官人永業田(かんじん・えいぎょうでん)とは、隋・唐の均田制の枠内で、官人(官僚)に対して支給・設定された、相続によって長期に継承できる私有(恒久)性の強い田地を指す用語です。一般の成年男子に貸与され、死亡や老廃で返還することを原則とした口分田と異なり、永業田は本来的に家産(永く業とする=永業)として保持される性格を持ち、転売や質入れに関する規制はあるものの、没収・返還の対象ではありませんでした。実際の運用では、官人に対しては俸給(祿)・職田(在職中のみ使用する官給地)・物資支給と並んで、この永業田が生活・門第維持の基礎をなしました。官人永業田は、均田制という「国家が資源を一度配り直す仕組み」の中で、士大夫層の経済基盤を制度的に保証する装置であり、唐代政治社会の階層形成・荘園化の進行・両税法への転換とも密接に関わっていきます。以下では、制度の位置づけと成立背景、支給・保有の実際と法規、社会経済的な影響と変質、関連用語との違いという観点から、わかりやすく整理して説明します。
制度の位置づけと背景―均田制の中の「永く業とする田」
均田制は、国家が戸籍・計帳にもとづき、年齢・性別・身分に応じて農地を割り当てる仕組みです。基本形は、成年男子に口分田、さらに家屋敷に付随する宅地、桑・麻・果樹などの栽培に適した永業田を配し、死去・老廃時に口分田を返還させて再配分するというものでした。ここでの「永業」とは、世代を超えて家の生計を支える恒常的な地所という意味で、桑田・園地の性格が強く、耕作技術や樹木の成長サイクルに合わせて長期保有が前提とされたのです。
官人永業田は、この一般住民の永業田の考え方を、官人身分に特化して拡張したものです。すなわち、一定の官位・品階に達した者や、その家に対して、格に応じた面積の永業田を認め、家産の核として継承させる設計でした。隋唐国家は「重文抑武」の文治主義のもと、科挙・任子・蔭位などで官僚を広く登用し、その生活を安定させるために祿・職田・永業田・実物給与を組み合わせました。俸給体系の一部としての官人永業田は、官僚制の再生産=次世代の教育・婚姻・交際費の確保という観点でも重要でした。
また、永業田の理念には、国家が農地市場の混乱を抑制し、家ごとに最低限の生計基盤を固定する狙いがありました。口分田は流動性を担保し、永業田は安定性を担保するという二重設計は、均田制の根幹です。官人永業田はその「安定性」の側の代表で、公共職務の担い手に対して制度的な安全網を張る役割を持ったのです。
支給の実際と法規―品階比例、祿・職田との組み合わせ、売買・質入れの規制
官人永業田の支給は、原則として官位(正・従の品階)に比例しました。高位ほど面積が広く、上級官は在京・在外の赴任地を問わず、家の維持に足る規模が想定されます。中下級官も一定の永業田を認められましたが、俸給の多寡・職田の面積・実物給与(布・穀)とのバランスで生活水準は左右されました。なお、職田は在職中に耕作・収益を許され、退任・転任時には原則返還する「官給地」です。これに対して永業田は在職の有無を問わず家に属し、代々の相続が想定されたことが最大の違いです。
法制面では、唐令は宅地・永業田を「永く業とすべきもの」と位置づけ、租庸調の賦課・戸調の基準にも組み込んでいます。永業田の売買・質入れは全面禁止ではありませんが、一定の制限が付され、無資力による流出の連鎖を抑える意図が読み取れます。官人の場合、賄賂・犯罪などによる没収(籍没)が生じると、永業田の処分にも影響が及びましたが、単なる罷免・転任で没収される性格のものではありませんでした。
運用の現実は地域差が大きく、均田制の実施が比較的行き届いた関中・河東・河南などでは官人永業田の制度が比較的整然と機能し、戸籍・土地台帳に基づく賦課と紐づけられました。他方、辺境や荘園化が進む地域では、口分田の再配分が滞り、永業田の名目で私有地が拡大・固定化する傾向も見られます。すでに初唐から中唐にかけて、豪族・寺社・官人のネットワークを介して永業田の買併や寄進が進み、地券・検田(検地)をめぐる紛争が史料に現れます。
官人の家における永業田は、祿の現物支給や職田収益を補完し、家臣・書吏・使用人の扶養、私塾・門生への投資、婚姻・葬祭・交際といった支出に充てられました。科挙合格を目指す子弟の教育費や書籍購入、交際資本の形成には、安定的な地代・収穫が欠かせず、永業田の存否が、同じ官位でも家の余力を大きく分けたのです。
社会経済的影響と変質―士大夫の家産化、荘園化の加速、均田制の動揺
