国会開設公約 – 世界史用語集

「国会開設公約」とは、明治14年(1881)に出された「国会開設の詔(勅諭)」によって、明治政府が「1890年を期して国会(帝国議会)を開設する」と国民に約した出来事を指す呼び名です。これは単なる宣言ではなく、自由民権運動の高まりに対して政府が示した具体的な政治スケジュールであり、日本に近代的な立憲体制と議会政治を根付かせる起点となりました。公約は、のちの大日本帝国憲法発布(1889)と帝国議会開院(1890)へと直結し、政党の結成、言論・結社の活況、選挙制度と二院制の設計、官僚・元老による権力運用の枠組みなど、近代日本政治の骨格を方向づけました。本稿では、背景、勅諭の内容と直後の政治過程、政党政治・制度整備への波及、歴史的評価と論点の順に、わかりやすく整理して解説します。

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背景――自由民権運動の高揚と政府の危機管理

1870年代後半、日本各地では国会開設・憲法制定を求める自由民権運動が広がりました。板垣退助らの民選議院設立建白書(1874)を嚆矢として、地方の豪農・新興商工業者・知識人が、演説会や建白・請願を通じて政治参加を要求し、地方議会(府県会・郡区町村会、1878年設置)も議論の場として機能し始めます。新聞・雑誌は言論の舞台を広げ、政治結社はネットワークを拡大しました。これに対し政府は、讒謗律・新聞紙条例・集会条例などで統制を試みますが、政治参加のエネルギーは容易に鎮静しませんでした。

決定的な転機となったのが、明治14年政変の引き金とも言われる「開拓使官有物払下げ事件」です。北海道開拓使の官有資産を政商に安く払い下げる計画が露見し、世論は政府の不透明な財政・行政運営を激しく批判しました。薩長閥を中心とする政府に対する不信は高まり、伊藤博文・大隈重信ら中枢の政略も分岐します。対外政策や財政金融をめぐる見解の相違も背景に、政府は政治危機の収拾と国際的信用の確保のために、立憲化へのロードマップを明示する必要に迫られました。

こうした圧力の下、1881年10月12日、「国会開設の詔」が発せられます。時間を区切った公約は、政府の主導で憲法を制定し、制度を整えてから議会を開くという「上からの立憲化」を明確にしました。これは、民権派が望む即時の国会開設ではありませんでしたが、日付を切ったことで、政治社会全体がその期日に向けて動き出す効果を生みました。

勅諭の内容と直後の政治過程――「1890年開院」へ向けた段取り

勅諭の核心は二点に要約できます。第一に、政府が憲法を制定し、諸制度(行政・司法・財政・地方制度)を整えたうえで、1890年に国会を開くというスケジュールを示したことです。第二に、立憲政治の基盤は天皇大権と統治機構の整序に置くという、統治理念の明示でした。ここで政府は、急進的な民権派の要求に迎合するのではなく、近代国家としての行政能力・軍事・財政の安定を優先することを強調しました。

公約直後、政界は再編に動きます。1881年には板垣退助らが自由党(のち自由党)を結成し、翌1882年には大隈重信が立憲改進党を組織しました。これらの政党は、国会開設を見据えた選挙戦・言論戦の準備を進め、地方支部(支社)や政治結社との連携を強めていきます。他方、政府は警察機構の増強、治安立法の整備、地方官僚の統制を通じて、急進的運動の過熱を抑制しようとしました。

制度設計面では、伊藤博文を中心に憲法調査・起草のプロセスが本格化します。伊藤は欧州(特にドイツ・プロイセン)に学び、君主大権を核とした立憲君主制のモデルを採用しました。憲法学者ローレンツ・フォン・シュタインらの助言、枢密院の設置構想、官制の整備、司法制度の近代化、勅令・法令関係の整理など、議会開設に先行して国家機構の骨格を固める作業が進みます。憲法の裏打ちとしての皇室典範、軍の統帥権、官吏の身分保障・文官試験制度なども、この時期に設計されました。

言論・社会運動の現場では、自由党系の一部が大阪事件(1885)など過激な行動に走り、弾圧も強まりましたが、同時に地方自治・租税・地租改正後の農村社会問題など、具体的な政策論が演説会で語られるようになります。女性を含む市民の聴衆が増え、政治知識の普及が進むという文化的変化も公約以降の顕著な特徴です。政治の「見える化」が、翌十年の議会政治を支える土壌になりました。

政党政治・制度整備への波及――憲法・選挙・二院制・官僚制の確立

公約から8年を経て、1889年に大日本帝国憲法が発布され、翌1890年に帝国議会が開院します。ここで確立したのは、天皇主権を前提としつつ、法律の制定に議会の協賛を必要とする立憲君主制、そして貴族院(上院)・衆議院(下院)からなる二院制でした。貴族院は皇族・華族・高額納税者・勅任議員を含む構成で、保守的・抑制的役割が期待され、衆議院は選挙で選ばれる民意の院として位置づけられました。行政は内閣が統轄しますが、内閣は議会に対して連帯責任を負う制度ではなく、天皇大権の下で独立性を保つ構造が選ばれました。

