新絶対主義(オーストリア) – 世界史用語集

新絶対主義(しんぜったいしゅぎ)とは、18世紀後半のヨーロッパでみられた、啓蒙思想を取り入れた合理的・官僚的な絶対王政のあり方を指す言葉で、とくにオーストリアではマリア=テレジアとその子ヨーゼフ2世の一連の改革をさして用いられることが多い用語です。従来の絶対王政が王と貴族の個人的な関係や伝統的特権に大きく依存していたのに対し、新絶対主義では、中央集権的な官僚制度や統一された法・税制を整え、国家が国民を直接支配・管理する体制づくりが進められました。その際の理論的な支えとなったのが、「理性」「公益」「国家の繁栄」といった啓蒙時代のキーワードでした。

オーストリアのハプスブルク君主国は、多民族・多言語・多宗教から成る広大な帝国であり、旧来の貴族的支配や地方の特権に任せていては、プロイセンなどのライバル国家との競争に勝てない状況に追い込まれていました。とくに18世紀半ばのオーストリア継承戦争やシュレジエン戦争(七年戦争)の経験は、軍事・財政・行政の面で立ち遅れたオーストリアの弱点をはっきりと浮かび上がらせました。こうした危機感のなかで、ハプスブルク君主たちは、啓蒙思想や西欧の最新の行政・軍事制度を学び、上からの改革によって「効率よく戦争に耐えうる国家」をつくろうとしたのです。

その意味でオーストリアの新絶対主義は、一方では「理性と公益にもとづく啓蒙的な改革」であり、他方では「戦争とライバルとの競争に生き残るための富国強兵策」でもありました。農民や庶民の生活改善につながる政策もあれば、国家のために人びとをより徹底的に管理・動員する仕組みもあり、その両面をあわせ持っていた点が特徴です。世界史で新絶対主義(オーストリア)という用語に出会ったときには、マリア=テレジアとヨーゼフ2世を中心に、「啓蒙」と「国家利益」がどのように結びつき、どこで矛盾したのかを意識してみると、全体像がつかみやすくなります。

スポンサーリンク

オーストリアの新絶対主義とは何か

まず、「新絶対主義」という概念そのものについて整理しておきます。絶対王政の典型とされる17世紀フランスのルイ14世の時代などでは、王権は「神から授けられた権威(王権神授説)」を強調し、王の命令に忠実な軍隊と官僚制を整えつつも、同時に貴族や地方の特権もある程度認め、複雑なバランスの上に統治が成り立っていました。これに対して18世紀後半になると、啓蒙思想の影響のもとで、一部の君主は自らを「国家第一の下僕」と位置づけ、理性と公益の名のもとに、特権の整理や行政の合理化を進めようとします。このような動きを、一般に「啓蒙専制君主」あるいは「新絶対主義」と呼びます。

オーストリアでは、女帝マリア=テレジア(在位1740〜1780年)と、その子で共同統治者・のち単独統治者となったヨーゼフ2世(在位1765〜1790年)が、新絶対主義を代表する君主とされています。マリア=テレジアは、オーストリア継承戦争や七年戦争でプロイセンのフリードリヒ2世と激しく争うなかで、軍事・財政・行政・教育・農村支配など、多方面にわたる改革を断行しました。ヨーゼフ2世はさらに急進的で、宗教政策や農奴制改革、行政中央集権化などにおいて、母以上の大胆な方針をとりました。

オーストリアの新絶対主義の特徴を簡単にまとめると、①常備軍と官僚制を整備して中央集権的支配を強化すること、②統一的な税制と財政管理によって国家収入を増やし、戦争に耐えうる国家をつくること、③教育や司法・行政の改革を通じて、プロテスタントや啓蒙思想の圧力に対応しうる「近代化されたカトリック君主国」を目指すこと、の三点に整理できます。

このなかで、啓蒙思想の影響はとくにヨーゼフ2世の時代に強く表れましたが、マリア=テレジアの時代からすでに、合理的な官僚制や義務教育の導入など、「理性的な国家運営」を志向する改革が進められていました。したがって、新絶対主義(オーストリア)という用語には、「古い絶対王政」と「19世紀以降の立憲体制」とのあいだに位置する、過渡期としての18世紀後半オーストリア君主国の姿が込められていると言えます。

マリア=テレジアの改革:戦争と国家再建

新絶対主義(オーストリア)を語るうえで、まず押さえておきたいのがマリア=テレジアの治世です。1740年、ハプスブルク家の家督とともにオーストリア君主国の支配者となった彼女は、その直後からオーストリア継承戦争に巻き込まれます。女性の相続を認めた「プラグマティック=サンクティオン」に反発した諸国や、領土拡大を狙うプロイセン・バイエルンなどが次々と敵に回り、ハプスブルク領は大きな危機に陥りました。