官人永業田の制度は、短期的には官僚制の安定に寄与しましたが、長期的には士大夫層の家産化(門第の固定化)を促進する側面を持ちました。永業田は相続によって分割・統合を繰り返しながらも家に留まり、口分田の返還・再配分という均田制の「循環」を脇に置いて、特定家系の持続的な資源基盤となります。これに豪族・寺社の寄進地・封戸・佃戸の関係が重なると、荘園的な大規模経営が生まれ、地域の小農は小作化・従属化の圧力にさらされました。
中唐期には軍閥化・節度使の台頭、安史の乱後の戸籍崩壊と流民化により、均田制そのものが制度疲労を起こします。租庸調は実施困難となり、780年の両税法導入で、保有地の面積と資産・営業に応じて夏秋二季に課税する方式へと大転換が行われました。両税法は、均田制を支えていた「戸籍に基づく一律配分」という前提を崩し、事実上、官人永業田を含む私有地課税を基軸とする体制へ移行します。以後、官人の家産は荘園や買併地と不可分に絡み合い、永業田という名称が示す制度的特別性は相対化されていきました。
ただし、観念としての「永業」はその後も生き続け、宋以降の士大夫社会でも「先人の遺業(先祖伝来の田宅)」という倫理・名分が、家産の保全・相続秩序・慈善(義田・義倉)に影響を与えました。唐代の官人永業田は、後世の家産観の一つの原像となり、家学・門第・科挙文化の再生産と結びついて、エリート層の長期持続を支えたのです。
社会の側から見ると、官人永業田は地域の雇用・需給にも波及しました。恒常的な地所がある家は、常雇いの耕作者や季節労働者を抱えやすく、収穫と需要に合わせた市場取引(穀価・布価・地代)に敏感です。都市の官僚社会と農村の生産が、永業田という回路を通じて結びつき、都市消費(書籍・衣服・器物)と農村生産の分業が進みました。逆に、小農にとっては口分田の返還義務と租庸調負担、加えて官人・寺社・豪族の永業地帯の拡張圧力が重くのしかかり、流亡・逃走・投下(他家に投じて保護を受ける)といった現象が、安史以後の社会不安の一因となりました。
関連概念との違い・用語上の注意―口分田・職田・功田・荘園との区別
口分田は、成年男子(丁)に貸し当てられ、死去・老廃時に返す「循環の田」で、売買・質入れが厳しく制限されました。これに対して永業田は、桑麻・園地を含む「家に属する田」で、原則として返還対象ではありません。両者の違いは、均田制の安定と流動を設計するための二本柱です。官人永業田は、この永業田の官人版であり、家産の核として制度的に保障されたものです。
職田は、官職に付随して在任中のみ利用できる官給地で、退任すれば返還します。収益は祿に準じた性格を持ち、在地の田租(収穫の一定割合)を官人に帰属させる仕組みでした。永業田は職田と異なり、官職の有無に関係なく家に属し続けます。この二者はしばしば混同されますが、返還義務の有無・在職要件・法的性格がまったく違います。
功田(軍功による賞田)や勲功封戸など、戦功・功績に応じた地所付与も、唐以前から存在しました。これらは恩賞であって、必ずしも均田制の一般原理に従うものではなく、恩給・食封・封戸などと組み合わさることが多い領域です。荘園は、寄進・買併・開墾などで形成された私的な大規模経営地で、寺社・貴族・官人の家が所有し、免税・不輸不入の特権をめぐって国家と対立する焦点になりがちでした。官人永業田は公的制度の内側で認められた家産地である点で荘園と異なりますが、実態としては荘園的拡大と接続していきました。
用語上の注意として、日本の教科書・用語集では「官人永業田」を唐の制度のキーワードとして掲げますが、史料語は必ずしも一様ではありません。『唐令』『唐六典』などの制度文献、出土の地券・判牘、碑文・墓誌と照合しつつ、地域差・時期差を意識して読む姿勢が重要です。永業田の面積や具体的運用は、時代・地域・戸口状況で変動し、絶対的な固定数字で把握することは適切ではありません。
総じて、官人永業田は、均田制の設計思想(循環と安定の併置)を官僚制の側から具体化した制度でした。俸給・職田・物資支給・恩賞とともに、公務の担い手を養い、家の基盤を支え、士大夫社会の再生産を可能にした一方、長期的には門第の固定化や荘園化を促し、制度全体の動揺に寄与するという「光と影」を併せ持っていました。永く業とする田をどう配り、どう守り、どう課税するか――この古い問いは、土地と国家、家産と公共、安定と流動のバランスをめぐる普遍的な問題として、いまも歴史から考える価値があります。

