鎬京 – 世界史用語集

鎬京(こうけい/Haojing)は、西周王朝の王都として渭水(いすい)流域に築かれた政治・宗教・軍事の中枢都市です。現在の中国・陝西省西安付近に位置し、豊京(ほうけい/Fengjing)と対をなす「双都(豊鎬・ふうこう)」の片翼として機能しました。伝承では、周文王が豊京を、周武王が鎬京を整備し、渭水・灃河(ほうが)・鎬水(こうすい)といった河川網を利用して都市・宮殿・宗廟・市を計画的に配置したとされます。鎬京は、天命思想を掲げて殷(商)を継いだ周王権の象徴であり、宗法(宗族秩序)・分封(封建)・礼楽制度を実際に運用する場でした。王の朝会、諸侯の朝覲、祭祀と軍事動員、法の宣布、度量衡の標準化など、王朝の根幹がここで可視化されました。前771年、犬戎(けんじゅう)の侵入で王都が崩壊すると、周は洛邑(らくゆう、後の洛陽)へ遷り東周が始まりますが、その後も「宗周(鎬京)—成周(洛邑)」の二都観は政治文化の記憶として生き続けました。

以下では、鎬京の立地と都市構造、王都としての機能と儀礼、二都体制と崩壊への道筋、考古学上の成果という四つの観点から、用語の核心を丁寧に整理します。概要だけでも全体像がつかめるようにしつつ、細部は各セクションで補います。

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立地と都市構造:渭水盆地の「双都」—豊京と鎬京

鎬京は、渭水南岸の台地と支流の合流点を押さえる形で築かれました。北には渭水の沖積平野、南には秦嶺の山地が連なり、東西には交通に適した緩い谷筋が伸びます。この地理は、農耕生産・城郭建設・軍事防御・交通のいずれにも有利でした。西方の周原(しゅうげん、岐山—扶風一帯)が周族の根拠地であり、そこから東進した周王権が、商の旧領を継ぐ政治・儀礼の舞台として選んだのが豊鎬の地です。

「豊鎬」は、灃河の西岸に豊京、対岸(あるいは渭水・鎬水の近隣)に鎬京が並立する双子の王都を指します。豊京は宗廟・社稷・宗族的基盤に重心を置いた「内廷」の性格が強く、鎬京は朝会・軍事・市場・対外的儀礼を担う「外廷」の機能が前面に出た、としばしば説明されます。両者は橋梁や渡河点で緊密に結ばれ、王権が宗族的正統性と政治的実効性を両立させるための空間装置でした。

都市の内部は、宮城(王宮)・宗廟・社稷壇・官庁区・居住区・工房区・市場などが機能分化し、城壁・壕・街路で秩序化されました。宮殿区は南北中軸をもち、正殿・朝堂・側殿の配置に礼制の思想が反映されます。宗廟は歴代の先祖神を祀る場で、王権の継承と政治決定の宗教的正当化に不可欠でした。市場は度量衡の標準と価格秩序を王が保証する場であり、青銅器・塩・穀物・織物・玉器などが広域流通の結節点をなしました。周囲には方格状・放射状の道路網が延び、封国内外の使節・諸侯の往来を受け入れました。

防御面では、自然河川を外郭として用い、内側に夯土(押し固めた版築)の城壁・城門・角楼・水門を整備しました。複数の渡河点を管理することで、軍事・物流の制御が可能になります。渭水流域の土質は版築に適し、厚い城壁と基壇が比較的短期間で築ける利点がありました。城内外の貯水池・水路は、平時の灌漑と戦時の籠城に寄与しました。

王都の機能と儀礼:宗法・分封・礼楽が作動する現場

鎬京は、西周国家の三本柱—宗法・分封・礼楽—が動く現場でした。宗法は、王家を頂点とする宗族的序列(嫡長子相続と支族の序列)で、政治・軍事・祭祀の役割分担を規定します。分封は、王が同族や功臣を諸侯として各地に封じ、領域統治と軍役義務を委ねる制度です。礼楽は、儀礼と音楽によって社会秩序を可視化し、朝会・冊命・祭祀・葬送などの場面における行為規範・服飾・器物・音律の標準を定めました。

これらが具体化するのが、鎬京の朝廷儀礼です。新たな諸侯の冊命や軍功の論功行賞は、青銅器の銘文(銘辞)とセットで実施されました。銘文には、王の言葉(王命)、功績の叙述、賞与(鼎・爵・簋などの礼器)の授与、後代への教訓が刻まれ、王権と家の記憶が結びつけられます。度量衡の制定や道路・橋梁の布告も、王の宣布として鎬京から発せられ、封国内に伝達されました。

軍事面でも、鎬京は動員と指揮の中心です。周は歩兵・戦車(車戦)を骨格とする軍制を持ち、戦車は貴族の軍役単位・象徴でもありました。対外遠征や防衛戦の際、鎬京の朝会で軍議が開かれ、諸侯・卿大夫に出兵が命じられます。戦勝ののちには凱旋儀礼が行われ、捕虜・戦利品・青銅器の鋳造(戦利金属の再鋳)を通じて、勝利の記憶が都市空間に埋め込まれました。

