コペンハーゲン会議 – 世界史用語集

コペンハーゲン会議(2009年国連気候変動枠組条約第15回締約国会議、COP15)は、気候変動対策の「ポスト京都」を決めるはずだった国際会議として世界の注目を集め、最終的に法的拘束力を持たない政治文書「コペンハーゲン合意(Copenhagen Accord)」にとどまった出来事です。二酸化炭素など温室効果ガスの急増、IPCCが示す2℃目標の緊迫感、金融危機後のグリーン投資への期待が重なるなか、米欧と新興国(中国・インド・ブラジル・南ア=BASIC)、途上国グループ(G77+中国、小島嶼国AOSIS、アフリカ)、先進国(EU・日本・米国)など多様なアクターが一堂に会しました。会議は市民の大規模デモや「ホープンハーゲン」と呼ばれる高揚の空気に包まれましたが、交渉は透明性・手続・公平性をめぐって難航し、法的拘束力のある包括的合意には至りませんでした。それでも、2℃目標の政治的確認、2020年までに年間1000億ドル規模の気候資金動員、透明性(MRV)の考え方、先進国・途上国双方の自発的目標提出(ボトムアップ)など、のちのパリ協定に通じる重要な踏み石が置かれました。本稿では、背景と舞台設定、交渉の力学と主要争点、合意の中身と限界、反応と影響、パリ協定への道筋という観点から、できるだけ平易に整理して解説します。

スポンサーリンク

背景と舞台設定――「ポスト京都」を巡る期待と圧力

1997年の京都議定書は、先進国に法的拘束力のある数値目標を課し、第一約束期間(2008~2012年)の削減を規定しました。しかし、米国は議会の批准を得られず離脱し、中国やインドなど排出が急増する新興国は「途上国」として拘束的義務を負いませんでした。2000年代後半に入ると、世界排出量の構図は大きく変わり、中国が最大排出国となり、先進国だけでは気温上昇の抑制が難しいことが明白になりました。IPCC第4次評価報告書(2007)は、人為起源の温暖化の科学的確度を高め、産業革命以降の気温上昇を2℃以内に抑えるべきだとの政策目標が世界に共有されます。

こうした流れの中で、2009年は「運命の年」とされ、2007年のバリ会議(COP13)で「バリ・ロードマップ」が合意され、ポスト京都枠組みの詳細を2009年までに決める道筋が描かれました。コペンハーゲンはそのゴール地点として設定され、各国政府、国連事務局、市民社会、企業、都市、研究者の期待と圧力が集中しました。金融危機後の景気対策とグリーン投資が結びつき、再生可能エネルギーやエネルギー効率の市場拡大への期待も高まりました。

会議運営の面では、条約(UNFCCC)と京都議定書(KP)の二つのトラックで交渉が進みました。前者は全締約国を対象に緩和・適応・資金・技術移転・透明性の総合パッケージを、後者は京都議定書の第二約束期間の数値目標や制度の延長・改良を議論する枠組みです。各国の利害は複雑に絡み、先進国間でもEUの「多角的拘束」志向と、米国の「国内法との整合・上からの拘束を嫌う」志向に違いがありました。新興国は「共通だが差異ある責任(CBDR)」の原則の堅持を求め、歴史的排出の責任と開発の権利の両立を主張しました。

交渉の力学と主要争点――透明性、法的形態、資金、2℃目標

最大の争点は、法的形態と適用範囲でした。EUは京都議定書の中核(拘束的数値目標と国際的遵守メカニズム)を全主要排出国へ広げる「単一の包括的法的協定」を志向しました。これに対し米国は、議会の事情から京都型の国際拘束を受け入れにくく、各国の自主目標を「国別約束・行動」として提出し、透明性やレビューで担保するボトムアップを強く主張しました。中国・インドなどBASICは、先進国と途上国の区分をまたぐ共通の拘束を警戒し、途上国は国内政策としての「緩和行動(NAMA)」を国際登録するが、法的義務や外部からの強い検証は受けない、という立場を取りました。

第二の争点は〈MRV(測定・報告・検証)〉の強度です。先進国は透明性の高いMRVを求め、特に米国は中国の排出データと取組の検証を重視しました。BASICは国家主権と能力差を理由に、国際的レビューの範囲を限定することを主張しました。結果として、「国際協力を受ける途上国の緩和行動は国際的MRV、国内資金で行うものは国内MRVと国際協議・分析(ICA)」という折衷が模索されます。

