シュマルカルデン同盟 – 世界史用語集

「シュマルカルデン同盟」とは、16世紀ドイツで宗教改革を支持したルター派の諸侯や都市が、皇帝カール5世やカトリック勢力に対抗するために結成した軍事・政治同盟のことです。1531年、テューリンゲン地方の小都市シュマルカルデンで結成されたことから、この名前で呼ばれます。宗教的にはルターの教え(アウクスブルク信仰告白)を支持しながら、同時に領邦諸侯の権利と自立を守ることを目的とした、宗教と政治が一体となった同盟でした。

世界史では、この同盟は「ルター派諸侯が皇帝に対抗するためにつくった組織」として紹介され、1546〜47年のシュマルカルデン戦争で皇帝軍に敗北するまでの動きとセットで扱われることが多いです。しかし、シュマルカルデン同盟は単なる軍事同盟ではなく、帝国内でプロテスタント信仰を制度として守る枠組みであり、やがて1555年のアウクスブルクの和議でルター派が法的に容認される流れの前段階を形づくった存在でもあります。

この解説では、まず宗教改革と神聖ローマ帝国の政治構造という背景を整理したうえで、シュマルカルデン同盟がどのような経緯で成立したのか、だれが参加し、どのように運営されたのかを説明します。つぎに、同盟が皇帝カール5世とどのように対立し、シュマルカルデン戦争へと至ったかをたどり、その敗北と解体、さらにアウクスブルクの和議へのつながりを見ていきます。概要だけ読んでも「シュマルカルデン同盟とは何か」をつかめるようにしつつ、細かい流れを知りたい人向けに各セクションで詳しく説明していきます。

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成立の背景:宗教改革と神聖ローマ帝国の政治構造

シュマルカルデン同盟が生まれた背景には、マルティン=ルターの宗教改革と、神聖ローマ帝国という特異な政治構造があります。1517年、ヴィッテンベルク大学の神学者ルターが「95か条の論題」を掲げ、贖宥状(免罪符)の乱売や教会の腐敗を批判したことから、教皇権やカトリック教会のあり方に対する疑問がドイツ各地で一気に噴き出しました。

ルターはやがて、「信仰義認」(人は信仰によってのみ救われる)、「聖書のみ」(教会の伝統より聖書が最高の権威)などの教義を主張し、修道制や聖職者の独身制、教皇の特権などカトリックの制度や習慣を深く問い直していきます。こうした主張は、教会の権威を基盤としていた中世的秩序を揺るがすものでしたが、同時に多くの人びとにとって、個人として神と向き合う新しい信仰の道として受け止められました。

ただし、宗教改革の広がりは「信仰」だけの問題でなく、政治と経済の利害と深く結びついていました。神聖ローマ帝国は、皇帝のもとに数百もの領邦諸侯・自由都市・司教領などが緩やかに連なった「領邦国家の集合体」であり、皇帝の権力は絶対的ではありませんでした。カール5世はハプスブルク家の皇帝として、ドイツに加えスペイン王国やネーデルラント、イタリアの一部など広大な領土を支配していましたが、ドイツ内部では各諸侯の協力なしには政策を進めにくい状況でした。

諸侯や都市から見ると、宗教改革を受け入れることは、「教会財産の接収」「修道院の解散」「教会裁判権の取り込み」などを通じて、自らの領邦権力と財政基盤を強化するチャンスでもありました。教皇や司教の権限を削り、領主としての支配を強めることができたからです。こうして、一部の領邦君主は真剣な信仰と現実的な政治計算の両方からルター派を支持し始めます。

一方、皇帝カール5世にとっては、宗教改革は帝国内の統一を脅かす危機でした。彼は敬虔なカトリック信徒であり、ヨーロッパ全体を守る「カトリック世界の防衛者」という意識も持っていました。さらに、教皇庁との関係や対フランス・対オスマン帝国戦争など、外交面での事情もあり、宗教的分裂が帝国の軍事力や財政力を弱めることは避けたかったのです。

このように、16世紀前半のドイツでは、「カトリックを守りたい皇帝と教会」と、「ルター派を支持しつつ領邦の自立を強めたい諸侯・都市」という対立構図が徐々に鮮明になっていきました。そのなかで、ルター派諸侯が互いを守るための同盟を結成する動きが、次第に現実味を帯びてきます。

