シュマルカルデン戦争 – 世界史用語集

「シュマルカルデン戦争」とは、16世紀ドイツで起こった、神聖ローマ皇帝カール5世(ドイツ名カール、スペイン王としてはカルロス1世)と、ルター派諸侯が結成した「シュマルカルデン同盟」とのあいだの戦争を指す名称です。年代としては1546〜1547年の短期間ですが、ドイツ宗教改革の行方と、皇帝権力・諸侯権力のバランスを大きく揺り動かした出来事として、世界史の中で重要な位置を占めています。表向きには宗教対立(カトリック対プロテスタント)の戦争ですが、その背後には皇帝による中央集権化と、領邦諸侯・都市の自立をめぐる政治的な駆け引きも存在しました。

戦争は最終的に、皇帝カール5世側の勝利に終わりました。その結果、ルター派諸侯は一時的に軍事的・政治的に押さえ込まれ、「アウクスブルク仮信条令」と呼ばれる和約によって、プロテスタントに不利な条件が押し付けられます。しかし、皇帝の勝利は長期的には安定につながらず、やがて再び対立が激化し、1555年のアウクスブルクの和議で「領邦君主が自らの領地の宗教を決める」という原則が認められていく流れへとつながっていきます。シュマルカルデン戦争は、この大きな流れの中の重要な節目として理解されています。

この解説では、まずシュマルカルデン戦争に至るまでの背景、すなわちルターによる宗教改革とドイツの政治構造、シュマルカルデン同盟の成立について整理します。次に、戦争そのものの経過と、主な戦い・外交工作をたどります。最後に、戦争後の「アウクスブルク仮信条令」とその影響、さらには後のアウクスブルクの和議や三十年戦争への連続性にも触れていきます。概要だけでも「なぜこの戦争が起こり、どう終わったのか」をイメージできるようにしつつ、詳しく知りたい人は各見出しを通じて、宗教改革期ドイツの複雑な力関係まで見通せる構成にしていきます。

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宗教改革とシュマルカルデン同盟の成立

シュマルカルデン戦争の背景には、言うまでもなくルターによる宗教改革があります。1517年、ヴィッテンベルク大学の神学者マルティン=ルターが「95か条の論題」を掲げ、贖宥状(免罪符)の販売を批判したことをきっかけに、教皇権や教会の権威に対する広範な疑問がドイツ各地で高まりました。ルターは教義面で「信仰義認」や「聖書のみ」を主張し、教皇の特権や修道制など伝統的なカトリック教会制度を相対化していきます。

当初、皇帝カール5世はカトリック信仰の擁護者としてルターを否定し、1521年のヴォルムス帝国議会ではルターに異端宣告が出されました。しかし、実際のドイツ国内の状況は単純ではありませんでした。ザクセン選帝侯フリードリヒ賢公をはじめ、いくつかの諸侯はルターを保護し、領内で宗教改革を進め始めます。彼らにとって、宗教改革は信仰の問題であると同時に、教会財産の接収や司教権限の取り込みを通じて、自らの領邦権力を強化する好機でもありました。

神聖ローマ帝国は、多数の領邦諸侯・自由都市・教会領から成る「領邦国家の集合体」であり、皇帝権力が絶対的というわけではありませんでした。皇帝はハプスブルク家のカール5世でしたが、彼はスペイン王やイタリア諸領・オランダなども兼ねる「ヨーロッパ最大級の君主」である一方、ドイツ国内の諸侯を完全には掌握できず、またフランス王国やオスマン帝国との対外戦争にも追われていました。このため、宗教問題に集中して諸侯を押さえ込む余力が十分でなかったのです。

こうした中で、プロテスタント側の諸侯や都市は、相互防衛と政治的協力のための同盟を結び始めます。その代表的な例が、1531年に結成された「シュマルカルデン同盟」です。この同盟は、テューリンゲン地方の都市シュマルカルデンで結ばれたことからその名が付いています。加盟メンバーには、ザクセン選帝侯やヘッセン方伯など有力諸侯が含まれ、ルター派諸領の軍事同盟としての性格を持っていました。

シュマルカルデン同盟は、宗教的にはアウクスブルク信仰告白(1530年)を基礎とし、カトリック側からの圧迫に対して互いに軍事的支援を行うことを約束しました。皇帝カール5世にとって、この同盟は「帝国内の一部が独自の軍事ブロックを形成し、中央権力に対抗しうる力を持ちつつある」という意味で、宗教だけでなく政治の面でも重大な挑戦と映りました。

もっとも、シュマルカルデン同盟の結成直後から皇帝がただちに軍事行動に出たわけではありません。カール5世は対外戦争や財政難のため、しばしばプロテスタント諸侯との妥協を余儀なくされ、1532年のニュルンベルク休戦協定などを通じて、一定期間はルター派への弾圧を控える約束をします。しかし、長期的には「帝国内の宗教的一体性を回復し、ローマ教会との関係を維持する」という目標を捨てたわけではなく、条件が整えば同盟を武力で抑え込もうと考えていました。

