コペルニクス – 世界史用語集

コペルニクス(Nicolaus Copernicus, 1473–1543)は、太陽を中心に地球を含む諸惑星が回るとする〈地動説〉を数学的に提示した天文学者です。彼が示したのは、肉眼で見える天体の動きを説明するための新しい座標と計算の枠組みであり、日々の空の見え方自体は変わらなくとも、「宇宙の中心」を入れ替えることで惑星運動をより単純に統一できる、という視点でした。地球は自転し、太陽のまわりを公転し、季節や惑星の逆行はその見かけにすぎないと整理します。刊行当年に彼は世を去り、すぐに世界が一変したわけではありませんが、ティコ・ブラーエ、ケプラー、ガリレオ、ニュートンへと継承される計算と観測の革新の出発点となりました。本稿では、(1)生涯と時代背景、(2)天動説の課題と地動説の中身、(3)『天球の回転について』の出版と反応、(4)継承と影響という切り口で、できるだけ平易に解説します。

スポンサーリンク

生涯と時代背景――辺境の聖堂参事会員が練り上げた宇宙像

コペルニクスは1473年、バルト海沿岸のトルン(現ポーランド・トルニ)に商家の子として生まれました。叔父はヴァルミア司教区の有力聖職者で、若い彼を庇護し、教会参事会員(聖堂参事会の一員)としての地位を与えました。彼はクラクフ大学で数学・天文の基礎に触れ、続いてイタリアで人文学・法学・医学を学び、ボローニャでは天文学者ドメニコ・ノヴァーラの観測を手伝っています。司教区に戻ってからは、実務家として租税や領地経営、診療に携わりつつ、夜には星を見て計算に耽る生活を続けました。豪華な王立天文台があったわけではなく、修道院や砦に据えた簡素な測角器と砂時計、そして紙とペンが主な道具でした。

当時ヨーロッパの標準理論は、プトレマイオス(2世紀)の『アルマゲスト』にもとづく天動説でした。地球は静止し、天は水晶のような同心球で作られ、惑星は本円(デフェレント)と小円(エピサイクル)の組み合わせで運動するとされました。観測精度の改善とともに、この体系は〈均等円運動〉の美点を保ちながらも、説明のために補助円や偏心(エキセントリック)、均等運動の見かけを合わせるエカントなどを追加し、模型が複雑化していました。春分点や近日点のズレ、火星の逆行のタイミングなど、細部で不満が積み上がっていたのです。

コペルニクスはこの「複雑さ」を問題にしました。神は秩序だ、と考えた彼にとって、あまりに多くの補助輪に頼る理論は説得力を失っていきます。地上の物体が「自然の場所」を求めて落ちるというアリストテレス的物理学に挑む意図は当初なく、むしろ天体の位置を計算する〈数理天文学〉の内部から、より筋の通った幾何学モデルを求めたのです。地球を動かすという発想は、古代にも散発的に現れましたが(アリスタルコスの伝承など)、彼はそれを体系的に再構成し、表の計算に使える形に整えました。

天動説の課題と地動説――自転・公転・歳差で空の見え方を整理する

コペルニクスの枠組みは、要点を三つに絞れます。第一に〈地球の自転〉です。日周運動は天球が回るのではなく、地球が一日で一回転する結果だとします。これにより、恒星が毎日東から西へ動く理由を簡潔に説明できます。第二に〈地球の公転〉です。地球は一年で太陽の周りを回り、季節の変化や太陽の見かけの位置変化(黄道上の移動)はこれで理解できます。第三に〈地軸の傾きと歳差〉です。地軸が傾いているため、季節ごとに昼夜長短が生じ、長期的には歳差運動が分点の位置をゆっくりとずらします。

惑星逆行の説明は、地動説の見せ場でした。火星・木星・土星は外惑星で、地球より外側を回ると考えられます。地球が内側の軌道で追い抜くとき、外惑星は空で一時的に逆向きに動くように見えます。金星・水星は内惑星で、太陽の近傍から大きく離れないのは、彼らが地球の内側で太陽の周りを回るからだ、と整理できます。これにより、内惑星の最大離角や明るさの変化が自然な幾何として導かれました。

ただし、コペルニクスのモデルは円軌道を前提にしていたため、完全に「補助輪ゼロ」にはなりませんでした。実際には彼もエピサイクルに相当する小さな補正円を残し、緯度の変化や視半径の微妙な違いを合わせています。それでも、天体が〈太陽中心〉の秩序に従うという大枠により、惑星配列・公転周期の関係・最大離角の規則性などは、以前よりも統一的に把握できるようになりました。「太陽系」という言葉は後世のものですが、見えない秩序としての太陽中心の発想は、ここで初めてはっきり提示されたのです。

