後期倭寇(こうきわこう)は、おおむね16世紀中葉(嘉靖年間・1520〜1560年代)に中国沿岸から朝鮮半島・日本列島・東南アジアにまたがって活動した海上武装集団と私貿易ネットワークを指します。中世の初期倭寇と異なり、成員の相当部分が中国人(明の沿岸住民や密商人)で占められ、日本人・ポルトガル人・華僑・琉球人など多様な海民が混成していた点が最大の特徴です。背景には、明の厳しい海禁政策と銀・絹・硝石・硫黄・火器など高付加価値品の国際需給、戦国期日本の分権と港市(堺・博多・平戸)の自立、朝鮮沿岸の交易抑制と地方財政の逼迫、さらにポルトガル商人の到来による新海路の接続がありました。彼らは略奪と商取引を併用し、港湾・島嶼・潟湖・河口に臨時の基地を築き、現地の豪族や役人の協力・黙認を取り付けながら回廊的に移動しました。最終的には明の戚継光・俞大猷らの沿岸防衛改革と官許貿易の再編(広州・月港・マカオ体制)によって沈静化しますが、後期倭寇は東アジアの「密貿易と制海権」の問題を露呈させ、のちの朱印船貿易・海禁緩和・関税国家化の前史をなしました。
背景と構造:海禁・銀の回路・混成海民の誕生
明代の海禁は、朝貢貿易を除く民間海外交易を厳しく制限し、沿岸住民の出海・造船・大宗貨物の移出入を禁止しました。ところが、内外の需要は海禁を無効化します。中国では絹・生糸・陶磁の輸出需要が膨らみ、日本では戦国大名の軍事需要と消費文化の拡大により、絹・唐物・鉄砲・硝石・硫黄・銅銭・薬種が求められました。さらに世界的な銀の流通が動き、16世紀半ばには石見銀山をはじめとする日本銀が中国の銅銭経済・地租貨幣化を支える重要な供給源になります。銀で絹を買い付け、それをまた銀に換える三角取引は、密貿易の強力な動機を生みました。
この需給ギャップの間隙に、海禁を破る密商人・沿岸の水手・武装浪人・地方の退転官吏が結合し、後期倭寇の混成ネットワークが成立します。拠点は浙江・福建・広東沿岸の島嶼や沙洲(舟山群島、寧波・温州・福寧・漳州・潮州周辺)、長江口やアモイ(厦門)近隣の入り江などで、風待ちと補給に適した地形が選ばれました。日本側では堺・博多・大内氏の博多・平戸・薩摩の坊津などが物流・武装の中継点となり、朝鮮半島では済州島沖や全羅・慶尚の入り江が襲撃・交易の舞台になります。
成員構成は固定的ではなく、航次ごとに編成が変わる「プロジェクト型」でした。頭目のもとに船主・水主・鉄砲隊・船大工・通訳・案内人・密輸商が束ねられ、必要に応じて現地の里甲や海商と連絡を取りました。日本人の参加は港市の豪商・水軍・浪人が中心で、火縄銃の運用に長けた小隊が遠征に加わりました。中国人側は「海上商人(海商)」と呼ばれる者が組織の骨格をつくり、密輸と護送、港湾役人への賄賂、在地勢力との縁故を管理しました。
ポルトガル商人の進出(マラッカ・マカオ)も回路を拡張しました。彼らは火器・航海技術・銀の運び手として機能し、倭寇勢力の一部と商取引で結びつきます。1543年には南島(種子島)に漂着したポルトガル人を通じて鉄砲が日本にもたらされ、日本側の火器需要と銃工技術の発達は、海賊行動の火力を底上げしました。他方で、官側が鉄砲・大砲を配備し、臨時の砲台や関を築く契機にもなります。
主要事件と人物:寧波の乱から王直・徐海、嘉靖大倭寇の展開
後期倭寇の時代を告げる象徴的事件が1523年の「寧波の乱」です。室町幕府の勘合貿易の末期、将軍権威の低下に伴い日本側の遣明船の差配は大内氏・細川氏に分裂していました。寧波で双方が衝突し、中国側施設への放火・略奪に発展したことで、明は日本との公式貿易を厳しく制限し、以後、私貿易と海賊行動が拡大します。
1540〜50年代、浙江・福建の沿岸は「嘉靖大倭寇」と呼ばれる連続襲撃に苦しみます。頭目として知られるのが王直(おうちょく、王直〈Wang Zhi〉)です。彼は舟山群島の双嶼を本拠に、明の海禁の外側で秩序立てた商業都市を形成し、日本・東南アジア・中国沿岸を結んで絹・生糸・薬物・硝石・硫黄・銅・鉄砲を扱いました。王直は純粋な「盗賊」ではなく、官側との折衝で官許化を模索した「海商領主」でしたが、朝廷の強硬策のなかで処刑され、組織は分解と武装化を強めます。
徐海(じょかい、Xu Hai)・陳東(Chen Dong)・麻葉(Ma Ye)らは、江蘇・浙江・福建の沿岸を襲撃し、揚子江下流の泰州・蘇州近郊まで侵入したこともありました。彼らの行動は単なる海上襲撃にとどまらず、川筋・運河を利用した内陸進入を含んでいました。朝鮮半島でも、全羅・慶尚の海岸線や離島が被害に遭い、沿岸の屯田・烽火台の運用、火砲・弓騎の強化が急がれます。倭寇はしばしば「交易→紛争→略奪→撤退」という循環で行動し、在地社会の脆弱なポイントを突きました。