シュマルカルデン同盟の結成と構成

シュマルカルデン同盟が正式に結成されたのは1531年です。その直接の契機となったのは、1530年のアウクスブルク帝国議会でした。この議会では、ルター派諸侯と都市が自らの信仰内容をまとめた「アウクスブルク信仰告白」を皇帝に提出し、ルター派教会の合法的承認を求めました。しかし、カール5世はこれを認めず、宗教改革側に教義の撤回やカトリックへの復帰を迫ります。

このままでは、ルター派諸領が一つひとつ皇帝やカトリック勢力に切り崩されてしまう危険が高まります。そこで、ザクセン選帝侯ヨハン=フリードリヒやヘッセン方伯フィリップといった有力なルター派諸侯は、互いに軍事的な援助義務を負う防衛同盟の結成を提案しました。こうして、テューリンゲン地方の小都市シュマルカルデンに諸侯と都市の代表が集まり、同盟条約に署名したのがシュマルカルデン同盟の始まりです。

同盟の中心メンバーには、ザクセン選帝侯・ヘッセン方伯のほか、ブランデンブルクやヴュルテンベルクなどの諸侯、さらにストラスブールやノルデンなど複数の帝国都市が含まれていました。加盟領邦や都市は、それぞれ一定数の兵力や資金の提供を約束し、ルター派信仰を理由とする皇帝や帝国議会からの圧迫に対して共同で防衛に当たることを誓いました。

宗教的な基盤としては、アウクスブルク信仰告白が同盟の共通の教義文書とされました。これは、ルター派の神学者メランヒトンが中心となってまとめたもので、カトリック教会から見れば異端的要素を含みつつも、極端な急進性を抑え、対話の余地を残そうとした温和な文書でした。シュマルカルデン同盟は、この信仰告白を自らの正当性の根拠とし、「われわれは勝手な新興宗教ではなく、正統的なキリスト教理解に基づいている」と主張したのです。

同盟の運営は、加盟諸侯・都市の会議によって行われましたが、各加盟者は主権を持つ領邦であり、中央集権的な組織というよりは「連合体」に近い性格でした。外交交渉では、同盟はフランス王国やデンマークなど、皇帝と対立する外部勢力とも一時的に接触を持ち、対カール5世の圧力材料として利用しようとしました。こうした動きは、宗教対立がすでに「帝国内問題」を超えて国際政治に組み込まれていたことを示しています。

シュマルカルデン同盟は結成後しばらく、皇帝との直接衝突を避けながら、自領での宗教改革の定着に力を注ぎました。聖職者の結婚やミサの改革、ドイツ語による礼拝などルター派の実践が整えられ、教会財産の整理と教育制度の整備も進められました。この時期、同盟はある種の「プロテスタントブロック」として、ドイツ北部・中部の広い範囲に影響力を持つようになります。

皇帝との対立とシュマルカルデン戦争

もっとも、皇帝カール5世がいつまでもシュマルカルデン同盟の存在を容認するつもりだったわけではありません。対外的にはフランスやオスマン帝国との戦争が続いていたため、当面はプロテスタント諸侯との妥協(ニュルンベルク休戦など)に応じざるをえませんでしたが、唯一の正統な信仰としてのカトリックを維持したいという基本方針は変わっていませんでした。

1540年代に入ると、国際情勢に変化が生じます。フランスとの戦いがひとまず落ち着き、オスマン帝国との衝突も小康状態となるなかで、カール5世は帝国内部の宗教問題に本格的に向き合う余力を得ました。さらに、一部のカトリック諸侯や司教は、プロテスタント諸侯の勢力伸長を危険視し、皇帝に同盟への軍事的対応を促します。このような背景から、1546年、ついにシュマルカルデン同盟と皇帝との全面戦争が始まります。これが「シュマルカルデン戦争」です。

戦争初期、同盟側は兵力・資金の面で一定の優位に立っていましたが、諸侯間の利害対立や戦略の不一致が足かせとなりました。皇帝側は巧みに諸侯間の分断を利用し、一部の諸侯には領土の拡大や地位の保証をちらつかせて味方に引き入れます。一方で、シュマルカルデン同盟内部には、「皇帝との全面対決は避けるべきだ」と慎重な態度をとる勢力もおり、積極的な行動が後手に回った面もありました。

戦局を決定づけたのは、1547年4月のミュールベルクの戦いです。エルベ川沿いで両軍が激突し、カール5世率いる皇帝軍は奇襲と機動力を活かして同盟軍を大敗させました。ザクセン選帝侯ヨハン=フリードリヒは捕らえられ、同盟の軍事的中核は事実上崩壊します。ヘッセン方伯フィリップも降伏し、皇帝の捕虜となりました。こうして、シュマルカルデン同盟は軍事的には壊滅状態に追い込まれます。

