インド省(India Office)は、1858年の英領インド統治法によって創設され、1947年のインド・パキスタン独立までロンドンでインド帝国の最高統治を担ったイギリス本国の省庁です。長官はインド相(Secretary of State for India)で、ロンドンの大臣がデリーのインド総督(副王)に対して最終的な指揮権と財政・人事の統制を及ぼしました。東インド会社から王冠統治へ移行するなかで、インド省は「本国—植民地」の連絡・意思決定・監督の回路として設計され、軍事・外交(対藩王国を含む)・財政・鉄道や灌漑などの公共事業・高等官僚採用(ICS=インド文官)まで幅広く所管しました。併置のインド評議会(Council of India)を通じて大臣権限の均衡が図られた一方、民主的コントロールの欠如や、インドの税収が本国費用に充当される「ホーム・チャージズ」の問題など、構造的な矛盾も抱えました。1935年の統治法で権限は一部縮小され、1947年の独立により廃止されて、その文書群は「インド省記録」として今日に伝えられています。
成立の背景と制度設計:会社統治から王冠統治へ
1857年の「インド大反乱」(セポイの反乱)を契機に、イギリス議会は翌1858年に統治体制の抜本改正に踏み切りました。東インド会社による統治は終止符が打たれ、国王(のち女王)名による「王冠統治」に移行します。このとき新設されたのが、ロンドンに置かれるインド省と、その長たるインド相です。インド相は内閣の一員として議会に責任を負い、行政命令・勅令・規則・通達を通じて、インド総督(副王)および各州総督・副総督に対する最終的な監督・指揮権を持ちました。
インド相の決定は、原則としてインド評議会(Council of India)の助言を経て行われました。評議会は15名以内の委員からなり、多くは退職した高等官僚や軍人で、任期と給与が保障され、技術的専門知を提供しました。とりわけ財政・歳出・契約に関わる決定は「インド相・インド評議会合議」に付され、単独専断を抑制する構えが取られました。他方、外政・戦時などではインド相の裁量が強く、緊急時には評議会を経ずに指令を発する規定も用意されていました。
制度設計の中核は「本国集中—現地執行」の分業です。ロンドンのインド省は、対外関係(藩王国との条約や境界画定を含む)・軍の編成・高等官僚の任免・公共事業の大規模計画・予算方針など戦略領域を握り、デリーの副王政府はそれを執行する形でした。通信手段の発達—蒸気郵便、海底電信—がこの構造を現実のものとし、19世紀後半にはロンドン—カルカッタ(のちデリー)間の往復指令が週単位で飛び交う体制が整えられます。
権限と業務:財政・軍事・公共事業・官僚採用
インド省の最重要任務の一つは財政の統制でした。インドの税収・関税・専売収入は、ロンドンの勘定にも直結し、債務の利払い、軍事費、鉄道補償金、年金などの「ホーム・チャージズ(本国負担)」として英国側に送金されました。この仕組みは、インドの財政負担が帝国全体の費用—とくに軍事と利子—に組み込まれる回路を作り、しばしば「植民地の収奪」と批判されました。インド省は予算案・借款・関税政策・銀本位制の運用をめぐって、議会やシティの金融界、現地政府と調整を続けました。
軍事面では、インド軍(英印軍)の編制・兵站・装備調達・軍学校の設置などに関与し、対外戦争や国境画定—アフガニスタンやチベット、北西辺境の部族との関係—にも強い影響力を持ちました。副王の軍事顧問とロンドンの軍務局・外務省との連動は緊密で、戦略決定は英本国の安全保障政策と一体化していました。第一次世界大戦・第二次世界大戦では、インド省が労兵・資金・物資の動員計画のハブとなり、戦費の割当や徴発が社会に重い負担を生みました。
公共事業分野では、鉄道の建設・国営化、灌漑・運河・水利、港湾・通信(電信・電話)の整備に深く関わりました。鉄道では、インド省と評議会が投資認可や利子保証の条件を定め、私設鉄道会社と政府の関係(後の買収・国有化)を設計しました。灌漑では、パンジャーブや西北インドの大規模運河が農業生産と換金作物の拡大に寄与する一方、水利権や土地制度の再編が社会関係に長期の影響を与えました。これらの案件は、単なる土木ではなく、帝国財政と輸出入構造の中で位置づけられました。