初期選挙制度は、満25歳以上の男子で直接国税15円以上を納める者に限る厳しい制限選挙でした。これは有権者を地主・都市の富裕層に偏らせ、民意の代表性を狭める一方、納税と政治参加の連関を強調する当時の統治理念を反映していました。選挙区割り、吏党・政党の対立、行政の選挙介入、警察の監督など、健全な選挙慣行の確立には時間を要します。それでも、定期選挙・議会審議・予算の協賛という反復が、政治過程の制度化を促しました。

政党は、議会運営で予算や法律を巡る攻防を重ねる中で、連合・分裂・再編を繰り返します。自由党・改進党は、時に政府と対立し、時に接近して法案の通過や予算の妥結を図りました。1898年には憲政党の結成と初の政党内閣(大隈内閣)が生まれ、議院内閣制的な実験が行われます。のちに伊藤博文・山県有朋ら元老は、政党勢力を取り込む形で立憲政友会(1900、伊藤)などを組織し、政党と官僚・元老の協調と緊張が新たな均衡をつくりました。政党内閣が本格化するのは原敬以後ですが、その前史を生んだ土台は国会開設公約に始まる制度化の成果です。

官僚制もまた、公約以降に重要な整備が進みました。内閣官制、各省官制、文官任用令、会計検査制度などが整い、政策立案・執行の専門性と継続性が担保されます。司法では裁判所構成法・刑法・民法の整備が一歩ずつ進み、近代的な権利義務の枠組みが形づくられました。財政面では予算制度の近代化、会計の統一、国債政策の確立が、議会の予算審議と歩調を合わせて進行します。二院制と官僚制の相互作用は、明治後期から大正期の政治の安定と硬直の双方をもたらしました。

社会文化面では、演説会・政談新聞・政治小説が隆盛し、教育制度の整備と相まって、政治知識が都市から地方へ浸透します。地方議会は中央の議会政治を模倣・補完し、地方税・公益事業・衛生・教育などの政策議論を通じて、政治参加の裾野を広げました。これらの動きは、普通選挙運動・婦人参政運動・社会運動の前景化へと受け継がれていきます。

歴史的評価と論点――「上からの立憲化」と民権運動の相互作用

国会開設公約をどう評価するかについては、学界でもいくつかの視点が提示されています。一つは、政府が主導する「上からの立憲化」の枠組みです。伊藤博文らは、国権の統一・行政能力の維持を優先し、欧州の立憲君主制、とりわけプロイセン憲法に範をとって、天皇大権の下に議会を位置づけました。この見方では、公約は民権派の即時国会論を巧みにいなし、官僚制・軍の自律を確保しながら、国際的に通用する国家体制を整える戦略だったとされます。

別の視点は、自由民権運動の圧力が公約を引き出し、その後の制度運用にも有意に影響したという評価です。すなわち、公約によって政治参加への期待が制度的に承認され、政党の組織化、地方からの意見集約、言論の活性化が促されました。議会開設後、民党が予算をめぐって政府と対峙し、地租軽減や行政監督を求めたことは、国家財政の透明化や行政の説明責任を押し上げる作用を持ちました。過激派の事件を口実にした弾圧の問題はあったものの、制度のなかで民意が持続的に表明される通路が開かれたことは、公約のもたらした長期効果といえます。

また、公約の「期日設定」の効果も見逃せません。抽象的な立憲主義の理想を、具体的な年限と工程に落とし込んだことで、行政・司法・立法・地方・教育・言論の各領域が同じ目標に向けて準備を進める「社会的協働」が生まれました。これは、制度改革の実務において重要な教訓を提供します。改革を時間で縛ることは、政治的コストを伴う一方、動員・学習・標準化を同時に促し、制度の定着を早めるのです。

他方、国会開設後もしばらくは、選挙権が狭く、貴族院・官僚・軍の比重が大きい「制限的立憲体制」が続きました。議会と内閣の関係が不明瞭で、倒閣・再組閣が頻発し、天皇大権の解釈をめぐる政治運用はしばしば硬直しました。普通選挙(1925)と政党内閣制の定着(原敬以降)に至るまでには、三十年以上の試行錯誤が必要だったことも、公約の「出発点としての性格」を示しています。

総じて言えば、国会開設公約は、政府が危機管理として選んだ一手であると同時に、民意の政治化を不可逆にした「制度化のスイッチ」でした。上からの設計と下からの要求が衝突・折衝し、やがて折り合いを見いだすというダイナミズムは、その後の日本政治の常態となります。1890年の帝国議会開院の拍子木は、公約が鳴らしたものだったのです。公約の理解は、自由民権運動の熱と、行政国家の合理化という二つの流れが絡み合って近代日本を形づくったことを、立体的に捉える助けになります。