こうして16世紀中葉までに、神聖ローマ帝国の内部には、「カトリックを支える皇帝・教会勢力」と、「ルター派を支え自立性を強めようとする諸侯・都市」の対立構図が固まりつつありました。シュマルカルデン戦争は、この緊張がいよいよ爆発した局面として理解することができます。

シュマルカルデン戦争の開戦と戦局の推移

シュマルカルデン戦争が実際に勃発するのは1546年です。その直前の情勢として重要なのが、皇帝カール5世が対外的な敵対勢力との関係を一時的に調整し、帝国内問題に集中できる条件を整えたことです。フランス王フランソワ1世との戦いはカトー=カンブレジ条約などを通じて一段落し、オスマン帝国との戦線も小康状態にありました。このタイミングをとらえ、カール5世は「宗教と帝国秩序の回復」を名目に、シュマルカルデン同盟への軍事行動に踏み切ります。

戦争のきっかけの一つには、帝国内部での権力バランスの変化もありました。バイエルン公国など、一部のカトリック諸侯は、プロテスタント諸侯の勢力拡大を脅威と感じており、皇帝側について同盟軍と戦うことで、ライバル諸侯を抑え込もうとする思惑を持っていました。こうして、戦争は単に「皇帝対諸侯の対立」ではなく、領邦同士の利害調整の場ともなっていきます。

1546年、カール5世はカトリック諸侯と連合軍を組織し、南ドイツ方面からシュマルカルデン同盟領へと進軍しました。一方のシュマルカルデン同盟軍は、ザクセン選帝侯ヨハン=フリードリヒとヘッセン方伯フィリップを中心とする軍を動かし、帝国の中部から南部にかけて布陣します。当初、同盟軍は数や士気の面で優勢とみられていましたが、諸侯間の足並みの乱れや、戦略的統一の欠如が徐々に影響していきます。

戦局の決定的な転換点となったのは、1547年のミュールベルクの戦いです。エルベ川沿いで行われたこの戦闘で、カール5世率いる皇帝軍は、奇襲と機動力を活かしてシュマルカルデン同盟軍を破り、ヨハン=フリードリヒを捕虜とする大勝利を収めました。この敗北により、同盟の主導的指導者が失われ、軍事的抵抗は急速に崩れていきます。ヘッセン方伯フィリップも最終的に降伏し、皇帝側に拘束されました。

なお、戦争の最中にルター本人はすでにこの世を去っていました(1546年没)。そのため、シュマルカルデン戦争は、「ルターの教えを受け継いだ諸侯・都市」と、「カトリック皇帝」との戦いという性格を持ちますが、本人が現場で指導することはありませんでした。戦争の結果は、宗教改革運動が軍事的に押し切られたようにも見えましたが、同時に諸侯や民衆のあいだに広まったルター派信仰を完全に消し去ることはできませんでした。

ミュールベルクの勝利後、カール5世は一時的にドイツにおける覇権を確立したかに見えました。プロテスタント側の有力諸侯を拘束し、帝国議会を通じて自らの宗教政策を押し付ける条件が整ったかに見えたのです。しかし、彼の支配は諸侯の協力に依存しており、またスペインやイタリア、ネーデルラントなど他地域の統治にも目を配らなければならなかったため、全面的な「再カトリック化」を強行するだけの持久力はありませんでした。

アウクスブルク仮信条令と戦後の揺り戻し

シュマルカルデン戦争後、皇帝カール5世は、自らの勝利を政治的・宗教的な制度に反映させようとしました。その象徴的な措置が、1548年に出された「アウクスブルク仮信条令(アウクスブルク暫定令)」です。この文書は、帝国内の宗教問題について皇帝の意向を盛り込んだ一種の暫定的妥協案であり、形式上はカトリック教義を基礎としつつ、プロテスタント側にわずかな譲歩を認める形を取っていました。

具体的には、プロテスタント諸侯や都市にも一定の聖餐のあり方や聖職者の結婚などを限定的に認める一方、教会組織や教義の多くはカトリック的形態に従うべきだとされました。これは、皇帝が「完全な再カトリック化」と「宗教的多元化」の中間を狙った妥協案と見ることもできますが、実際にはどちらの側にも不満を生みました。熱心なカトリックから見れば譲歩が大きすぎ、ルター派から見れば信仰の自由が大きく制限される不当な押し付けと映ったのです。

