自由将校団は、第二次世界大戦後のエジプトで生まれた若い軍人たちの秘密結社で、1952年に国王ファルーク政権を倒して王制を終わらせたグループのことです。イギリスの強い影響下に置かれ、政治の腐敗や貧富の差が広がっていたエジプト社会に不満を募らせた将校たちが、「国を外国支配と腐敗から救い出したい」という思いで結成しました。その中心人物が、のちにエジプト大統領となるガマール・アブドゥル=ナーセルです。
自由将校団は、単にクーデターで政権を奪っただけの軍人グループではなく、「独立」「社会改革」「アラブ民族の団結」といった大きな目標を掲げていました。その動きは、エジプト国内にとどまらず、中東の多くの国々で軍人による革命やクーデターが相次ぐきっかけにもなりました。今日、教科書で「自由将校団」と出てきたときは、普通はこのエジプトのグループを指していることが多いです。
自由将校団の成立背景とメンバー
自由将校団が生まれたエジプトは、形式上は独立した王国でしたが、実際にはイギリスの政治的・軍事的影響力が非常に強い国でした。スエズ運河は国際的に重要な航路であり、イギリスにとっても死活的な利益がかかっていたため、イギリスはエジプトの政治に深く関わり続けていました。その一方で、農村では大土地所有者が幅を利かせ、多くの農民が貧困に苦しんでいました。こうした状況は、多くのエジプト人にとって「名ばかりの独立」に見えていたのです。
第二次世界大戦期、エジプトは連合国側の拠点として重要な位置を占め、多くのエジプト人将校が戦争や軍務を通じて国際情勢を目の当たりにしました。彼らは、アジアやアフリカの植民地が独立を目指して動き始めていることを知り、自国の置かれた状況への不満と危機感を強めていきました。このような経験を共有した若い将校たちの間で、「エジプトも真の独立と改革を実現しなければならない」という意識が強まりました。
自由将校団は、こうした不満と理想を持つ若い軍人たちによって、秘密裏に組織されました。階級としては、中尉・大尉など、中堅クラスの将校が中心であり、いわゆる貴族階級出身のエリートではなく、中産階級や庶民の出身者が多かったことが特徴です。彼らは、封建的な王制や、王を支える保守的な大地主層に対して批判的な立場をとりました。
自由将校団の内部では、思想的な傾向に多少の幅はありましたが、おおまかには、反帝国主義(外国による支配への反対)、反封建(古い身分制や大土地所有制度への批判)、そして国家の近代化・社会改革の必要性という点で共通していました。軍という組織の性格上、指揮系統や命令系統を活かした秘密保持と組織運営が行われ、外部からはなかなか実態が見えない存在でした。
その中で頭角を現したのが、ガマール・アブドゥル=ナーセルです。彼は貧しい家庭の出身ではないものの、決して特権階級ではなく、中産階級出身として、庶民感覚を持ち合わせた人物でした。若い頃から政治や社会問題に関心を持っていたナーセルは、軍内で同じ志を持つ仲間を集め、自由将校団の精神的リーダーとなっていきました。
しかし、彼らは若い中堅将校にすぎず、軍全体を一気に動かすだけの権威や地位はまだありませんでした。そのため、後に自由将校団は、より高い階級と社会的名声を持つムハンマド・ナギーブ将軍を「表の顔」として迎え入れ、団体の存在感と信頼性を高める戦略をとることになります。この点も、自由将校団が単に勢いだけで動いたのではなく、慎重に政治的な計算を行っていたことを示しています。
エジプト革命と自由将校団の行動
自由将校団の名前が歴史の表舞台に現れるのは、1952年のいわゆる「エジプト革命」のときです。この革命は、形式的には「クーデター(軍事クーデター)」として始まりましたが、その後の政治体制の変化や社会改革の規模から、一般には「革命」と呼ばれています。自由将校団は、王制を倒し、イギリスの影響力を排除し、エジプトを真に独立した近代国家へと変えることを目指して行動しました。
