黒海の中立化 – 世界史用語集

黒海の中立化とは、主にクリミア戦争後の1856年パリ条約で定められた「黒海を戦時・平時を問わず軍艦の活動と軍事施設から切り離す」という国際的取り決めを指す言葉です。ロシア帝国とオスマン帝国の双方が黒海沿岸の軍港・要塞・軍備を放棄し、黒海は商船用の海としてのみ開放される、と宣言された点が核心でした。目的は、ロシアの南下と海軍力の回復を抑え、オスマン帝国の保全を図ることでヨーロッパ均衡を安定させることにありました。しかし、この中立化は1870年にロシアが一方的に破棄を宣言し、1871年のロンドン条約で正式に撤回されます。その後は1936年のモントルー海峡条約に代表される「黒海と海峡の出入りを巡る別のルール」へと移行しました。本稿では、黒海の地政学と中立化構想の背景、1856年パリ条約による制度設計、その崩壊と1871年ロンドン条約、そしてモントルー体制への連続と相違を整理し、歴史上の意味を過不足なく解説します。

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背景――黒海の地政学と「中立化」構想の出どころ

黒海は、東欧・コーカサス・アナトリア・バルカンを結ぶ内海で、ドナウ・ドニエプル・ドンといった大河が流れ込み、ボスポラス海峡とダーダネルス海峡(総称して「トルコ海峡」)を介して地中海世界へ通じています。18世紀以降、ロシア帝国は南下政策をとり、オスマン帝国との一連の戦争を通じて黒海北岸を支配し、艦隊を常駐させる能力を高めました。他方、オスマン帝国は伝統的に海峡の主権を保持し、列強(イギリス・フランス・オーストリア・プロイセンなど)は、地中海安全保障と通商の観点から、海峡と黒海の法的地位に強い関心を寄せました。

19世紀前半には、オスマンの衰弱、ロシアの勢力拡大、東方問題(オリエント問題)が国際政治の焦点になります。1833年のフネカル・イスケレ条約では、オスマンがエジプト総督ムハンマド・アリーとの戦争でロシアに援助される代わりに、海峡をロシア艦に便宜的に開くと解釈されかねない条項を含み、英仏は警戒を強めました。これに対して1841年のロンドン海峡条約は、戦時・平時の区別のもと、原則として海峡を列強の軍艦に閉ざす(ただしスルタンの権利と例外を残す)と整理し、海峡管理に〈国際慣行〉の枠を設定しました。こうした前史の上に、クリミア戦争(1853〜56)の衝撃が重なり、黒海そのものを「中立化」して軍事利用を封じるという、より強い発想が生まれます。

1856年パリ条約――黒海の「非軍事化」と海峡規則の再確認

クリミア戦争は、ロシアの南下と正教保護名目の干渉に反発した英仏とサルデーニャ王国、オスマン帝国の連合がロシアと戦った戦争でした。戦後の講和会議(パリ、1856年)で結ばれたパリ条約は、オスマン帝国の領土保全とヨーロッパの公法秩序の再確認を掲げ、その柱の一つとして〈黒海の中立化〉を定めました。要点は次の通りです。

第一に、黒海は非軍事化され、沿岸諸国(当時の主要当事者はロシアとオスマン)は黒海での軍艦保有・軍港建設・沿岸要塞の新設を禁じられました。既存の軍事施設についても使用制限が課され、黒海は「商船に開放された内海」と位置づけられます。第二に、ドナウ河口の航行自由が保障され、国際委員会の管理下で河川航行と浚渫・標識設置が進められました。第三に、1841年ロンドン海峡条約の原則(平時は海峡を列強の軍艦に閉鎖)を追認し、スルタンの裁量で許される例外を最小化する方向で整理しました。これにより、黒海へ外洋艦隊が容易に入れない構造が再強化され、ロシアの黒海艦隊再建は制度上封じられました。

さらに、国際法上の理念面でも、〈集団的保障〉と〈国際委員会による河川管理〉という新機軸が打ち出されました。黒海の中立化は、特定地域を軍事的に「空白化」することで均衡を保つという19世紀的工夫であり、アルプスのサンモリッツやスイスの中立とは異なる、海域に適用された〈限定的・機能的中立〉の試みといえます。

中立化の崩壊――1870年ロシアの破棄宣言と1871年ロンドン条約

しかし、この枠組みは長続きしませんでした。普仏戦争(1870〜71)の最中、欧州の力のバランスが大きく動くのを見たロシアは、1870年10月、外相ゴルチャコフの回状で「パリ条約の黒海条項はもはや拘束力を持たない」と一方的に宣言します。背景には、クリミア戦争の屈辱の記憶、黒海沿岸の防衛上の不利、黒海艦隊の不在がコーカサス・アジア方面の作戦に与える制約など、軍事・政治の複合的事情がありました。

