重商主義 – 世界史用語集

重商主義とは、おもに16~18世紀のヨーロッパでとられた経済政策の考え方で、「国が豊かになるには、お金(とくに金銀)を国の中にためこみ、外国との貿易で黒字を出すことが大事だ」という発想にもとづいています。輸出をできるだけ増やし、輸入をできるだけ減らすために、国が強い権限を使って経済に口出しするのが特徴です。単なる経済理論というより、「国の力を高めるための国家戦略」として理解するとイメージしやすいです。

この重商主義は、スペイン・ポルトガル・イギリス・フランス・オランダなど、多くのヨーロッパ諸国が採用しました。植民地を開拓したり、特定の商人に独占権を与えたり、関税で輸入品に高い税金をかけたりするのも、重商主義の典型的な政策です。後の時代に、アダム・スミスなどの経済学者によって批判され、やがて「自由貿易」の考え方にとってかわられていきますが、当時の国際関係や国家の成り立ちを理解するうえで、とても重要なキーワードです。

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重商主義の基本的な考え方

重商主義の出発点は、「国の富とは何か」をどう考えるか、という問題でした。重商主義の時代、多くの政治家たちは、国の富を金や銀の量で測ろうとしました。金銀はどの国でも価値を持つ貴金属であり、軍隊を維持したり、武器や船を買ったり、外交で相手を動かすための手段にもなります。そのため、「金銀をたくさん持っている国=強い国」というイメージが広く共有されていたのです。

しかし、金銀は地下から無限にわいて出るわけではありません。とくにヨーロッパでは、金銀の産地はかぎられていました。そこで重商主義の発想は、「外国との貿易で儲けることによって金銀を自国に引き入れればよい」という方向へ進みます。このとき重要になるのが、「輸出は多く、輸入は少なく」という考え方です。輸出することで外国からお金を受け取り、輸入を減らせば、そのぶん金銀が国外に流れ出るのをおさえられると考えられました。

このように、重商主義は「貿易差額=国の富の増減」とみなす考え方をとりました。しばしば「世界全体の富はほぼ一定だから、ある国が得をすれば、別の国は損をする」というゼロサム的なイメージが背景にあると説明されます。つまり、お互いに得を分け合うというより、「他国に負けないように自国の取り分を増やす」ことが重視されたのです。

そのため、重商主義では、自由な商売にまかせるのではなく、国家が積極的に経済活動に介入します。例えば、輸入品に高い関税をかけて国内産業を守る、国内で生産してほしい産品には補助金を出す、重要な貿易を行う会社に独占権を与える、などの方法がとられました。こうした政策によって、国の収入(税金)も増え、軍隊や官僚機構を支える財源も確保されました。

また、重商主義は、単に貿易の数字だけを問題にしたわけではありません。国内に工場や造船所を増やし、職人や商人を育て、道路や港などのインフラを整えることも、輸出力を高めるうえで不可欠だと考えられました。つまり、「国家主導の産業育成政策」としての側面も強く、後の近代国家の経済運営の原型の一つと見ることもできます。

重商主義が生まれた歴史的背景

重商主義が広まった背景には、ヨーロッパの政治と世界情勢の大きな変化がありました。まず重要なのが、「主権国家」としての近代国家が形を整えつつあったことです。中世のヨーロッパでは、国王・貴族・教会などさまざまな勢力が入り乱れ、はっきりとした国境や国家の枠組みはまだ不安定でした。しかし、16世紀ごろから、フランス・スペイン・イングランドなどでは、国王を中心とする中央集権的な国家体制が整い始めます。

このような国家は、常備軍の維持や官僚組織の運営に多額の資金を必要としました。王が家臣を率いて戦う中世的な戦争から、銃や大砲を備えた大規模な常備軍どうしがぶつかり合う戦争へと変わりつつあったからです。そこで各国は、財政基盤を強化するために、税金や関税を効率的に集めようとしました。重商主義は、こうした「強い国家」を支えるための経済思想として位置づけることができます。

もう一つの大きな背景が、「大航海時代」とその後に続く世界交易の拡大です。スペインやポルトガルは、15~16世紀にかけてアメリカ大陸やアジアへの航路を開き、大量の銀や香辛料をヨーロッパにもたらしました。続いて、オランダ・イギリス・フランスなども、東インド会社をつくってアジアとの貿易や植民地支配に乗り出します。アメリカ大陸からの銀、アジアからの香辛料・絹・綿布、アフリカからの奴隷といった商品が、三角貿易などを通じて地球規模で動くようになりました。

この新しい世界貿易のなかで、どの国がどれだけ利益を手にするかは、国家の存亡にも関わる問題でした。スペインはアメリカ大陸から大量の銀を持ち帰ることで一時的に大国となりますが、その銀の多くは、武器の購入や戦争費用として他国に流れてしまい、国内産業の発展には必ずしもつながりませんでした。この反省もあって、「ただ金銀を掘り出してくるだけでなく、貿易と産業を通じて豊かさを生み出すべきだ」という重商主義的な発想が強まっていきます。

さらに、宗教改革や三十年戦争など、16~17世紀のヨーロッパは政治・宗教的な対立が激しく、戦争が頻発しました。戦争には莫大なお金がかかるため、各国は財源確保のためにも、貿易や植民地からの収益に期待しました。その結果、「軍事力」「外交」「経済」が一体となった国家運営が進み、重商主義が一種の国家戦略として受け入れられていったのです。

各国の重商主義政策の具体例

重商主義と一口に言っても、国によって強調点ややり方には違いがありました。代表的な例として、フランス・イギリス・スペインなどの政策を見てみると、その多様性と共通点が分かりやすくなります。