1952年7月23日、自由将校団は首都カイロの軍施設や通信機関を素早く押さえ、軍の中枢を掌握することに成功します。ここで重要だったのは、クーデターをできるだけ短時間で、そして流血を最小限に抑えて実行することでした。軍が内戦状態になれば、国は大混乱に陥り、外国勢力に付け入る隙を与えかねないからです。この点で、自由将校団はかなり綿密な計画と準備をしていたと考えられます。
クーデターの成功によって、当時の国王ファルーク1世は退位を余儀なくされ、国外へ追放されます。これによって、19世紀以来続いてきたエジプト王朝は事実上終わりを迎えました。最初の段階では、王制そのものはすぐには廃止されず、幼いフアード2世が形式上の国王として立てられましたが、実権は革命指導部に握られていました。その後、1953年に正式に共和制が宣言され、エジプトは「アラブ共和国」へと移行していきます。
この過程で、自由将校団は「革命指導評議会」という政治機関を設置し、そこで国家の方向性を決めていきました。表向きのトップにはムハンマド・ナギーブが立ち、大統領として国内外に姿を見せましたが、実際にはナーセルをはじめとする自由将校団の中核メンバーが重要な政策決定を行っていました。ナギーブは、王制打倒後の政治のあり方や民主化の速度をめぐって、次第にナーセルらと対立し、やがて失脚してしまいます。
クーデター後、自由将校団はまず軍と警察を掌握し、旧王制を支えていた勢力を徐々に排除していきました。政党活動は制限され、多くの旧来の政治家は影響力を失っていきます。また、イギリスとの関係見直しが大きな課題となり、スエズ運河地帯に駐留するイギリス軍の撤退交渉が進められました。これらの動きは、エジプトを真の意味で「主権国家」にしようとする試みとして理解することができます。
一方で、自由将校団の支配は、必ずしも一貫して民主的なものではありませんでした。政党政治は抑え込まれ、言論や反対派への弾圧も行われました。つまり、自由将校団は「外国支配と旧来の支配層」を排除することには成功しましたが、その代わりに軍を中心とする新たな権力構造を作り出したともいえます。この点は、のちの中東諸国における軍事政権や権威主義体制の先駆的なモデルとみなされることもあります。
自由将校団の思想・目標と政策
自由将校団が掲げた理念は、一言でいえば「反帝国主義・社会正義・アラブ民族主義」です。彼らは、エジプトがイギリスをはじめとする西洋列強に政治的・経済的に従属してきた歴史を強く批判し、外国の干渉から自由な独立国家をつくることを最優先目標としました。これは、当時の広い意味での「第三世界」の独立運動と軌を一にするものでした。
内政面では、自由将校団は封建的な大土地所有制度の解体を目指しました。エジプトの農村では、ごく一部の大地主が広大な土地を所有し、多くの農民が小作人として貧しい生活を送っていました。自由将校団は、土地改革法を制定し、個人の土地所有面積に上限を設けるとともに、余剰地を没収して農民に分配する政策を進めました。これにより、一部の特権的な地主層は打撃を受けましたが、農民の生活がただちに大きく向上したわけではなく、その効果については賛否が分かれます。
経済政策の面では、国有化や国家主導の開発政策が重視されました。とくに象徴的なのが、1956年のスエズ運河国有化です。これは、自由将校団出身で大統領となったナーセルが進めた政策であり、エジプトの主権をはっきりと示す行動でした。スエズ運河国有化はイギリスやフランスの強い反発を招き、スエズ危機(第二次中東戦争)へと発展しますが、最終的にはエジプトの国有化が国際的に認められ、ナーセルと自由将校団の威信は大きく高まりました。