列強は、戦争の拡大を避けつつ秩序回復を図り、1871年のロンドン条約(ロンドン議定書)で調停に成功します。ここで「国際条約の条項は当事国の合意なしに一方的に破棄できない」という一般原則を確認した上で、〈黒海非軍事化条項の撤回〉を正式に承認しました。代わりに、海峡の閉鎖原則(平時は列強軍艦の通航禁止)を再確認し、スルタンが友邦の軽武装艦を必要に応じて通過させる余地を残しつつも、外洋大艦隊の恒常的進出は抑制しました。結果として、ロシアは黒海艦隊の再建に着手し、要塞化・軍港整備を再開します。19世紀末の露土戦争(1877〜78)や、その後の黒海・バルカン情勢は、〈中立化〉の理念から〈勢力均衡下の制限〉へと重心を移した枠内で展開されることになりました。

モントルー体制への連続と相違――「海峡規制」と「海域中立化」のすれ違い

20世紀に入り、第一次世界大戦とオスマン帝国の解体を経て、トルコ共和国が1923年のローザンヌ条約で国際社会に承認されると、トルコ海峡は一旦国際管理(海峡委員会)と非武装化の体制に置かれました。ところが国際情勢の悪化とイタリア・ドイツの再軍備が進む1930年代、トルコは安全保障上の理由から海峡の再武装と規制見直しを要求し、1936年にモントルー海峡条約が成立します。

モントルー条約は、〈黒海の中立化〉そのものを復活させたわけではありません。むしろ、〈トルコの主権の下での海峡通航規制〉に重心を置き、黒海沿岸国と非沿岸国の軍艦に対して異なるルール(総トン数・隻数・滞在日数の上限、通告義務など)を定めました。沿岸国(ロシア、ルーマニア、ブルガリア、トルコなど)には広めの権利が付与され、非沿岸国(英仏伊独など)は大型艦の進入や長期滞在が制限されます。戦時・危機時には、トルコが自国の安全に基づき通航を拒否・制限できる裁量が明文化され、海峡管理は〈国家主権〉と〈国際義務〉の折衷として再設計されました。

この体制は、19世紀の「海域そのものの非軍事化」という〈空間の中立化〉から、20世紀の「出入り口(海峡)での選択的制御」という〈アクセスの管理〉へと、発想が転換したことを示しています。黒海は、沿岸国の軍事活動が許容されるが、外部勢力の大規模進駐は抑制されるという、〈半閉鎖的な安全保障空間〉として位置づけられました。ここに、パリ条約の理念が完全に消えたわけではないが、適用の仕方が大きく変質したことを見ることができます。

黒海中立化の評価――理念の到達点と限界、国際法の教訓

黒海の中立化は、戦争直後の欧州が〈地域の非軍事化〉という方法で均衡を保とうとした象徴的な試みでした。その長所は、(1)当事者(露・オスマン)の軍備抑制を同時に課した点、(2)河川・通商の自由を国際委員会で制度化した点、(3)海峡閉鎖原則と連動させて外洋艦の進入を抑えた点にあります。これにより、短期的には黒海が「商船の内海」としての性格を強め、復興と通商の安定が期待されました。

一方、限界も明確でした。第一に、〈恒常的な力の不均衡〉の前では、条約だけで軍事的空白を維持するのは困難でした。黒海沿岸の長大な防衛線を抱えるロシアが、艦隊・要塞の再建を渇望するのは地政学的に自然で、機会(普仏戦争)を見て条約の破棄に踏み切ったことは、現実主義的には予見可能でした。第二に、中立化が〈沿岸住民の安全保障〉をどこまで実体的に高めたかは、疑問が残ります。軍事力の空白は、非正規戦・内乱・他の戦域からの波及に対して脆弱で、沿岸諸都市や貿易港の安全を恒常的に保証するわけではありませんでした。第三に、〈執行と監視の仕組み〉が弱かったことです。違反を検証し是正する常設の監視・制裁の枠組みが不十分で、条項の遵守は当事国の自制と列強間の協調に委ねられていました。

それでも、黒海中立化は、国際法と安全保障の知恵の試行錯誤として重い意味を持ちます。〈空間の非軍事化〉〈アクセスの管理〉〈河川の国際管理〉という三つの道具は、その後も多くの地域で応用されました。たとえば、アルザス=ロレーヌの非武装地帯、パナマ運河・スエズ運河の国際管理、ドナウ委員会・ライン委員会といった国際河川制度、さらには今日の〈重要海峡の通航制度〉や〈海洋法〉における無害通航・通過通航の原理にも、間接的な系譜が認められます。黒海の場合、〈完全な中立化〉は挫折しましたが、〈海峡通航の規制〉という第二の解が1936年に定着し、20世紀を通じて一定の安定機能を果たしました。

総じて、黒海の中立化は、19世紀国際政治が模索した「軍事を空間から一時的に追い出す」という発想の代表例でした。そして挫折の経験が、後の時代に「空間の中立化」ではなく「アクセスの選択的管理」による安定化へと発想を転換させる下地となりました。黒海の歴史をたどることは、海域と海峡の法的地位が、均衡・主権・通商の三要素のせめぎ合いの中で、どのように設計され直されてきたかを理解することでもあります。中立化の条文は短命でしたが、その後の制度の地層には、当時の試みの痕跡が確かに刻まれているのです。