この戦争と、その後のシュレジエン(シレジア)をめぐるプロイセンとの争奪戦、さらに七年戦争の経験は、マリア=テレジアにとって、「戦争に耐えうる国家への改革」の必要性を痛感させるものでした。優秀な軍隊と安定した財政、情報を掌握する官僚機構なしには、プロイセンのような近代的軍事国家には太刀打ちできないことが明らかになったからです。

マリア=テレジアはまず、財政・税制の改革に着手しました。従来、ハプスブルク領では、貴族や教会が多くの免税特権を有しており、税負担は主に農民や市民に偏っていました。彼女は、この不均衡な税制を是正し、貴族領地にも課税を行う方向で制度を改めます。完全な平等課税とは言えないものの、「身分にかかわらず一定の税を負担する」という近代的な発想が導入されました。また、徴税の方法も統一・合理化され、国家財政の見通しが立てやすくなりました。

軍制面では、常備軍の拡充と訓練制度の整備が進められました。兵士の徴募や補給体制を安定させるため、人口調査や土地台帳が整えられ、国家が各地域の人員・資源を把握する仕組みが強化されます。これは単なる軍事技術の問題ではなく、「国家が社会全体を数値で管理する」という近代的な統治技術の導入でもありました。

行政・官僚制の改革も重要です。マリア=テレジアは、ウィーンに中央官庁を集約し、財政・軍事・司法・内政などの分野ごとに専門の官庁を設置しました。各地の総督や官僚は、この中央機構の指示を受けて統治を行うことになり、従来のような地方貴族の恣意的支配は徐々に制限されていきます。官僚は教育を受けた専門職として採用され、その身分は出自よりも能力に基づく要素が強まりました。このような「官僚制による国家運営」は、新絶対主義の大きな特徴の一つです。

教育政策も、マリア=テレジア期の重要な改革でした。彼女は、カトリック君主としての立場から宗教教育を重んじつつも、同時に国民の基礎的な読み書き能力を高めることで、国家への忠誠心と生産性を向上させようとしました。18世紀後半には、小学校レベルの義務教育制度が整えられ、司祭や教師による初等教育が各地で行われるようになります。これにより、読み書きのできる農民や市民が増え、行政・軍事・経済活動の近代化に必要な人的基盤が作られていきました。

ただし、マリア=テレジアの改革は、あくまでハプスブルク君主国の伝統的枠組みを守りながら、その内側で合理化を進めるものでした。彼女はカトリック信仰を強く重んじ、プロテスタントやユダヤ教徒には制限を加え続けましたし、農民の土地支配を担う荘園制度も根本的には維持されました。その意味で、彼女の改革は「保守的な枠内での近代化」と言うことができ、その枠をさらに押し広げようとしたのが、後継者ヨーゼフ2世でした。

ヨーゼフ2世の急進的改革とその限界

マリア=テレジアの子ヨーゼフ2世は、しばしば「最も徹底した啓蒙専制君主」と呼ばれます。彼は若い頃から啓蒙思想家の著作を読み、「理性」と「公益」を口にし、自らを「人民の第一の下僕」と表現しました。母マリア=テレジアと共同統治していた時期から、彼はより急進的な改革案を次々と打ち出し、母の死後はそれを一気に実行に移しました。

ヨーゼフ2世の代表的な改革としてまず挙げられるのが、宗教政策です。彼はカトリック教会の特権を削減し、修道院のうち、教育・医療・慈善など公共的な役割を持たない「観想修道院(祈りが中心の修道院)」を多数廃止しました。その財産は国庫に編入され、国家財政や公共事業に充てられました。また、プロテスタントやギリシア正教徒、ユダヤ人に対しても一定の信仰の自由や居住・職業選択の自由を認め、「寛容令」として知られる政策を実施しました。

これらの宗教政策は、一見すると近代的な宗教寛容の先駆けのように見えますが、その根底には「教会を国家の下に従属させ、宗教を国家目的に役立つ範囲でのみ認める」という発想がありました。つまり、ヨーゼフ2世にとって宗教改革は、信教の自由のためというより、国家の統制力を強めるための合理化策でもあったのです。そのため、熱心なカトリック信者や教会側からの反発も強く、地方では不満がくすぶります。

農村政策では、農奴制に対する改革が重要です。ヨーゼフ2世は、農民が領主に対して負う賦役・地代・裁判的従属などを制限し、農民に対して一定の自由な移動や結婚の権利を認める勅令を出しました。これにより、農民の法的地位は改善され、極端な形の農奴制は弱められました。しかし、土地所有の構造そのものや、実際の圧力関係はすぐには変わらず、多くの地方貴族はさまざまな形で旧来の支配を維持しようとしました。