当時の物理学では「動く地球」に反対する論点もありました。もし地球が回転しているなら、投げた石は西へ飛ばされるはずだ、という直感や、恒星視差が検出できない(星の位置が年周で揺れない)ことへの疑念です。コペルニクスは前者に対して、地球と空気と投げた物体は共に回転系に属するので直感とは違う、と定性的に述べ、後者については、恒星までの距離があまりに遠く、視差は肉眼では測れないのだと推論しました。恒星視差が実際に観測されるのは19世紀に入ってからのことです。

『天球の回転について』――執筆、出版、序文の「但し書き」、初期反応

主著『天球の回転について(De revolutionibus orbium coelestium)』は、長い準備の末に1543年、ニュルンベルクの印刷業者ペトレイウスから刊行されました。六巻から成り、数学的前提、地球の自転、公転と季節、月と視差、惑星の運動、星表と道具、と段階的に論を進めます。彼は各章の末尾に計算法と表(タブレット)を付し、理論が暦の改良や惑星位置の予測に実用可能であることを示しました。刊行の直接の後押しは、若き数学者レティクス(Rheticus)で、彼は師の学説を『ナラティオ・プリマ(最初の報告)』で予告し、手稿を携えて印刷の段取りを整えました。

書物には、アンドレアス・オシアンデルによる匿名の序文が付され、「これは天体計算の便宜のための仮説にすぎない、必ずしも自然の実在を語るものではない」と読者に但し書きを与えています。これは、自然哲学(存在の正体を論じる営み)と数学(計算の道具)を分け、論争を避けるための配慮でした。著者の意図と必ずしも一致しなかった可能性があり、後世しばしば議論の的になりますが、当時の刊行環境では、学説の受容を広げる安全弁として機能した面もありました。

初期反応は一様ではありませんでした。ルターの食卓談話には「天を動かす愚か者」と揶揄する記録があり、メランヒトンは教育からの排除を主張しました。一方で、計算の精度面からは関心が高く、プロイセンのラインホルトが新理論に基づくプルテン暦表(Prutenic Tables)を作り、占星術家や暦作成者の実務に浸透していきます。カトリック側では直ちに禁圧されたわけではなく、1616年に至って『天球の回転について』は「修正の上で閲読を許す」扱いとなり、地動説命題は「誤謬」とされました。ガリレオ裁判の緊張は別次元の局面ですが、コペルニクスの書自体は、注解付きで学者の机に残り続けます。

継承と影響――ティコの混合系、ケプラーの楕円、ガリレオの物理、ニュートンの統合

コペルニクスの幾何学は、次の世代の観測と理論を触発しました。まず、ティコ・ブラーエはウラニボルグ天文台で桁違いに精密な裸眼観測を蓄積し、地球は静止、太陽は地球の周りを回るが、他の惑星は太陽の周りを回る、という折衷モデル(地心太陽中心併用)を提案しました。これは宗教的・哲学的配慮と観測データの両立を図る試みでしたが、その精密データを継いだケプラーは、ついに〈楕円軌道〉という仮説に到達します。彼の三法則は、円と小円の重ね合わせをやめ、〈面積速度一定〉という力学的な香りを帯びた記述で惑星運動を整理しました。

ガリレオは望遠鏡観測で木星の四大衛星、金星の満ち欠け、月面の凹凸、太陽黒点を示し、地動説に有利な現象を可視化しました。金星の相位は、内惑星が太陽の周りを回ることの直接証拠に近く、木星の衛星は「小宇宙」の存在を示して、すべてが地球を回るという素朴な発想を崩しました。同時に彼は、落体の法則や慣性の概念で、動く地球に対する直感的な反論を解体する基礎を築きました。

ニュートンは万有引力と運動の法則で、ケプラーの経験法則を理論的に導出し、天体と地上の力学を一本化しました。ここで、コペルニクスの「配置の転換」は、力学の「法則の発見」によって支えられ、宇宙像は観測・計算・理論の三位一体へと収斂します。結果として、地動説は暦計算の便宜仮説ではなく、自然の働きを記述する最良の理論という地位を確立しました。

こうした過程を経て、コペルニクスの名は、のちに「コペルニクス的転回」という比喩で広く用いられるようになりました。これは元来、宇宙の中心を入れ替える幾何学的再配置を指しますが、比喩としては、視点をひっくり返すことで問題の構造が一挙に明快になる出来事を意味します。実際の歴史では、転回は一瞬ではなく、慎重な計算と言論、制度と宗教の調整を伴う、長い移行だったことも併せて心に留めたい点です。

最後に、コペルニクス個人の姿に触れておきます。彼は激烈な論争家というより、沈着な計算者であり、自治と秩序を重んじる地方の実務家でした。ヴァルミアのフロムボルクの塔や女性修道院に残る痕跡は、静かな生活の中で練られた理論の背景を物語ります。死の年に主著が刊行され、彼の手に最終刷が渡ったという伝承は象徴的です。大きな転回は、しばしば「辺境」で、勤勉と忍耐の末に形を取るのだ、ということをコペルニクスの生涯は教えてくれます。