキーワードで言えば、〈キャヴァリアーズ対ラウンドヘッズ/マーストン・ムーア/ネーズビー/チャールズ1世処刑/王政復古〉の線に沿って理解すると、用語「国王派」の輪郭がつかみやすくなります。

