シューマン=プラン – 世界史用語集

「シューマン=プラン」とは、1950年にフランス外相ロベール=シューマンが提案した、フランスと西ドイツなどの石炭・鉄鋼生産を共同管理下に置く構想のことです。第二次世界大戦のあと、何度も戦争を繰り返してきたフランスとドイツの対立を根本から克服し、ヨーロッパに長期的な平和をつくり出すことを目標としたものでした。このプランにもとづいて1951年にヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)が創設され、のちのヨーロッパ共同体(EC)、さらにはヨーロッパ連合(EU)へとつながる「ヨーロッパ統合の出発点」となりました。

シューマン=プランの発想は、単に「仲よくしましょう」と呼びかけるだけではありませんでした。フランスと西ドイツの石炭・鉄鋼という、戦争を支える基幹産業を一つの超国家的な機関に預け、どちらの国も勝手に軍事力を増強できないようにしてしまおう、という具体的かつ大胆な構想でした。これにより、フランスとドイツのあいだの戦争は、政治的にだけでなく、経済的・技術的にも「現実的ではない」状態に近づいていくことが期待されました。

世界史では、「シューマン=プラン」はヨーロッパ統合史の最初の大きな一歩として登場します。同時に、冷戦下での西ヨーロッパ結束、ドイツの国際社会への復帰、フランスの安全保障といった複数の目的が重なった外交構想でもありました。この解説では、まずシューマン=プランがどのような内容の提案だったのかを整理し、続いて、戦後ヨーロッパの状況という背景を確認します。そのうえで、プランの具体的な仕組みと各国の反応、実現したヨーロッパ石炭鉄鋼共同体との関係、そしてのちのEUへどうつながっていくのかを説明していきます。

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シューマン=プランの基本的な内容とねらい

シューマン=プランは、1950年5月9日にフランス外相ロベール=シューマンが行った声明(シューマン宣言)の中で提示されました。その中核となる提案は、「フランスと西ドイツの石炭・鉄鋼生産を、共同の高権を持つ機関の監督下に置き、それを希望する他のヨーロッパ諸国にも開放する」というものです。ここで言う石炭と鉄鋼は、当時の重工業や軍需産業の基盤であり、戦車や大砲、兵器を生産するための原料でした。

シューマン=プランが狙ったのは、フランスと西ドイツ(ドイツ連邦共和国)が、戦争の「素材」を奪い合うのではなく、最初から一緒に管理するような仕組みを作ることです。もし両国が石炭・鉄鋼を共同管理するようになれば、どちらか一方がひそかに軍備を増強することは難しくなり、戦争準備は初期段階で明るみに出てしまいます。これによって、「将来の戦争を事実上不可能にする」というのが、プランの理想でした。

さらに重要なのは、この共同管理を行う機関が、単なる各国代表の会議ではなく、「超国家的な高権」を持つ独立機関として構想された点です。加盟国は、自国の石炭・鉄鋼政策についての決定権の一部を、この機関に委ねることになります。つまり、国家主権の一部を共同のヨーロッパ機関に預けることで、従来の「国と国との条約ベースの協力」よりも一歩進んだ統合を目指したのです。

シューマン=プランには、経済的な狙いも含まれていました。戦後ヨーロッパの復興には、安定した石炭供給と鉄鋼生産が欠かせませんでしたが、国境や関税によって市場が分断されていると、効率的な生産や投資が進みにくくなります。そこで、石炭・鉄鋼の共通市場をつくり、生産計画や価格政策を共同で調整することで、全体としての成長と安定を目指すという経済協力の側面もありました。

シューマン本人は、敬虔なカトリック政治家でありながら、「二度の世界大戦を経験したヨーロッパが、もう一度同じ過ちを繰り返してはならない」という強い信念を持っていました。シューマン=プランは、その信念を具体的な制度構想に落とし込んだものであり、感情的な和解だけでなく、「戦争のための手段を構造的に減らしていく」ための仕組みとして発想されたと言えます。

