アリエル・シャロン(Ariel Sharon, 1928–2014年)は、イスラエル建国期のハガナー青年兵から出発し、中東戦争の現場をくぐり抜けた将軍として知られ、その後は強硬な安保・入植推進の政治家、そしてついにはガザからの単独撤収を断行して自党を割り新党を創る首相という、急峻な軌跡をたどった人物です。第二次インティファーダの最中に政権を担い、対テロ作戦と西岸防護壁の建設を推進する一方、入植の象徴と見られた自らが2005年にガザ撤収(「脱ガザ」)を実施したことは国内外に衝撃を与えました。彼の名は1950年代の国境襲撃作戦、1973年のスエズ渡河、1982年レバノン侵攻とサブラ・シャティーラ事件、2000年の神殿の丘訪問と第二次インティファーダ、2005年のガザ撤収という節目に結び付いて想起されます。本稿では、生涯と軍歴、政治家としての転回点、対立と評価、遺産と論点を、できるだけ先入観を避けて整理します。
生涯と軍歴の骨格――建国戦争からスエズ渡河まで
シャロンは1928年、当時英国委任統治領パレスチナのクファル・マラルのモシャブ(協同農村)に生まれました。若くしてユダヤ防衛組織ハガナーに参加し、1948年の第一次中東戦争(イスラエル独立戦争)では歩兵小隊・中隊を率いて負傷しつつも前線で名を上げます。1950年代には国境地帯での越境襲撃を任務とする精鋭部隊「第101部隊」を率い、夜間奇襲や報復作戦で指揮ぶりの苛烈さと独断専行ぶりで知られました。1953年のキビヤ事件(民間人犠牲を伴う大規模破壊)は、彼の名を国際的議論の的に押し上げます。
1956年のスエズ戦争では落下傘旅団長としてシナイ半島で戦い、1967年の第三次中東戦争(六日戦争)では装甲師団を率いてシナイでエジプト軍を撃破しました。戦車・機械化部隊の運用と側面機動に長じ、作戦上の大胆な判断で「イスラエル軍随一の攻勢型指揮官」と評されます。1973年の第四次中東戦争(ヨム・キプール戦争)では、エジプト軍がスエズ運河を渡って前進する危機的状況の中、シャロンは第143機甲師団を率いて反撃し、運河を逆に渡河して西岸に橋頭堡を築き、エジプト第3軍を包囲圧迫する戦局転換に寄与しました。頭部負傷の包帯を巻いたまま前線を動き回る姿は、国内で英雄的イメージを強化します。ただし、彼の独断・命令逸脱の疑惑は常に伴い、軍内部では「結果を出すが統制が難しい将軍」という二面評価が固定化しました。
1973年の退役後、彼は政界に転じ、右派勢力の連合体リクードの形成に深く関与します。ベギン政権下では農相(1977)として入植地政策を推進し、西岸・ガザ・シナイでの居住区拡張と道路・インフラ整備に資源を投じました。その後、防相(1981)に就任したことが、彼の名を再び決定的な論争の渦中へ押し戻します。
政治家シャロン――強硬路線から「脱ガザ」へ
防衛相となったシャロンは、1982年にレバノン侵攻(「平和のためのガリラヤ作戦」)を主導し、PLO(パレスチナ解放機構)とその武装基盤の排除を目標にベイルート包囲へ進みました。作戦はイスラエル国内で「限定作戦」と説明されたのに対し、実際には目標の拡大と長期化が進み、政治不信を拡大させます。包囲下で起きたサブラ・シャティーラ難民キャンプでの民兵による虐殺は、イスラエルの国家倫理を揺るがす危機となり、国の調査委員会(カハン委員会)はシャロンの「間接的責任」を認定、彼は防衛相を辞任しました(その後も無任所相として内閣に残留)。この烙印は長く尾を引き、海外では今日に至るまで彼の評価を決定づける要素です。
