アグラ(Agra)は、インド北部ウッタル・プラデーシュ州に位置する歴史都市であり、ムガル帝国期における首都としての役割や、数多くの建築遺産によって世界史において重要な位置を占めています。特にタージ・マハルは世界文化遺産として著名ですが、アグラの意義はそれにとどまらず、都市史・建築史・文化史の複合的な展開を示すものです。以下ではアグラの歴史的形成、ムガル帝国期の繁栄、建築文化、そして近代以降の展開について詳しく解説します。
アグラの歴史的背景と都市形成
アグラの歴史的起源は古代にまでさかのぼるとされますが、明確に都市としての重要性を獲得するのは中世イスラーム王朝期以降です。インド亜大陸北部では13世紀以降、デリー・スルターン朝が支配を拡大し、ガンジス川中流域に位置するアグラは軍事的・経済的拠点として注目を集めました。この地域は交易路の結節点でもあり、商業活動の活発化によって都市の発展が促されました。
特にローディー朝のスルターン、シカンダル・ローディー(在位1489~1517)はアグラを実質的な首都と位置づけ、行政機関を移しました。この決定により宮廷や役人、学者、職人が集まり、都市としての基盤が確立しました。以後、アグラはインド北部の重要都市としての地位を固め、ムガル帝国の支配を迎える準備が整えられたのです。
ムガル帝国とアグラの繁栄
アグラが本格的に歴史の表舞台に立つのは、ムガル帝国の建国とともに始まります。1526年、バーブルはパーニーパットの戦いでローディー朝を破り、アグラを拠点としました。バーブルの後継者フマーユーンは帝位を追われることもありましたが、彼の治世においてもアグラは重要な都市として維持されました。
真の繁栄をもたらしたのはアクバル大帝(在位1556~1605)です。アクバルは政治的安定と領土拡大を実現し、その行政の中心としてアグラを整備しました。彼は壮大なアグラ城(アーグラーフォート)を建設し、宮廷や軍事施設を集中させました。この城は赤砂岩を基調とする要塞でありながら、内部には繊細な装飾を施した宮殿や謁見の間、モスクが設けられ、ムガル建築の初期的完成形を示しています。
また、アクバルはアグラ近郊に新たな都ファテープル・シークリーを建設しました。そこには宮殿群や大モスクが築かれ、イスラーム建築とインド在来の建築様式の融合が試みられました。しかし水不足のため短期間で放棄され、アグラは再び実質的な首都としての地位を取り戻しました。
その後のジャハーンギール(在位1605~1627)やシャー・ジャハーン(在位1628~1658)の時代には、アグラは政治的のみならず文化的な中心地として黄金期を迎えます。特にシャー・ジャハーンは大理石建築を好み、妻ムムターズ・マハルを偲んで世界的に有名な霊廟タージ・マハルを建設しました。これは白大理石を用い、左右対称の庭園や精緻な装飾を特徴とするムガル建築の頂点であり、世界的な建築美の象徴とされています。
この時代のアグラは人口数十万人を数え、当時のヨーロッパ諸都市と比較しても最大級の都市の一つでした。交易や工芸が発展し、宝石細工や織物、金属工芸が盛んに行われ、アグラはインド内外の商人が集まる国際的な都市として栄えました。
アグラの建築遺産と文化的意義
アグラには、ムガル帝国の建築文化の発展を物語る数々の遺産が残されています。その代表例であるタージ・マハルは、ムガル建築における霊廟建築の究極的完成形とされ、世界遺産としても高く評価されています。
アグラ城もまた重要な建築遺産です。赤砂岩を用いた堅固な城壁に囲まれ、内部には大理石を使用した宮殿が増築されました。特に「ディーワーネ・アーム(一般謁見の間)」や「ディーワーネ・カース(特別謁見の間)」は、君主の権威を象徴する空間であり、イスラーム建築とヒンドゥー建築要素の融合を示すものです。
さらに「イーティマード・ウッダウラ廟」は「赤ちゃんタージ」と呼ばれる繊細な墓廟で、大理石に宝石を嵌め込む「ピエトラ・ドゥーラ」と呼ばれる装飾技法を用いています。この技法は後にタージ・マハルに応用され、ムガル建築美の極致に至りました。
加えて、アグラは学術と芸術の中心地としても機能しました。ムガル宮廷ではペルシア語文献の翻訳が進められ、ヒンドゥー教経典や歴史書がペルシア語に移されることで文化的交流が促進されました。また、細密画(ミニアチュール)や書道、詩作が発展し、アグラはインド=イスラーム文化の中心として独自の輝きを放ちました。
近代以降のアグラとその意義
17世紀後半、アウラングゼーブ(在位1658~1707)が帝位に就くと、ムガル帝国の首都はデリーへ移され、アグラの政治的地位は低下しました。しかし都市としての機能は維持され続け、マラーター勢力やアフガン勢力、さらにはイギリス東インド会社の支配下に入る中でも地域の拠点都市として存続しました。
19世紀、イギリス統治下のアグラは行政都市として再編され、教育機関や司法機関が設置されました。特にアラハバード高等法院の前身としての役割を担ったことは注目に値します。この頃、ヨーロッパ人旅行者や学者がアグラを訪れ、タージ・マハルを「東洋の真珠」として紹介し、国際的にその名声が広まりました。
現代においてアグラはインドを代表する観光都市であり、タージ・マハル、アグラ城、ファテープル・シークリーといった世界遺産を有する都市として年間数百万人の観光客を集めています。また、学術的にもアグラはムガル建築研究や都市史研究における重要なフィールドであり、歴史学や建築学の分野で継続的に研究対象とされています。
このようにアグラは、ムガル帝国の政治的中心として、また建築美の到達点として、さらには近代以降の観光と文化交流の場として、インド史および世界史において極めて重要な都市であり続けています。その歴史的役割と遺産は、今日に至るまで人々に深い感銘を与え、インド文明の象徴的存在として輝き続けています。