シュマルカルデン戦争で敗北したプロテスタント諸侯は、一部領地を削られるなどの不利益を受けましたが、その領民の多くは依然としてルター派信仰を保持していました。皇帝が上から制度を押し付けても、日常生活の中で信仰や礼拝の形を完全に変えることは容易ではありませんでした。また、ドイツ帝国内では、プロテスタント勢力を利用して皇帝の権力を牽制しようとするカトリック諸侯もおり、単純な「皇帝対プロテスタント」の構図では動かない複雑な政治力学が存在しました。

一方、カール5世自身も、ドイツ問題だけに専念できる立場ではありませんでした。スペイン王国では財政や植民地支配の問題、ネーデルラントでは反乱の芽、イタリアや対オスマン戦線など、さまざまな課題に対応する必要がありました。こうした中で、ドイツにおける一方的な宗教政策を維持し続けることは次第に困難になっていきます。

1550年代に入ると、プロテスタント諸侯は再び皇帝に対する抵抗の動きを強め、カール5世の弟であり後継者候補でもあったフェルディナント大公とのあいだで、より現実的な妥協を模索する交渉が進みます。この過程で、カール5世は次第に疲弊し、最終的には皇帝位を甥のフェリペ2世や弟フェルディナントに譲って隠退する道を選ぶことになります。

シュマルカルデン戦争の直接の終結から十年足らずの1555年、ついに「アウクスブルクの和議」が締結されます。この和議は、「アウクスブルク仮信条令」とは異なり、ルター派信仰を一定の条件のもとで法的に認めるという、より明確な宗教妥協を含んでいました。とくに重要なのが、「領邦君主が自らの領地の宗教(カトリックかルター派か)を選ぶことができ、その選択に領民も従わねばならない」という原則(いわゆる『その統治者の宗教が、その国の宗教である』という原則)です。

この原則は、個々の信徒の信教の自由を保障するものではありませんでしたが、少なくともドイツ帝国内でルター派が「違法な異端」ではなく、「選択肢の一つ」として公的に位置づけられる道を開きました。その意味で、シュマルカルデン戦争とその後のアウクスブルク仮信条令は、最終的な妥協に至るまでの激しい揺れ戻しの一局面として理解できます。

シュマルカルデン戦争の位置づけとその後の展開

シュマルカルデン戦争は、時間的にはわずか二年ほどの短い戦争でしたが、その影響は長く続きました。まず、この戦争によって、皇帝カール5世が一時的にドイツ政治の主導権を握り、「神聖ローマ帝国の再編」に挑戦したという点が重要です。彼は、自らの勝利を利用して帝国憲章や宗教制度を上から整え直そうと試みましたが、その試みは最終的には持続せず、むしろ諸侯の自立性を逆に浮き彫りにする結果となりました。

宗教面では、シュマルカルデン戦争後もカトリックとプロテスタントの対立は解消されず、むしろ地域ごとに宗教が固定化されていく流れが強まりました。アウクスブルクの和議によって、ルター派は法的に認められましたが、カルヴァン派など他のプロテスタント諸派はなお不安定な立場に置かれ、これが後の三十年戦争につながる火種の一つとなります。

政治的には、シュマルカルデン戦争は「皇帝による中央集権化の限界」を示した戦争とも言えます。中世的な複合国家である神聖ローマ帝国では、皇帝が軍事力を用いて一時的に諸侯を屈服させることはできても、持続的な官僚機構や財政基盤が不足しているため、長期的な一元支配を確立することは困難でした。シュマルカルデン同盟の敗北は、諸侯の抵抗が完全には消えないことを示し、結果的に「諸侯の独立性と宗教的選択権」を認めざるをえない方向へと帝国を導きました。

また、この戦争は、宗教改革が単なる教義論争ではなく、「誰がどの領域で権力と財産を握るのか」という現実的な政治・経済の問題と密接に結びついていたことを浮き彫りにしました。多くの諸侯は、宗教改革を受け入れることで教会財産を自領のものとし、自立性を高めることができた一方、その動きは皇帝やカトリック教会にとっては権威の喪失を意味しました。シュマルカルデン戦争は、こうした利害の衝突が軍事的な形で吹き出した結果だと見ることができます。

その後のヨーロッパでは、宗教改革と対抗宗教改革、国家形成と領邦主権の確立、そして最終的には三十年戦争とウェストファリア条約という大きな流れの中で、「国家と宗教の関係」「主権と信仰の関係」が再配置されていきます。シュマルカルデン戦争は、その長いプロセスの中で、初期段階における重要な「実験」とも言えるものでした。

世界史で「シュマルカルデン戦争」という用語が登場したときには、単に「カール5世がプロテスタント諸侯を破った戦争」と覚えるだけでなく、その前にあるシュマルカルデン同盟の成立、戦後のアウクスブルク仮信条令、そして最終的なアウクスブルクの和議までを一つの流れとして思い浮かべると、宗教改革期ドイツの複雑な政治・宗教状況をより具体的にイメージしやすくなります。