1990年代、オスロ合意の進展と中東和平の枠組みが整う中、シャロンは住宅建設相などを務め、ユダヤ人入植の加速に関与しました。一方で、彼は党内の実力者として、労働党政権への反発と保守層の結集を主導します。2000年9月、彼がエルサレム旧市街の神殿の丘(ハラム・アッシャリーフ/テンプル・マウント)を訪れた行動は、パレスチナ側に挑発と受け取られ、第二次インティファーダの引き金の一つとなりました(背景には既に緊張と停滞が蓄積していた点は留保しつつも、この訪問の政治的効果は甚大でした)。
2001年、第二次インティファーダの暴力が激化する中で首相に就任したシャロンは、自爆攻撃と武装蜂起に対し大規模な対テロ作戦を展開します。2002年の「防護の盾作戦」では西岸主要都市に軍を再進入させ、武装組織の拠点を破壊・拘束を進めました。同時に、イスラエル本土への浸透を阻む目的で西岸防護壁(セキュリティ・バリア)の建設を推進し、国内では治安改善を、国外では領土画定の既成事実化との批判を招きます。米国との関係ではブッシュ政権の対テロ戦争の文脈の後押しを受け、パレスチナ自治政府に「暴力停止と組織改革」を強く求めました。
転回点は2003〜2005年です。人口・軍事資源の配分、国際環境の変化、入植地維持コストの上昇、イスラエル社会の分断と疲弊、そして政治的主導権の確保――これらの要因を総合判断したシャロンは、2004年にガザ地区からの一方的撤収(入植地撤去と常駐部隊撤退)を決断します。彼は党内多数の反対を押し切り、2005年夏に21のガザ入植地と北サマリアの4入植地を撤去しました。入植の設計者と見なされた人物が撤収を断行したことで、右派の一部は「背信」と糾弾し、左派・中道は「遅すぎるが現実的」と評価、パレスチナ側では占領構造の持続(空・海・境界支配)への不信と、撤収を戦術的勝利とする二つの解釈が交錯しました。
この路線転換は、国内政治の再編へ直結します。2005年末、シャロンは長年率いたリクードを離党し、中道新党「カディマ(前進)」を結成しました。党の柱は、二国家解決への原理的コミットを明言しないまま、イスラエルの安全保障とユダヤ国家性維持のために国境と支配領域を事実上整理する「一方的現実主義」でした。ところが、2006年1月、彼は重篤な脳卒中で倒れ、昏睡状態に陥ります。後継はオルメルト代行首相に引き継がれ、カディマは総選挙で第一党となるものの、シャロン本人は2014年の死まで政界に戻ることはありませんでした。
対立と評価――サブラ・シャティーラ、壁、入植、神殿の丘
シャロンの評価は、立場と時代によって大きく分かれます。第一に1982年のレバノン侵攻とサブラ・シャティーラ事件。カハン委員会は、虐殺を実行したのがレバノンの一部民兵であることを前提に、イスラエル軍指導部、とりわけ防衛相シャロンが結果予見可能性と防止措置の不作為について「間接的責任」を負うと結論づけました。彼の辞任は国内民主主義の自己監督機能の現れとも評価されますが、国際世論では彼個人に対する批判が長く続き、彼の名は「監督不全」の象徴として刻まれました。
第二に、神殿の丘訪問と第二次インティファーダの関係。訪問は合法的権利の行使と国内では擁護されつつ、政治的配慮に欠ける挑発と海外では受け取られました。インティファーダの背景には和平の停滞、入植拡大、治安協力の崩壊、双方の過激派の台頭といった累積的要因があり、単独の引き金に過度の因果を割り振ることは危ういものの、シャロンの行動が火薬庫に火花を散らした事実は否定しがたいところです。
