原水爆禁止世界大会(げんすいばくきんしせかいたいかい)は、核兵器の廃絶と被爆者援護を目的に、毎年8月を中心として日本の被爆都市(広島・長崎)などで開催されてきた国際会議・市民集会の総称です。1955年の第1回開催以降、被爆者の証言、科学者・医療者・法律家の報告、各国の市民団体・自治体・宗教者・若者の参加が重なり、核実験禁止や核軍縮の国際世論を形成してきました。国内では原水協系と原水禁系など複数潮流が併存し、しばしば別個に世界大会を開きますが、広島・長崎を核に「核兵器の非人道性」を世界に訴える年次のハブという点では通底しています。本稿では、起源と理念、組織・運営の特徴、典型的プログラムと成果、国際ネットワークとの連動、分立と調整の歴史、継承と今日的課題を整理し、なぜこの集会が半世紀以上にわたり持続してきたのかをわかりやすく解説します。
起源と理念:ビキニ被災から「被爆地発」の国際会議へ
世界大会の起点は、1954年のビキニ環礁における水爆実験で日本漁船が被災した事件にあります。放射性降下物による健康被害と食の不安が広がり、1955年、被爆10年の節目に広島で第1回の原水爆禁止世界大会が開催されました。ここで掲げられた基本理念は、(1)核兵器の廃絶、(2)被爆者・被災者の救済と補償、(3)戦争放棄と平和の維持、という三点に集約されます。この枠組みは以後の大会でもほぼ不変で、時代ごとの情勢—核実験競争、米ソ冷戦の緊張緩和、部分的核実験禁止条約(PTBT)、核不拡散条約(NPT)、包括的核実験禁止条約(CTBT)、核兵器禁止条約(TPNW)—と相互作用しながら更新されてきました。
世界大会は「被爆地から世界へ」という構図をとります。被爆都市が会場であること自体が、抽象的な軍略や安全保障の言葉を、身体的・倫理的な実感に引き戻す効果をもたらしました。被爆者(被団協など)の証言は、国境や政党を越えて共有される道徳的基盤を提供し、科学者・医師・法律家はその訴えをデータと法言語で支えます。こうして、感情・科学・制度の三層を束ねる独特の公共圏が形づくられました。
組織と運営:複数潮流の「並走」と市民参加の開放性
日本の反核運動は、1950年代後半から60年代にかけて政治的背景の違いを映し、複数の全国組織が併存してきました。そのため、原水協系と原水禁系といった潮流が、それぞれ独自に「世界大会」を名乗り、ほぼ同時期に広島・長崎で会期を設定するケースが続いています。外形的には分立の印象を与えますが、両者の会合はいずれも被爆者証言・専門家報告・国際ゲストの招聘・行動提起を柱に据え、地域・学校・労組・宗教者・自治体・芸術家など、広範な市民の参加に開かれています。
運営面では、(1)実行委員会形式での準備、(2)基調集会・分科会・ワークショップの多層構成、(3)海外ゲストの招致と通訳体制、(4)街頭パレードやキャンドル行進など市民参加型イベント、(5)会期末のアピール/決議文採択、が定番です。大会の準備段階から、学校の平和学習、自治体の平和宣言、地域の証言会、写真・被災物の展示が連動し、会場外の「広がる会期」を生み出します。近年はオンライン配信・同時通訳・若者セッションの拡充など、参加の障壁を下げる工夫が進んでいます。
プログラムの骨格:証言・科学・法・行動提起
典型的な世界大会のプログラムは、四つの柱で構成されます。第一は証言で、被爆者・被災者・医療関係者が身体の記憶を語ります。第二は科学で、放射線の健康影響、核兵器の軍事的特性、気候と食料への影響、事故時の被害想定など、最新知見の報告が行われます。第三は法・政策で、国際人道法、核兵器の違法性論、条約交渉の到達点、国内政策の現状と課題が検討されます。第四は行動提起で、署名・ロビー活動・自治体決議・教育カリキュラム・金融ダイベストメント・アート表現など、参加者が翌日から実践できるメニューを共有します。
分科会では、核実験被害(南太平洋・中央アジア・北極圏など)、被爆二世・三世の課題、女性と核、若者の視点、メディアと表現、宗教者の役割、障がいと避難、災害医療、気候危機と軍縮の接点など、テーマが細分化され、国際的な当事者が対話します。こうした細部の積み上げが、最終日のアピール文に凝縮され、各地の活動計画へ翻訳されます。
国際ネットワークとの連動:市民外交の交差点