フランスでは、ルイ14世の時代に財務総監をつとめたコルベールが重商主義政策を徹底したことで知られています。いわゆる「コルベール主義」とも呼ばれ、国内に織物・ガラス・造船などの工場を設立し、職人を保護・育成しました。さらに、輸入品に高い関税をかける一方で、輸出産業には特権や補助金を与えて支援しました。また、道路や運河を整備し、国内市場の統合を進めることで、商業活動を活発にしようとしました。これは、絶対王政フランスの強力な財政を支える基盤にもなりました。

イギリスでは、17世紀半ばから18世紀にかけて、「航海法」と呼ばれる一連の法律が重商主義政策の中心となりました。航海法は、イギリスとその植民地とのあいだの貿易はイギリス船で行うこと、特定の重要な産品(タバコ・砂糖など)はイギリス本国にしか輸出してはいけないことなどを定め、イギリス商船の保護と植民地貿易の独占をねらいました。これにより、イギリスの造船業や海運業、港湾都市は大きく発展し、のちの海上覇権の基礎が築かれていきます。

また、イギリス東インド会社などの特許会社(チャーター会社)に、アジア貿易の独占権を与えたことも重商主義の一環です。これらの会社は、民間企業でありながら、国家から特別な権利や保護を受けて、軍隊を持ち、条約を結ぶなど、半ば国家に近い活動を行いました。会社の利益は株主だけでなく、国家財政にも貢献し、イギリスの対外政策と密接に結びついていきました。

スペインやポルトガルは、アメリカ大陸やアジアに広大な植民地を持ち、金銀や香辛料などの資源を独占しようとしました。スペイン王室は、植民地との貿易を厳しく管理し、スペイン本国の港からしか正式な貿易を認めないなどの制度を設けました。これは、金銀が他国に流出するのを防ぐための重商主義的な仕組みでしたが、一方で植民地側の経済発展を妨げ、密貿易の横行を招くという問題も抱えていました。

オランダは、比較的小国でありながら、商業と金融の力で「海上帝国」として栄えました。オランダ東インド会社は、アジア貿易で巨大な利益をあげ、アムステルダムはヨーロッパ有数の金融センターとなります。オランダの政策は、他国と比べると比較的自由貿易的な面も持っていましたが、それでも東インド会社の独占権や植民地支配など、重商主義的な要素を多く備えていました。

このように、各国の重商主義政策は、植民地の持ち方、産業の発展段階、国内政治の状況によってさまざまでしたが、「国家が主導して貿易と産業を管理し、国力の増大をはかる」という点では共通していました。

重商主義の終わりと後世への影響

18世紀後半になると、重商主義に対する批判が強まっていきます。その代表的な存在が、イギリスの経済学者アダム・スミスです。1776年に出版された『国富論』のなかで、スミスは、国家が経済に過度に干渉する重商主義を批判し、「見えざる手」という考え方で知られるような市場の自律性を強調しました。人々が自分の利益を追求して自由に取引を行えば、結果として社会全体の富も増える、という発想です。

スミスは、国の富を金銀の量で測るやり方にも反対しました。彼にとって、富とは「国民が生み出す財やサービスの総量」であり、生産力そのものが重要だと考えたのです。また、関税や独占権による保護は、短期的には特定の産業や商人を守るかもしれませんが、長期的には競争を妨げ、生産性の向上をさまたげると見なされました。このような批判は、その後の「自由貿易」思想の理論的な土台となっていきます。

19世紀になると、イギリスを中心に工業化が進み、機械を使った大量生産が可能になります。工業製品を世界市場で売りさばきたいイギリスにとって、他国の高い関税や貿易制限は邪魔な存在でした。そのため、イギリスは自由貿易政策を推し進め、1840年代には穀物法の廃止など、保護主義的な政策を次々と撤廃していきます。こうして、ヨーロッパの主流は、しだいに重商主義から自由貿易へと移り変わっていきました。

とはいえ、重商主義で培われた発想は、完全に消えてしまったわけではありません。例えば、国が特定の産業を保護・育成しようとする政策や、幼稚産業保護論と呼ばれる考え方には、重商主義の名残を見て取ることができます。近代以降も、多くの国が工業化の初期段階で関税や補助金を使い、自国産業を守りながら成長させようとしました。この意味では、重商主義は、発展途上国の経済政策を考えるうえでも、しばしば参照される歴史的なモデルです。

また、重商主義は、植民地支配や帝国主義の展開とも深く結びついていました。植民地を「原料供給地」かつ「製品の市場」として組み込む発想は、19世紀以降の帝国主義的な植民地分割にも引き継がれていきます。植民地側から見れば、自国の経済が宗主国の重商主義的な政策によって縛られたことが、後の独立運動の原因の一つにもなりました。

さらに、重商主義の時代に整備された港湾・道路・運河などのインフラ、商業・金融の仕組み、商船隊や海軍力の増強は、その後の資本主義経済と国際貿易の発展の土台となりました。国家が経済運営に積極的な役割を果たすというイメージも、この時期に強く定着します。現代でも、経済危機や国際競争の激化のなかで、保護主義的な政策や国家主導の産業戦略がたびたび議論になるのは、重商主義的な発想が完全には過去のものになっていないことを示していると言えるかもしれません。

このように、「重商主義」という用語は、単に昔の経済思想の名前ではなく、近代国家の形成、植民地帝国の拡大、自由貿易への転換といった、17~19世紀の大きな歴史の流れの中で理解するべきキーワードです。その中身をたどることで、各国がどのように富と力を求め、世界規模の競争と協力のなかで動いてきたのかが、より立体的に見えてきます。