人事面で特筆すべきは、高等文官(Indian Civil Service, ICS)の採用・任用です。1850年代後半からの公開競争試験はロンドンで実施され、合格者はイギリス人が圧倒的多数を占め続けました。インド省は試験科目・年齢要件・訓練課程の設計に関与し、現地人登用の上限や登用比率を事実上コントロールしました。のちに設置されたインド公安・警察(IP, IPSの前身)、技術官僚(工兵、測量)、司法官僚の採用にもインド省の影響が及び、官僚制の「英化」が進みました。他方、20世紀に入ると現地人登用の拡大、インド国内での試験実施、専門職の教育機関拡充など、漸進的な改革も実施されます。
外交・藩王国政策の領域では、藩王国(プリンシー・ステート)との「宗主権(パラマウンシー)」を運用し、婚姻・継承・外交・軍事貢献・鉄道敷設などを条約・勅許で規制しました。インド省と副王は、在地のレジデントを通じて藩王を監督し、ダーバール(大閲兵)や勲章制度を通じて忠誠と序列を可視化しました。1911年のデリー遷都やニューデリー計画の背後にも、インド省の承認と資金計画が存在します。
政治改革と揺らぎ:1909・1919・1935年の統治法と権限の再配分
20世紀初頭、民族運動の高揚に直面した英政府は、選挙制と自治の拡大を段階的に提示します。1909年のモーレー=ミントー改革は、立法評議会の拡充と宗派別選挙区の導入を行い、インド省はその制度設計と実施監督を担いました。第一次世界大戦期の1917年「インド自治の約束」、1919年のモンタギュー=チェルムスフォード改革では、州レベルに「二元統治(ディアーキー)」を導入し、教育や保健などを選挙で選ばれた大臣が担当する道が開かれます。インド省は、権限移譲の対象や手順、財政配分、治安権限の線引きをめぐり、現地政府と複雑な調整を迫られました。
決定的な節目は1935年インド統治法です。ここで州レベルの責任内閣制が大幅に拡大し、選挙によって形成される州政府が行政の主導権を握ることが制度化されました。連邦政府の責任政府化は条件付きで未実施のままでしたが、インド省の現場統制は相対的に縮小し、政治は州レベルへ重心を移します。併せて、ビルマ(ミャンマー)は1937年にインド行政から分離され、ロンドンにビルマ省(Burma Office)が新設されました。これにより、インド省は管轄範囲を純化しつつも、連邦—州—藩王国の三層構造を調停する複雑な役割を負い続けました。
しかし、実態としてインド省の力は大戦期に再強化されます。1939年の戦争勃発に際し、インド総督は本国の決定に基づいて対独参戦を宣言し、州内閣が辞職するなど、戦時体制が統治を上書きしました。徴発・配給・物価統制・検閲が拡大し、インド省は補給と財政の統括を担います。1942年のクィット・インディア運動への弾圧や、戦時協力のための政治提案(クリップス使節など)をめぐる駆け引きでも、インド省は首相官邸・外務省・参謀本部と緊密に動きました。
廃止と遺産:独立・分割、記録の継承、評価
1947年、インドとパキスタンが分割独立すると、インド省はその目的を果たして廃止され、所掌は英連邦関係省(Commonwealth Relations Office)などへ移管されました。併置されていたビルマ省も1948年のビルマ独立により廃止されます。インド相の官邸・事務棟に残された膨大な公文書は「インド省記録(India Office Records)」として整理保存され、統治と社会経済・文化の詳細な一次資料として今日も研究の基盤となっています。
歴史的評価は複層的です。一方では、インド省が近代行政・司法・インフラ・教育の制度構築を指揮し、広域の治安と公共事業を統括したことで、一定の近代化を促したとする見方があります。他方では、財政の本国優先、代表なき課税、政治的抑圧、官僚制の差別的構造など、民主主義と自決の原理に反する欠陥が批判されます。とくにホーム・チャージズや鉄道利子保証の枠組みは、帝国中心の資本循環にインドを従属させた制度として問題視されました。人事・採用の面でも、公開試験の名の下で事実上の人種的・地理的障壁が長く残り、エリート官僚の「英化」が政治的距離感を生んだことは否めません。
インド省の歴史をたどることは、帝国統治が「ロンドンの省庁—デリーの副王政府—州・藩王国—郡・村」の多層構造で運営され、通信・財政・人事・公共事業という技術と制度の束によって維持されたことを理解する近道です。同時に、それがどのように民族運動の圧力と改革の波に押され、権限移譲と最終的な主権移行へと向かったのかを見る手がかりにもなります。インド省は、帝国の中枢として強大であったと同時に、近代の政治理念の前に次第に身動きの取れない存在へと変わっていきました。その両義性こそが、この用語の核心だと言えるのです。