第三は〈資金と技術移転〉です。脆弱な島嶼国やアフリカ諸国は、適応支援と損失損害の枠組み、予測可能で追加的な資金フローを求めました。先進国は、2010~2012年の短期「ファストスタート資金」と、2020年までに年1000億ドル規模の動員という政治コミットメントに傾き、資金の出し手・受け手の範囲、官民ミックスの扱い、既存機関(世界銀行等)と新規機関(のちのグリーン気候基金)の役割が議題になりました。

第四は〈温度目標〉です。AOSISとEUは2℃より厳しい1.5℃を強く提案し、科学コミュニティの危機感を背景に、世界のピークアウト年と中長期削減経路(2050年に世界排出を半減・先進国は80%以上削減といった数値)の明記を求めました。他方で、BASICや産油国は経済成長とエネルギー安全保障の観点から慎重姿勢を崩しませんでした。

会期後半には、議長国デンマークによる「議長テキスト」をめぐる透明性批判や、手続を巡る紛糾が起きました。全体会合への提示やグループ間のバランスが十分でないとの反発が広がり、交渉は遅延しました。首脳級が集う最終盤、米・中・印・伯・南アなどの首脳が直接会談し、政治決着のための短い文書に収れんしていきます。

合意の中身と限界――政治文書にとどまった「コペンハーゲン合意」

最終的にまとめられた「コペンハーゲン合意」は、法的拘束力を持たない政治合意として「留意(take note)」される形式になりました。ここには、(1)地球平均気温の上昇を2℃未満に抑えるという長期目標の政治的確認、(2)先進国は2020年までの削減目標を、途上国は緩和行動を、2010年1月末までに事務局へ提出・登録する仕組み、(3)先進国の資金コミットメントとして2010~12年合計300億ドル程度のファストスタート資金、2020年までに年1000億ドル規模の資金動員目標、(4)途上国の行動に対するMRVの枠組み(国際協力受けるものは国際MRV、国内資金によるものは国内MRVと国際協議・分析)、(5)森林減少・劣化に由来する排出削減(REDD+)の重要性、(6)技術移転や能力開発の強化――などが盛り込まれました。

しかし、数値や法的形態に関する決定的な合意は得られませんでした。2050年長期目標や世界排出ピーク年、先進国の総量削減目標、京都議定書第二約束期間の扱い、遵守の制度などは未決のままでした。合意に法的拘束力がなく、COP決定としての正式採択にも至らなかったため、各国の提出する目標・行動は政治的コミットメントの域を出ませんでした。公平性や歴史的責任に関する明確なルール、適応と損失損害の取り扱いも、原則確認以上は前進が限定的でした。

合意文書の「留意」という扱いは、全会一致の採択に反対した少数国(主に手続や公正性に異議を唱えた国々)が存在した結果です。このため、合意への「参加」や目標の提出は任意となり、実効性に疑問が呈されました。他方で、提出・登録された目標と行動は、のちのパリ協定のNDC(国別目標)につながる初のグローバル・レジストリの原型となりました。

反応と影響――失望と部分的前進、制度の芽生え

会議直後の評価は厳しいものでした。環境団体や脆弱国は、法的拘束力も総量の整合性も欠いた結果を「失敗」とみなし、手続の不透明さと先進国・新興国の政治取引を強く批判しました。メディアも「期待からの落差」を大きく報じ、外交プロセス全体の信頼性に疑問が投げかけられました。他方で、政策実務の観点からは、2℃目標の政治的承認、MRVの概念整理、資金コミットメント、REDD+の位置づけ、国別提出・登録の仕組みといった要素が国際制度として芽生え、次の合意へつなぐ足場ができた、と評価されました。

資金面では、ファストスタート資金の拠出が動き、適応や能力開発のプロジェクトが各地で立ち上がりました。制度設計は未成熟でしたが、官民資金の動員の枠組み、測定可能性と追加性の基準、脆弱国への配分原則など、具体の議論が進みました。のちに創設されるグリーン気候基金(GCF)や適応基金の拡充は、ここでの政治合意が前提になっています。

また、国別目標・行動の登録は、国際的な「見える化」を促し、相互のベンチマーキングや国内政策の強化につながりました。多くの国が再エネ導入目標、効率化基準、排出量取引制度や炭素税の導入検討など、国内措置をパッケージで整理し、国際的に提示する慣行を身につけました。これは、のちのNDC提出・更新サイクルに不可欠な行政能力の育成にも寄与しました。