行政面では、ヨーゼフ2世は帝国全体をウィーンの中央官僚制のもとで統一的に支配しようとしました。各地域の慣習法や自治的特権を縮小し、共通の法律や行政基準を導入することによって、「一つの国家」としての一体性を強めようとしたのです。その一環として、ドイツ語を行政の共通言語としようとした試みもありました。これは多言語帝国における合理化策であると同時に、他民族にとっては自らの言語・文化への脅威とも受け取られました。

さらに、司法制度の改革としては、拷問の廃止や刑罰の軽減など、人道的な側面をもつ政策も実行されました。これらは啓蒙思想の影響を色濃く反映しており、近代的な法の支配へ向けた一歩と評価されます。一方で、検閲制度や行政による上からの指導は依然として強く、政治的自由や言論の自由が広く認められたわけではありませんでした。

ヨーゼフ2世の改革は、その急進性ゆえに、多くの反発と矛盾を生みました。教会・貴族・各民族のエリート層からの抵抗に加え、改革のスピードに民衆がついていけない側面もありました。特にハンガリーやネーデルラント(オーストリア領南ネーデルラント、現在のベルギー)では、伝統的特権の侵害への反発が激しく、反乱や政治的危機が頻発しました。

晩年、ヨーゼフ2世は国内の不安定さに直面し、いくつかの改革を撤回せざるをえなくなります。彼の死後、後継者たちは一部の急進的改革を取りやめ、体制の安定を優先する方向に舵を切りました。このように、オーストリアの新絶対主義は、啓蒙的な理念と、ハプスブルク帝国という現実の枠組みとのあいだで揺れ動き、その限界もまたはっきりと露呈したのです。

新絶対主義のもとでのオーストリア社会の変化

マリア=テレジアとヨーゼフ2世による新絶対主義的改革は、オーストリア社会にさまざまな変化をもたらしました。まず、国家と社会の関係において、国家の存在感が飛躍的に大きくなりました。税制・人口登録・徴兵制度・教育制度などを通じて、人びとの生活はますます「国家の網の目」の中に組み込まれていきます。農民や市民にとって、国家は遠い存在ではなく、日々の暮らしに直接かかわる大きな枠組みとして意識されるようになりました。

同時に、官僚という新しいエリート層が台頭しました。彼らは貴族出身者だけでなく、大学教育を受けた中産市民層からも採用され、専門知識と行政能力にもとづいて昇進する道が開かれました。このことは、従来の血筋中心の身分秩序に小さくない変化をもたらし、のちの市民社会や国民国家形成の前提条件ともなっていきます。官僚たちは、国家の安定と改革の推進を担う存在であると同時に、中央集権化の担い手として各地域との軋轢を抱えることにもなりました。

宗教の場では、ヨーゼフ2世の寛容政策や修道院改革により、カトリック教会の絶対的な支配力は弱まりましたが、同時に教会が担っていた地域社会の精神的支えや福祉機能にも変化が生じました。廃止された修道院が提供していた教育や救貧活動が国家によってどこまで代替されたのか、地域によって状況はさまざまでした。人びとの信仰心そのものは簡単には変わらず、国家と教会、伝統と改革のあいだで揺れる場面も多く見られました。

農村社会では、農奴制の緩和により、農民の法的地位が一定程度向上しましたが、土地所有構造や地域の慣習はすぐには変わりませんでした。それでも、農民が領主に対して法的権利を主張できる場が増えたことは、長期的には農村社会の変化を促す要因となりました。また、人口増加と定住化の進展に伴い、農村と都市、各地域間の経済交流も活発になっていきます。

民族問題や言語の問題も、新絶対主義期のオーストリアでは重要なテーマでした。ドイツ語を行政の共通語としようとする政策は、合理化と近代化の一環であると同時に、チェコ人・ハンガリー人・イタリア人・ポーランド人など、多様な民族から成るハプスブルク帝国に緊張を生みました。18世紀末にはまだ本格的な民族運動は限られていましたが、言語と教育をめぐる経験は、のちの19世紀の民族主義運動の土壌となっていきます。

このように、オーストリアの新絶対主義は、単に宮廷や官庁の内部にとどまらず、社会の広い層に影響を及ぼしました。改革の一部は、その後も継承され、ハプスブルク帝国が19世紀を通じて中央ヨーロッパの大国として存続するための基盤となりました。一方で、急進的な改革の反発や、多民族帝国の難しさは、後の時代に持ち越される問題として残りました。

世界史のなかで「新絶対主義(オーストリア)」を位置づけるとき、それは絶対王政から立憲体制へと移行していく流れの中間にある、一つの試みとして見ることができます。理性と公益を掲げる啓蒙の言葉を借りながらも、最終的な権力はなお君主の手にあり、民衆の政治参加は限定的でした。そのため、この時期のオーストリアは、古い身分秩序と新しい国家像がせめぎ合う「過渡期の社会」として、多くの矛盾と実験を内包していたと言えるでしょう。