経済・社会の循環も王都を中心に動きました。渭水流域の農耕は、麦・粟・黍の輪作に支えられ、貢納と再分配の網を通じて王都に集中します。工房区では青銅の鋳造・漆工・骨角器・紡織が営まれ、礼器・兵器・楽器が生産されました。王は祭祀と賑給で蓄蔵を放出し、飢饉時には赈済を行うなど、宗教的寛恤と政治的再分配を重ねる役割を担いました。

二都体制と崩壊:宗周(鎬京)から成周(洛邑)へ

西周の都城構想は、早くから単一中心ではなく「二都体制」を含意していました。鎬京(宗周)が宗族・王権の根拠として西方を押さえつつ、東方には成周(洛邑、雒邑=後の洛陽)を建設し、東国(商旧領・中原)への監国・統治の節点としました。周公旦が摂政として東方の鎮撫・制度設計を担った物語は、その政治地理を象徴的に示します。これにより、周は西方の本拠と東方の広域経済圏を二つの都で繋ぎ、諸侯の朝覲と祭祀の中心を二重化する柔軟性を得ました。

しかし、前8世紀に入ると、王権の継承争いと辺境の緊張が重なり、体制は動揺します。特に前771年、王の后妃・褒姒をめぐる内訌や、鎬京近傍の戎狄勢力との対立が高まり、犬戎と在地勢力が結んで鎬京を襲撃、幽王が驪山で殺害されます。王都の防衛線は破られ、宗廟・宮殿は破壊・炎上しました。これを受け、諸侯は幽王の子・平王を擁立し、東方の成周(洛邑)へ遷都します。ここから「東周」が始まり、王権は相対的に弱体化し、春秋戦国の諸侯連衡の時代へ移行しました。

鎬京の崩壊は、単に外敵の侵入だけで説明できません。諸侯の自立化、王室の財政・兵力の空洞化、宗法秩序の弛緩、礼楽の権威低下が重なり、王都の象徴性と実効性のギャップが広がっていたのです。二都体制は危機時の冗長性を持ちながらも、最終的には東遷へと振り切れ、宗周は政治的中心としての役割を失いました。ただし、宗周は記憶の場として、王朝儀礼・青銅器銘文・地名・系譜に長く残り続けます。

考古学の成果:豊鎬遺跡・周原・青銅器銘文が語る実像

近代以降の発掘調査は、鎬京とその周辺の実像を大きく前進させました。西安西郊の豊鎬遺址(豊京・鎬京に比定される広域遺跡群)では、宮殿基壇・宗廟区・道路遺構・基礎溝・貯蔵坑・手工業遺構が見つかり、版築の城壁・門址、井戸や水利施設が確認されています。建築の柱穴配列や基壇の規模は、礼制建築の標準化と工事の計画性を示します。周原一帯では、西周早期の宗廟・住居・青銅器工房・祭祀遺構が出土し、周族の社会構造と宗教生活の基層が復元されました。

青銅器は、鎬京の政治史を一次資料として伝える最大の鍵です。鼎・簋・爵・斝・匜・盤などの器種に刻まれた銘文は、王命・諸侯の功績・賞与の内容・土地と境界・度量衡の制定・婚姻や盟約の記録など、多様な情報を含みます。特に西周中期の銘文は、王権の言語が定型化していく過程を示し、王都における儀礼と政務の密接な関係を明らかにします。音韻・文字形態の研究は、甲骨文から金文、篆隷楷への長期変化の中で、周代の書記文化の位置を特定する助けとなりました。

墓葬・宗廟遺構・祭祀坑からは、玉器・陶器・骨角器・漆器・車馬具・楽器(編鐘・磬)などが出土し、礼と楽が一体となった周文化の姿が浮かび上がります。車馬坑は、戦車と馬具の実物資料を提供し、周軍の編成・儀礼・象徴性を具体的に示しました。こうした物質文化は、文献に残る『尚書』『周礼』『礼記』などの記述と相互照合され、王都の制度と生活世界の厚みを補っています。

さらに、都市の外側に広がる集落・農地・窯業・金属資源の分布も調査が進み、王都を中心とした半径数十キロの「経済圏」の構図が見えてきました。土器の胎土分析や鉛同位体比の研究は、原料の採取地と製品の流通範囲を明らかにし、鎬京が広域ネットワークの中枢であったことを実証しています。灌漑・堤防・道路の痕跡は、王権が土木と産業に直接関与した可能性を示唆します。

総じて、鎬京は西周王権の理念と実務が交差する「制度の都市」でした。豊京との双都構成、宗法・分封・礼楽を運転する場としての朝廷、二都体制の柔軟さと限界、そして崩壊ののちも記憶に残った宗周の像。発掘と銘文研究が積み上がるたびに、文献の伝える王都像は具体性を増し、古代東アジアにおける国家と都市、宗教と政治の関係がより立体的に理解できるようになっています。鎬京という用語は、単なる地名ではなく、王権と都市が相互に規定し合うダイナミクスを凝縮したキーワードなのです。