国会議事堂放火事件とは、1933年2月27日夜にベルリンのドイツ国会議事堂(ライヒスターク)が炎上した事件を指します。火災はナチ党が政権についた直後に発生し、直ちに「共産主義者の陰謀」として利用されました。翌28日にヒンデンブルク大統領名で「国民と国家を保護するための大統領令(通称・国会議事堂放火令/緊急令)」が発布され、言論・出版・集会・通信の自由や住居の不可侵といった基本権が停止されます。これによって共産党(KPD)と社会民主党(SPD)への弾圧・大量逮捕が合法化され、さらに同年3月の授権法(全権委任法)の可決へと道が開かれました。犯行を単独実行したとされるオランダ人マリヌス・ファン・デア・ルッベ(ルベ)をめぐっては、単独犯説からナチ党指導部による謀略説まで論争が続きますが、歴史的帰結としては、事件がワイマール共和国末期の立憲秩序を急速に崩壊させ、ヒトラー独裁体制(グライヒシャルトゥング=「統合・一元化」)の決定的な転回点となったことに異論はありません。本稿では、発生の経緯、捜査と裁判、政治的・制度的帰結、そして記憶と史学上の論点を、できるだけ平易に整理して解説します。
背景と発生経過――ワイマール秩序の動揺と炎上の夜
1933年1月30日、アドルフ・ヒトラーは国民党(DNVP)など保守勢力と組んだ「連立内閣」の首相に就任しました。形式上は議会制の手続を踏んだ政権交代でしたが、ナチ党は街頭の暴力(突撃隊SA・親衛隊SS)とプロパガンダを駆使して政治的威圧を強め、3月5日に予定された国会選挙を前に、反対勢力の活動を実力で封じ込める構えを見せていました。経済大恐慌の打撃、失業、ワイマール体制への失望が、強権政治への期待を底支えしていたのです。
2月27日夜9時過ぎ、議事堂から出火の通報が入り、ほどなくドーム部を中心に火勢が拡大しました。現場で取り押さえられたのが、若いオランダ人のマリヌス・ファン・デア・ルッベです。彼は失業中の左派活動家で、当夜に単独で侵入し、可燃物と着火剤を用いて各所に放火したと自白したとされます。警察と消防は鎮火に当たったものの、議場や廊下の一部は甚大な被害を受け、事件直後から内務大臣ゲーリング、宣伝相ゲッベルスらは「共産主義者の全国的蜂起の合図」として喧伝しました。
ナチ党側の反応の速さは異例でした。ヒトラーは夜半に現場に駆けつけ、早朝には大統領令の準備を開始します。事件翌日、プロイセン州政府(警察を事実上掌握していたゲーリング)の主導で共産党幹部の一斉検挙が始まり、新聞・集会の停止命令が相次ぎました。ここから先は、火災の原因が何であれ、国家非常事態の演出と権力集中が迅速に連動したことが重要です。
捜査・裁判と「犯人」をめぐる論争――単独犯か、謀略か
当局は、逮捕したルッベの自白を根拠に「共産党の組織的犯行」と断定し、KPD議員団長トルグラーや、ドイツ滞在中だったブルガリア人共産主義者ゲオルギ・ディミトロフらを逮捕・起訴しました。審理はライプツィヒ高等州裁判所で行われ、国際的な関心を集めます。裁判では、検察側が組織犯罪を立証できず、弁論でディミトロフ自身がゲーリングを鋭く追及する場面が話題となりました。最終的に1933年12月、裁判所はルッベだけを有罪(死刑)とし、トルグラー、ディミトロフらは証拠不十分として無罪・国外追放となります。
事件の真相をめぐる議論は、戦前から戦後まで続きました。大きく分けると、(1)ルッベ単独犯説、(2)ナチ党・SAなどによる謀略説、(3)ルッベという実行犯を利用した「誘導・拡大」説の三つに整理できます。単独犯説は、当夜の侵入経路、着火の痕跡、ルッベの行動パターンや精神状態を根拠に、個人の政治的「パフォーマンス」が大火に拡大したとする立場です。謀略説は、火勢の広がりの速さや複数箇所からの出火、政治的にあまりにも迅速・効果的だったナチ側の対応を根拠に、内務当局やSAの関与を推測します。第三の説は、ルッベの放火があったとしても、当局が事前に動向を把握し、あるいは初期対応で規模を拡大させ、政治利用した可能性を指摘します。
戦後、東西冷戦下では、東側(とくに東独)が謀略説を強く主張し、西側では単独犯説が学術主流となる傾向も見られました。近年の史料批判は、ナチ当局の記録・消防の報告・建物構造の検討を突き合わせ、決定的な「共謀」の証拠は見当たらないとする一方、政治利用の意図と準備が整っていた事実自体は明らかだと評価します。要するに、物理的な実行主体の断定は難しくとも、法・警察・宣伝の一体運用が事件の「政治的意味」を規定した、という点がコンセンサスに近いのです。