対外政策においては、自由将校団政権は冷戦の米ソ対立の中で「非同盟」の立場を模索しました。つまり、アメリカにもソ連にも完全にはつかず、自国の利益とアラブ世界の団結を重視するという姿勢です。同時に、アラブ民族主義の旗を掲げ、アラブ諸国の連帯と統合を訴えました。エジプトとシリアが一時的に合同して「アラブ連合共和国」をつくった試みも、その延長線上にあります。
政治体制としては、自由将校団の支配下で、一党支配的な体制や権威主義的な統治が進みました。表向きには国民の参加や選挙が行われましたが、実際には軍と革命指導部が大きな力を持ち、反対派は抑圧されました。イスラーム主義勢力であるムスリム同胞団との対立や弾圧も、この時期に激化していきます。このように、自由将校団の政権は「民族独立と社会改革」を掲げつつも、「政治的自由」には限界があったという面が否定できません。
それでも、自由将校団の掲げた「社会正義」や「民族的自尊心の回復」といったスローガンは、多くの庶民にとって魅力的に響きました。長年、外国支配や王制のもとで不満を抱えてきた人々にとって、彼らの登場は新しい時代の到来を告げるものとして期待されたのです。この期待と現実の間にどれだけのギャップがあったのか、という点が、後世の歴史家によってさまざまに論じられています。
中東世界への影響とその後
自由将校団の運動は、エジプト国内にとどまらず、中東・アラブ世界全体に大きな影響を与えました。1952年のエジプト革命は、「若い軍人たちが腐敗した王制や外国依存の政権を倒し、民族的自立を掲げる」というモデルケースとなり、その後のアラブ諸国の軍事クーデターや革命の「お手本」のように見なされました。実際、イラクでも「自由将校」を名乗るグループが1958年に王制を打倒しています。
このような流れの中で、多くの国で軍が政治の中心に立つようになり、軍事政権や権威主義政権が相次いで誕生しました。表面的には「革命」「解放」「社会主義」「アラブ民族主義」などのスローガンが掲げられましたが、その中身は国によって大きく異なり、また時間とともに変化していきました。自由将校団のエジプトも、理想と現実の間で揺れ動きながら、軍を基盤とする強力な国家を形成していきます。
エジプトにおける自由将校団の直接的な影響は、ナーセル時代を頂点として、その後も長く続きました。ナーセルの死後も、サーダート、ムバーラクといった歴代大統領の多くが軍出身であり、「軍が政治の中枢にいる」という構図は簡単には崩れませんでした。自由将校団という名前自体は、やがて歴史的な呼称になっていきますが、その残した政治文化や権力構造は、21世紀に至るまでエジプト政治の背景として存在し続けました。
国際的な視点から見ると、自由将校団の登場は、冷戦期の「第三世界」の動きを理解するうえでも重要です。彼らは、単純にアメリカやソ連のどちらかに従属するのではなく、自国の立場から両陣営と交渉しようとする主体でした。そのため、時には両陣営から圧力や牽制を受けながらも、スエズ運河国有化のような大胆な行動に踏み切ることができました。これは、当時の多くの新興独立国にとって、一つの参考例となりました。
一方で、自由将校団型の軍事政権には、長期的にはいくつかの限界もありました。軍が政治と経済を握ることで、汚職や非効率、硬直化が生まれやすくなり、また市民社会や政党政治の発展が妨げられる傾向がありました。エジプトを含む多くの中東諸国では、こうした問題が後に社会不満として噴き出し、政治的な動揺や抗議運動につながっていきます。自由将校団の遺産は、肯定的な側面と否定的な側面の両方をあわせ持つ複雑なものになりました。
世界史のなかで「自由将校団」という用語に出会ったとき、それは単に「若い軍人のグループ」という意味ではなく、20世紀半ばの中東における民族独立運動、社会改革、軍の政治進出といった広い文脈の中で理解する必要があります。エジプトの自由将校団は、その象徴的な存在として位置づけられており、その動きは中東世界の政治地図を大きく塗り替えるきっかけの一つとなったのです。