戦いの結果、皇帝は一見すると「完全勝利」を収めたように見えました。プロテスタント諸侯の指導者たちは拘束され、同盟は事実上解体に追い込まれます。カール5世は、帝国議会における発言力を背景に、ドイツ全体に自らの宗教政策を押し付けるチャンスを得たかに思えました。1548年には「アウクスブルク仮信条令」を発布し、カトリック教義を基本としながら、プロテスタント側に限定的な譲歩を行う暫定的宗教制度を整えようとします。

しかし、この軍事的勝利は、長期的な安定や宗教統一には結びつきませんでした。第一に、皇帝の支配力は、諸侯の協力と帝国外地域(スペイン・ネーデルラントなど)の資源に大きく依存しており、ドイツだけのために大規模な占領軍を維持し続けることは不可能でした。第二に、民衆や地元の聖職者の間ではすでにルター派信仰が深く根を下ろしており、上からの命令によって一気にカトリックへ戻すことは現実的でありませんでした。

このため、シュマルカルデン同盟は軍事的には敗北しましたが、宗教改革そのものを根絶することには失敗し、むしろ「ルター派を完全に押しつぶすことはできない」という現実を皇帝側に認識させる結果になりました。このギャップが、のちのアウクスブルクの和議での妥協へとつながっていきます。

同盟の解体とアウクスブルクの和議へのつながり

シュマルカルデン戦争ののち、同盟は組織としては崩壊し、指導者たちも長く拘束されたり、領地を削られたりしました。しかし、ルター派諸領そのものがすべて取り潰されたわけではなく、多くの地域でプロテスタント教会と信仰実践は存続しました。皇帝の押し付けたアウクスブルク仮信条令は、カトリック・プロテスタント双方から不満を持たれ、帝国内の緊張を完全に鎮めることはできませんでした。

1550年代に入ると、皇帝カール5世自身が、多方面での戦争や統治の負担に疲弊していきます。ネーデルラントでは反乱の兆しがあり、スペインやイタリアでも課題が山積していました。ドイツでは、プロテスタント諸侯の中に再び皇帝に抵抗する動きが現れ、その一部はカール5世の弟フェルディナントと接近して、より現実的な宗教妥協を模索します。

こうした政治的駆け引きの結果、1555年にアウクスブルクの和議が結ばれます。この和議では、アウクスブルク仮信条令に代わって、ルター派信仰が公式に「容認された選択肢」として認められました。特に重要なのは、「領邦君主が自分の領地の宗教(カトリックかルター派か)を決める権利を持ち、その決定に領民が従う」という原則が確認されたことです。

これは、個々人の信仰の自由を保障する近代的な原則とはまだ言えませんが、「皇帝と教皇が一方的に帝国全体の宗教を決める」という中世的な発想から、「それぞれの領邦が選択する」という方向への大きな転換でした。その背景には、シュマルカルデン同盟の経験を通じて、プロテスタント諸侯が軍事的にも政治的にも無視できない力を持つことを示した事実がありました。

もしシュマルカルデン同盟が結成されず、ルター派諸侯がバラバラに皇帝と対峙していたなら、個々の領邦は簡単に押しつぶされていたかもしれません。同盟という形で一定期間まとまって行動したからこそ、敗北を経験しつつも、「ルター派をひとまとめに違法視することは現実的でない」という認識を皇帝側に与えることができたと見ることができます。

この意味で、シュマルカルデン同盟は、たとえ組織としては短命に終わったとしても、帝国内の宗教多元化と領邦主権の形成に向けて重要な役割を果たしました。のちの三十年戦争やウェストファリア条約など、ヨーロッパ全体で「国家と宗教の関係」が再構成されていく長いプロセスを考えるうえで、その初期段階の具体的な実験例の一つとして位置づけられます。

世界史で「シュマルカルデン同盟」という用語に出会ったときには、1531年にルター派諸侯・都市が結成した軍事同盟であり、皇帝カール5世と対立してシュマルカルデン戦争を戦い、敗北しながらも、最終的にはアウクスブルクの和議を通じてルター派容認への道を開いた存在だ、とイメージしておくと理解しやすくなります。その背後には、宗教改革の信仰の問題と、帝国内の権力構造・領邦主権の問題が複雑に絡み合っていたことも、あわせて思い出しておくとよいでしょう。