緊急令と権力掌握――基本権停止から授権法へ
国会議事堂放火事件の直後に発布された「国民と国家を保護するための大統領令」は、ワイマール憲法第48条(緊急事態条項)に基づき、連邦政府に非常措置の権限を与えるものでした。令は、表現・出版・結社・集会の自由、通信の秘密、住居の不可侵などの基本権を無期限に停止し、捜索・逮捕・文書押収の権限を警察に大幅拡張しました。形式上は大統領令ですが、実際にはヒトラー内閣とプロイセン州政府が主導し、連邦と州の警察権をナチ党が掌握するための「法の衣」を提供したのです。
この緊急令により、共産党員・活動家・労組関係者・反体制の知識人ら数万人規模の逮捕・拘留が行われ、新聞・集会は停止、選挙運動は一方的に制限されました。3月5日の選挙でナチ党は単独過半数には届かなかったものの、保守勢力と合わせて法改正に必要な多数派を確保し、3月23日には「授権法(全権委任法)」が可決されます。授権法は、政府が議会を経ずに法律(憲法改正に準ずる効力を持つ)を制定できると定め、立法権を事実上内閣に委ねるものでした。これにより、ワイマール憲法のバランスは完全に崩れ、政党・自治・団体の自律は一つ一つ解体されていきます。
同時期、ダッハウをはじめとする初期の強制収容所が設置され、司法外の暴力が制度化されました。州政府・地方自治体・文化団体・大学は「調整(グライヒシャルトゥング)」と呼ばれる一斉の人事・規約改定でナチ化され、ユダヤ人・政治的反対者の排除が急速に進みます。火災は、一夜にして全てを変えたわけではありませんが、緊急令と合わせて〈法の外側で進んでいた暴力〉を〈法の内側で正当化された暴力〉へと転換させる「関門」として機能しました。
記憶・宣伝・史学――「転回点」のイメージはどう作られたか
事件は当初から巨大な宣伝戦の材料でした。ナチ側は、火災を「ボルシェヴィズムの陰謀」と断定し、ポスター・新聞・ラジオで恐怖と怒りを煽りました。対して共産党・社会主義者・亡命知識人は、すぐさま『ブラウンブック』などの告発資料を出版し、ナチの謀略を訴えました。こうした応酬が、事件を「近代政治の決定的分岐点」とするイメージを固め、以後の記憶の枠組みを規定していきます。
戦後ドイツでは、ナチ犯罪の検証の文脈で、事件の史料批判が段階的に進みました。1970年代以降、消防・建築・化学の専門家による技術的検討や、警察・司法文書の再評価が進み、単独犯説が相対的に優勢となります。他方で、政治学・法学の観点からは、〈非常事態条項が権威主義への橋〉となりうるという制度的教訓が重視されました。すなわち、犯人像の確定以上に、事件が「基本権の停止→反対派の物理的排除→立法権の政府集中」という連鎖を可能にした手続の脆弱性こそが、再発防止の核心だという理解です。
大衆文化でも、事件はたびたび描かれます。ディミトロフの法廷弁論は「弱者が独裁権力を言論で退けた」象徴として取り上げられ、映画・舞台・小説は、炎上するドームと議場の光景を独裁の到来のメタファーとして反復します。東西ドイツの分断期には、それぞれのイデオロギーに沿った物語化が進み、統一後は多角的な教訓化が試みられています。博物館・記念展では、火災現場の写真、逮捕状、新聞号外、選挙ポスター、法令文書を並置し、「出来事」と「制度の変化」の直結を可視化する展示が一般的です。
国際的にも、事件は「安全の名における自由の縮減」という問題設定を象徴してきました。非常事態の宣言、テロ対策立法、監視の拡大などの政治的論争で、「ライヒスタークの火」を想起する言説は繰り返されます。もちろん単純な歴史の反復はありませんが、恐怖が合理的熟議を凌駕する瞬間、法的歯止めが機能不全に陥る危険、メディアの感情動員が政策決定に影響する構図は、今日にも通底します。
総じて、国会議事堂放火事件の歴史的意味は、「犯人は誰か」という法廷的関心を超え、〈危機〉が〈制度〉をどう変えるかという政治社会の問いにあります。火は一夜で消えましたが、その残り火は、緊急令と授権法を通じて長く社会を焼き続けました。私たちが学ぶべきは、事件のドラマ性よりも、法と自由の関係を問う冷静な視線です。どの社会でも、重大事件後には強権的政策が支持されやすく、メディアは単純化し、反対者は排除されがちです。だからこそ、権力の集中を時間・手続・監督で制限し、基本権の回復へ自動的に戻る仕組みを用意しておくことが、過去から導き出される実務的な知恵だといえるでしょう。