官側の対応では、明の俞大猷(ゆだいゆう)・戚継光(せきけいこう)が抜きん出ています。俞は福建での機動戦と水陸連携で戦果を上げ、戚は浙江で農民・鉱夫・傭兵を訓練して精鋭「戚家軍」を編成、『紀效新書』に戦術をまとめました。彼の「鴛鴦陣」は長槍・狼筅・藤牌・火銃を組み合わせた小隊戦術で、銃槍混成の柔軟な布陣が狭隘な沿岸・街路・砦の戦闘に適しました。沿岸の堡塁修築、烽燧の再整備、海上哨戒の常設化もこの時期に進みます。
ポルトガル人のマカオ居住(1557年頃の公認)は、倭寇鎮圧と交易の再編の節点でした。明はポルトガルを「夷」としつつも、限定的居留を認め、広東の税関管理下で交易を制度化しました。これにより、密貿易の一部は公許港へ吸収され、暴力の収益性は逓減していきます。海禁の硬直と汚職・地方財政の窮乏は依然として問題でしたが、軍事・外交・通商の三面を調整する回路が生まれたことは、後期倭寇終息の前提でした。
経済・社会のインパクト:海の周縁を動かした「密の市場」
後期倭寇は、被害と同時に経済的な再配分ももたらしました。密貿易は沿岸の中小港・島嶼の経済を活性化し、造船・塩・魚乾・陶磁・酒・木材・綱・火薬原料といった関連産業に波及しました。堺や博多、平戸の会合衆・商家は唐物と銀の回転で利益を上げ、戦国大名は関銭・座・関所を通じて収入を得ました。中国沿岸でも、海商・手工業者・農漁民がシーズンごとに労働移動し、海民的生活が広がります。朝鮮では密港・隠田が増え、地方官の取締と癒着が繰り返されました。
物流の面では、航路の知が共有され、島嶼・岬・潮流・風系に関する海図外の知識(口承の「水路誌」)が蓄積しました。後期倭寇は補給と修理のネットワークを持ち、船匠・水先・測桿・羅針盤の実務を組織化しました。武器では、火縄銃・手砲・焙烙玉(爆弾)・火矢など火器の標準化が進み、海陸の混成戦術が洗練されます。こうしたノウハウは、のちの朱印船・東アジア海商の実務に継承されました。
一方、社会的コストは甚大でした。沿岸村落は焼き討ちや人畜誘拐に晒され、治安の悪化で耕作放棄・逃散が生じます。運河・河口の交通遮断は米価と塩価を乱高下させ、都市の物価騰貴を招きました。官の側では、緊急徴発・臨時税・軍需支出が地方財政を圧迫し、海禁の厳格化は「合法的生計」を圧殺して密貿易への依存を深めるという逆効果をも生みました。腐敗や冤罪、倭寇嫌疑による濫刑は、沿岸社会に長い不信を残します。
文化的には、沿岸地域で海神・媽祖信仰の高まりや、義兄弟・香党といった海民結社の拡大が見られます。交易と略奪が日常のリスクと並存する世界で、信義・互助・報復の規範が形成され、これが後の海賊・海商文化(明末清初の鄭氏勢力や東南アジア華人商人)に通じていきます。日本側でも倭寇像は地域差が大きく、武勇の物語と商人の利殖、被害者としての記憶が交錯しました。
鎮圧とその後:戚継光改革、通商の再編、近世海域秩序への橋
後期倭寇の鎮圧は、軍事・行政・通商の三方向から進みました。軍事では、戚継光・俞大猷らが小隊単位の訓練・常備化・武器の標準化を進め、堡塁・柵・烽火台・哨船のネットワークを構築しました。行政では、沿海の里甲制の実効化、海防官の巡察、在地豪族・海商の懐柔と分断が図られます。通商では、広東・福建の一部港湾を管理下に開き、マカオを窓口にポルトガル船を統制したことが、密の回路を官の回路へ吸収する効果を生みました。
17世紀に入ると、徳川政権は朱印船貿易(1604頃〜1635)で東南アジア諸港に公許商船を派遣し、倭寇型の私掠・略奪から商館・外交・関税を備えた「公認交易」へと移行します。明末清初には鄭芝龍・鄭成功らの海商武装勢力が福建・台湾・東南アジアを舞台に大規模な海上政権を形成し、海禁・通商・軍事の三位一体モデルを別様に展開しました。後期倭寇で露わになった海禁体制の限界は、各国の「管理された開港」「関税国家化」「航路と港湾の要塞化」という近世の海域秩序へと引き継がれていきます。
歴史評価の要点は二つです。第一に、後期倭寇は「日本人の海賊」という単純図式では捉えられず、明の海商・沿岸民の主体性、ポルトガル商人の介在、朝鮮・琉球の位置づけを含む多国間現象であったこと。第二に、暴力と商業が同じ回路で動く「グレー・エコノミー」が、東アジアの国家形成・財政・軍制・都市発展に深く関わっていたことです。鎮圧は海賊の消滅ではなく、暴力の制度化=国家の独占へ向けた過程として理解するのが妥当です。
総じて、後期倭寇は、禁制と需要のねじれが生んだ「海の近世」の入口でした。沿岸社会の痛みと海上商業のダイナミズム、港市の成長と国家の統制、外来勢力の介入と在地の適応——その全てが、東アジア海域を相互接続する力として働きました。後期倭寇を学ぶことは、通商と治安、開港と主権、民の生活と国家の規制の関係を、歴史の中で立体的に捉えることに直結します。