パリ協定への道筋――トップダウンからハイブリッドへ

コペンハーゲン会議の最大の遺産は、国際気候レジームの「設計思想」の転換を可視化したことです。京都型のトップダウン(国際交渉で配分された拘束的割当)と、米中を含む全主要排出国の参加という現実の折り合いは、ボトムアップ(各国が自主的に掲げる目標)に、透明性・レビュー・定期的更新のトップダウン要素を組み合わせるハイブリッド設計へ向かわせました。2011年ダーバン会議(COP17)の「ダーバン・プラットフォーム」は、全締約国に適用される新枠組みの交渉開始を決め、2015年パリ協定で法的拘束力を持つ透明性の枠組みと、NDCの提出・更新義務、長期目標(2℃/1.5℃追求)、資金・適応・損失損害の柱が整えられました。

パリ協定は、目標の水準自体は各国に委ねる一方、情報要件、進捗のグローバル・ストックテイク、長期戦略の策定促進など、集団としての野心を高めるための「手続の法的義務」を強化しました。これは、コペンハーゲンで見えた国際政治の限界――米議会の拘束、BASICの主権意識、途上国の開発ニーズ――を前提に、現実的に機能する制度設計を志向した到達点でした。

また、2℃目標の政治確認と、脆弱国が訴え続けた1.5℃の重要性は、パリ協定で「2℃を十分下回り、1.5℃努力」を明文化する地ならしとなりました。資金の約束は、GCFの資本化や各国の公的資金・民間動員に接続し、MRVは「透明性枠組み」として法的に整備され、先進国・途上国の区別を残しつつも共通の方法論に収れんしていきます。

補足トピック――市民社会、メディア、手続の教訓

コペンハーゲンは、市民社会とメディアの役割の大きさを示した会議でもありました。世界中から多数のNGO、企業、都市ネットワーク、学者、若者グループが集結し、街頭デモやサイドイベント、ソーシャルメディアを通じて、かつてない情報発信と監視を行いました。これは交渉の民主性を高める一方で、期待の過熱、政治指導者への過度なプレッシャー、交渉の機微が可視化されすぎることによる硬直化という副作用も生みました。

手続面の教訓としてしばしば挙げられるのは、透明性と包摂性のバランスです。交渉が停滞すると、議長国や主要国が「小部屋」で政治合意を探る必要が生じますが、それが広い会場での正統性を損なうと、最終採択が難しくなります。コペンハーゲンでは、議長テキストの扱いと最終盤の首脳交渉への急転が、手続への不信を高め、採択の壁になりました。のちのパリでは、議長国フランスが早期にドラフティングのルールとタイムライン、全体会合と非公式協議の関係を丁寧に設計し、包摂性と効率の両立を図ったことが成功要因とされています。

また、国内政治の制約が国際交渉のシーリングを決める現実も露わになりました。米国の議会事情、中国の発展段階、EU内のエネルギーミックス、産油国の財政構造――それぞれが「譲れない線」を引き、国際合意の野心水準を規定します。ゆえに、国際舞台での目標設定と並行して、国内制度(排出取引・再エネ法・効率規制・脱炭素投資・公正な移行)の改革を積み上げることが、次の合意の野心を引き上げる唯一の道だと確認されました。

まとめ――失敗と評価されながら、次を可能にした会議

コペンハーゲン会議は、多くの人にとって「期待に届かなかった」出来事として記憶されています。法的拘束力のある包括的合意は実現せず、気温上昇のトラックを直ちに変えるには不十分でした。それでも、2℃目標の政治的合意、資金動員の枠組み、MRVの概念整理、国別提出メカニズム、REDD+の位置づけなど、制度の核となる要素はここで形を得ました。失望ののちに始まった制度設計と信頼回復の努力が、ダーバン・リマを経てパリ協定に結実します。大枠を決めることができなかった「失敗」は、国際政治の限界を正直に映し出し、現実に機能するハイブリッド型の制度を生み出す助走路になったのです。コペンハーゲンを振り返ることは、国際合意がどのように〈政治・科学・制度・世論〉の四つ巴の中で熟していくのかを学ぶことに直結します。周到な準備と包摂的な手続、国内実装と資金・技術の裏づけが備わるとき、次の「パリ」が現実のものになる――その事実を、コペンハーゲンは静かに物語っています。