戦後ヨーロッパとシューマン=プラン成立の背景

シューマン=プランが出てくる背景には、第二次世界大戦後のヨーロッパ情勢があります。二度の大戦を通じて、ヨーロッパ各国は膨大な人的・物的損害を受けました。特にフランスとドイツは、普仏戦争(1870〜71年)、第一次世界大戦、第二次世界大戦と、ほぼ80年のあいだに三度も大規模な戦争を戦った「宿敵関係」にありました。両国のあいだのアルザス・ロレーヌ地方などは、何度も国境線が引き直され、住民は国籍が次々と変わる経験をしていました。

戦後のフランスにとって、最大の関心事の一つは「ドイツを再び脅威としないようにすること」でした。第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約では、フランスはドイツに対する厳しい賠償と軍備制限を課し、ラインラントの非武装化など安全保障上の措置を取りましたが、その結果、ドイツ側に強い復讐心と不満を残し、ナチス台頭の土壌をつくったとも言われます。フランスにとっては、同じ過ちを繰り返したくないという思いも強かったのです。

一方、第二次世界大戦後のヨーロッパは、冷戦構造の中に組み込まれていきます。1949年にはNATO(北大西洋条約機構)が結成され、西側陣営はソ連を中心とする東側陣営と対峙する体制に入りました。アメリカはマーシャル=プランを通じて西ヨーロッパの経済復興を支援すると同時に、ドイツ(正確には西ドイツ)を完全に弱体化させるのではなく、むしろ西側陣営の一員として再建し、東欧からのソ連の圧力に対抗する防波堤にしたいと考え始めます。

つまり、フランスは「ドイツを封じ込めたい」という安全保障上の不安を持つ一方、アメリカやイギリスは「ドイツの経済力と地政学的位置を、西側の安定に活かしたい」と考えていたのです。このギャップを埋める一つの案として、「ドイツを再軍備させるのではなく、ドイツをヨーロッパの共同の枠組みに組み込む」という発想が出てきます。

シューマン自身は、国境地帯ロレーヌ出身で、ドイツ文化とフランス文化の両方を知る人物でした。また、彼の側近として動いたジャン=モネは、戦時中から「ヨーロッパ諸国が主権の一部を共同の機関に委ねることで、戦争を防ぐ経済統合を進めるべきだ」と主張していました。シューマン=プランは、こうした発想を具体的な政策として打ち出したものでした。

フランス側から見れば、シューマン=プランは「ドイツを抑え込む」のではなく、「ドイツと一緒に枠組みを作り、その枠組みの中でドイツを管理する」構想でした。また、ドイツ側から見れば、これは国際社会への復帰と、敗戦国としての孤立状態から抜け出すチャンスでもありました。冷戦という大枠の中で、西ヨーロッパ各国にとっても、経済協力と政治的結束を強めることは重要な課題だったのです。

プランの実現:ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)の設立

シューマン=プランは、発表後すぐに具体的な条約交渉へと移されました。フランス政府は、西ドイツ、イタリア、そしてベネルクス三国(ベルギー・オランダ・ルクセンブルク)に対し、この構想への参加を呼びかけます。西ドイツのアデナウアー首相は、この提案を積極的に受け入れました。彼にとっても、石炭・鉄鋼の共同管理への参加は、西ドイツが信頼できる民主国家として国際社会に戻るための道だったからです。

条約交渉は、シューマンの側近ジャン=モネらが中心となって進められました。交渉の結果、1951年に「ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(European Coal and Steel Community, ECSC)」設立条約が調印され、1952年に発効しました。加盟国はフランス、西ドイツ、イタリア、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクの六か国です。

ECSCの制度には、いくつかの特徴があります。第一に、石炭と鉄鋼に関する関税や数量制限を加盟国内で撤廃し、共通市場を形成したことです。これにより、各国は互いの市場に自由に商品を出し入れできるようになり、資源配分の効率化と競争の活性化が期待されました。