世界大会は、国内運動の年次総会であると同時に、国際ネットワークの結節点でもあります。英国のCND、研究者のパグウォッシュ会議、欧米の核凍結運動、アジア・太平洋の地域団体、そして近年はICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)など、多様なアクターが参加し、条約会議や国連でのロビー活動へと知見と人材を接続します。自治体ネットワークである平和首長会議(Mayors for Peace)も重要なプレイヤーで、首長や議会が対外的アピールと政策を発信し、都市外交の層を厚くします。
この国際性は、単に海外ゲストを招くこと以上の意味を持ちます。たとえば、太平洋核実験被災者や中央アジアの旧実験場コミュニティと被爆地の住民が、医療・環境・補償の実務を具体的に比較し、政策提言を共同で作成する場となります。法曹・医療・教育の専門家が横串で連携し、翻訳・教材開発・データ共有のプロジェクトを立ち上げることも珍しくありません。
分立と調整:政治性と公共性の間で
原水爆禁止世界大会の歴史には、運動内部の分立が繰り返し現れます。冷戦構造、国内政党の力学、国際共産主義運動の分裂などが影を落とし、主催組織やスローガン、対外姿勢に差異が生まれました。これらは時に参加者の混乱を招きましたが、長期的に見ると、複数のチャンネルが異なる社会層へリーチし、総体として運動の裾野を広げる役割も果たしました。
調整の鍵は、(1)被爆者援護という最小公倍数、(2)条約という成果指向、(3)自治体・教育・医療など生活課題との接続、にあります。党派的言説が先行すると社会的信頼が損なわれやすいため、証言と科学・法の事実に軸足を置き、合意可能な政策メニュー—たとえば核兵器関連企業からの投融資引き下げ、先制不使用の支持、即応態勢の緩和、非核地帯の拡充—を提示する姿勢が求められます。
継承と教育:記憶を「場」と「ことば」に載せ替える
被爆から80年に近づくにつれ、直接の体験を伝える世代は少なくなっています。世界大会は、証言のデジタル化・多言語化・教材化を進め、学校・地域・オンラインに広げる拠点として機能しています。若者セッションや高校生平和大使、ユースの国連派遣、アート・演劇・ドキュメンタリー制作への支援は、記憶を次世代の言語へ翻訳する試みです。さらに、被爆建造物・被災物の保存、都市の平和関連施設のネットワーク化、巡回展示やVRアーカイブなど、記憶のインフラ整備が進みます。
教育の焦点は、核兵器問題を単独の課題として扱うのではなく、気候危機、感染症、社会的不平等、情報空間の安全性といった横断テーマと結びつけ、複合リスクのマネジメントとして教えることにあります。これにより、若い世代が自らの生活課題として反核を捉え直す回路が生まれます。
成果と限界:規範の階段と現実政治の摩擦
世界大会が積み上げてきた成果は、(1)被爆体験と科学的知見の世界的共有、(2)条約形成への市民側からの持続的圧力、(3)自治体外交と教育の制度化、に整理できます。PTBT・NPT・CTBT・TPNWへと至る規範の階段上昇には、こうした市民側の「裏打ち」が不可欠でした。他方で、核抑止に依存する安全保障政策との摩擦は続きます。核兵器国や「核の傘」にある国の参加を得るには、リスク低減措置の漸進策、検証・透明性の強化、地域安全保障の信頼醸成など、橋渡しの提案を具体化する必要があります。
また、運動の持続可能性—資金・人材・世代交代—も課題です。オンラインとオンサイトを組み合わせ、分野横断の共同研究・市民科学、金融・産業界との対話、文化・スポーツとの連携など、レパートリーの拡張が試みられています。大会そのものが「社会実験」の場であり続けることが、次の半世紀を形づくる鍵となります。
小まとめ:被爆地から世界をつなぐ年次ハブ
原水爆禁止世界大会は、被爆地を舞台に、証言・科学・法・行動を束ねる年次のハブとして機能してきました。複数潮流の並走という複雑さを抱えながらも、核兵器の非人道性を出発点に、条約と都市外交、教育と文化、国内と国際をつなぎ直す「場」を作ってきたのが最大の意義です。街角の署名から国連の会議場まで、距離の離れた場所を結ぶ回路は、人びとの参加によってのみ維持されます。次の時代に向けて、この回路を太くし、具体的な危険を一段ずつ低くしていくこと—それが世界大会が投げかける、変わらぬ宿題なのです。