第三に、西岸防護壁。自爆攻撃の激減と国内治安の回復に寄与したとするイスラエル側の評価がある一方、壁のルートがグリーン・ライン(1967年停戦ライン)を越えて西岸内に深く入り込み、パレスチナ人の土地と生活動線を分断したという批判が国際社会・人権団体から上がりました。国際司法裁判所(ICJ)の勧告的意見は、占領地内の壁建設の違法性を指摘し、撤去・賠償を求めましたが、イスラエル政府は安全保障上の必要を理由に反発しました。シャロンにとって壁は、短期は治安、長期は国境の事実上の線引きという二重の意味を持つ政策でした。
第四に、入植政策と「脱ガザ」。農相・住宅建設相期に入植推進の司令塔だった彼が、首相として撤収を断行したことは、右派―宗教勢力に深い分断を生みました。彼を「路線転向の現実主義者」と評する向きがある一方、「国家理念を取引材料にした政治家」と糾弾する声も強く、パレスチナ側でも「撤収は封鎖と分離強化の前提に過ぎない」との不信と、「占領地縮小を引き出した」という評価が併存します。ガザ撤収後の安全保障(ロケット発射と軍事応答の連鎖)と政治(ハマスの躍進)をめぐる議論は、彼の決断の副作用をめぐる再評価を現在まで促し続けています。
遺産と論点――安全保障の思考法、現実主義の限界、国家と境界
シャロンの遺産は、制度・地理・政治文化の三層に現れます。制度面では、第二次インティファーダ期の市街戦・対テロ作戦の教訓が国防軍と治安機関に制度化され、西岸の逮捕・検問・情報作戦、都市部の隔離戦術、入植地撤去という国内強制実施のノウハウがマニュアル化されました。地理面では、防護壁・道路網・検問所・飛地化の配置が西岸の空間構造を再定義し、イスラエルとパレスチナの将来の国境交渉の出発点に事実上の変化を与えました。政治文化面では、国家の安全保障とユダヤ国家の人口比維持を最上位の意思決定基準に据え、「理想(全面領有/全面和解)」と「現実(力の分配)」の間で、片側的措置で前進させるという政策スタイルが定着します。
同時に、彼の現実主義の限界も論じられます。一方的撤収は相手の統治能力と治安協力を損ない、権力の空白と過激派の伸長を招き得るという反論は、ガザのその後の推移を背景に説得力を持ちます。他方、交渉の停滞と国内政治の分断が深刻な時に、何もしないことのコストがより大きいという彼の計算にも一理がありました。つまり、シャロンの遺産は「どの失敗が小さいかを選ぶ」タイプの意思決定の典型例であり、その評価は前提と時間軸によって変動します。
個人像としてのシャロンは、粗豪で情的、かつ計算高い実務家として描写されます。戦場の沈着と、政治の奔流におけるしたたかさ。メディアとの攻防、敵対者を包み込む取引、支持基盤を割ってでも決断する冷徹さ。重い体躯と低い声、包帯姿の戦場写真、入植者説得に向かう首相官邸の映像。これらのイメージが、イスラエル政治の「力の言語」と結び付いて記憶されました。
2014年、長期昏睡の末に死去。彼の死は、イスラエル右派の内的多様化と中道の脆弱化という、彼自身が生み出した政治地形の只中で受け止められました。ガザ撤収を継いだオルメルト政権はレバノン戦争(2006)と汚職で揺らぎ、右派はネタニヤフの長期政権へまとまり直します。シャロンの決断は、イスラエル政治の「可能な範囲」を一度押し広げたが、永続的な妥協線を確定できなかった――それが、功罪相半ばする最終的な評価に近いでしょう。
総じて、アリエル・シャロンは、軍事・政治の両面でイスラエルの現実主義を体現した指導者でした。彼は理想や理念の抽象論よりも、目前の危険と人口・地理・軍事力のベクトルに基づく判断を重んじ、その判断が国内外に深い軌跡と亀裂を残しました。彼の名は、終わらない紛争と国家建設のジレンマ、武力と政治の相互作用、境界をどこに引きなおすかという問いの、避けがたい語り手として、今もなお記憶の中心にあります。