第二に、「高等権限(高等機関)」と呼ばれる超国家的な行政機関が設けられたことです。この機関は加盟国政府から独立しており、石炭・鉄鋼に関する生産、価格、投資計画などについて、加盟国全体の利益を考えて決定を下す権限を持っていました。加盟国は、この分野に関する自国の政策決定権の一部を、高等機関に移譲したことになります。

第三に、この高等機関を監視・補完するために、「特別理事会(各国政府代表)」「共同総会(後のヨーロッパ議会に発展)」「裁判所」といった機関も設けられました。これらは、のちのヨーロッパ共同体(EC)やEUの制度の原型となるものです。つまり、シューマン=プランにもとづくECSCは、一つの国際機関であると同時に、後世のEU制度の実験場でもあったのです。

もちろん、ECSCが発足した時点で、すべてが順調にいったわけではありません。各国の鉄鋼業界や炭鉱労働者には、自国政府から離れた超国家機関による規制への不安や反発もありました。また、農業や金融など、他の重要分野はまだ統合の枠外にありました。それでも、石炭・鉄鋼という戦略的な産業で「共同行政」が始まったこと自体、ヨーロッパにとって大きな一歩でした。

シューマン=プランの歴史的意義とその後のヨーロッパ統合

シューマン=プランとそれにもとづくECSCは、その後のヨーロッパ統合の土台となりました。1950年代後半には、同じ六か国がローマ条約を結び、ヨーロッパ経済共同体(EEC)とヨーロッパ原子力共同体(EURATOM)が設立されます。ここでは、関税の撤廃や共通市場の形成、共同農業政策など、経済統合の範囲が石炭・鉄鋼を超えて大きく広がっていきました。

この流れの中で、シューマン=プランで試みられた「限定された分野から始めて、徐々に統合の範囲を広げていく」という戦略は、ヨーロッパ統合の基本パターンとして定着していきます。最初から政治統合や完全な連邦国家を目指すのではなく、実務的な協力が必要な分野から少しずつ共同化を進めることで、各国の抵抗感を和らげ、統合を現実のものとしていく方法です。

現代のEUは、通貨としてのユーロ導入、域内の人・物・資本・サービスの自由な移動など、高度な統合レベルに達していますが、その源流には「石炭と鉄鋼を一緒に管理する」という一見限定的なシューマン=プランがありました。EUの公式記念日がシューマン宣言の日付である5月9日に設定されていることからも、このプランが象徴的な出発点と見なされていることが分かります。

また、シューマン=プランの意義は、フランスとドイツの関係史から見ても大きいです。かつて幾度も戦火を交えた両国は、ECSC以降、経済・政治・文化の多方面で協力関係を深め、「独仏協調」はヨーロッパ統合の原動力の一つとなりました。現代のヨーロッパでは、フランスとドイツが互いに戦争をするという想定はほとんど現実味を持ちませんが、その背景には、石炭・鉄鋼共同管理から始まった長年の協力の蓄積があります。

もちろん、ヨーロッパ統合は成功ばかりではなく、経済危機や加盟国間の格差、EUへの不信感など多くの問題に直面してきました。しかし、シューマン=プランが示した「戦争の原因となる資源や産業を共同管理し、利害を結びつけることで平和をつくる」という発想は、その後も世界各地でさまざまな形で参照されてきました。対立する国どうしが、関係を断ち切るのではなく、むしろ結びつきを深めることで紛争の余地を減らそうとする考え方は、21世紀の国際政治においても重要なテーマです。

世界史で「シューマン=プラン」という用語に出会ったときには、1950年のフランス外相ロベール=シューマンの提案であり、「フランスと西ドイツの石炭・鉄鋼共同管理構想」「ECSCの出発点」「ヨーロッパ統合の一歩目」というキーワードをセットで思い出しておくと理解しやすくなります。そして、その背後には、二度の世界大戦という深い傷を負ったヨーロッパが、「対立ではなく統合によって平和をつくろうとした」という歴史的な試みがあったことも、あわせて意識しておくとよいでしょう。