原水爆禁止運動 – 世界史用語集

原水爆禁止運動(げんすいばくきんしうんどう)は、核兵器—とくに原子爆弾・水素爆弾—の開発・実験・配備・使用に反対し、その廃絶と被害者救済を求めて展開してきた国内外の社会運動の総称です。核戦争の脅威が現実の政策と結びついた20世紀半ば以降、被爆体験の共有、科学者や宗教者の警鐘、市民の署名・デモ・訴訟・教育などが重なり、部分的核実験禁止条約(PTBT)や核不拡散条約(NPT)、包括的核実験禁止条約(CTBT)、核兵器禁止条約(TPNW)などの規範形成を後押ししました。日本では1954年のビキニ被災と杉並署名を起点に、被爆者(被団協)・労組・地方自治体(平和首長会議)・市民団体が多層的ネットワークを築き、国際的にもCND(英)やパグウォッシュ会議、核兵器凍結運動(米欧)などと呼応してきました。本稿では、起点と展開、組織と潮流、到達点と条約、方法とレパートリー、論点と課題、今日的意義を整理します。

スポンサーリンク

起点と展開:ビキニ被災から世界大会へ

原水爆禁止運動の象徴的な起点は、1954年3月1日のビキニ環礁での水爆実験(アメリカのキャッスル作戦)でした。周辺海域にいた日本の漁船が「死の灰」に被曝し、帰港後に乗組員が急性放射線障害に苦しんだ出来事は、占領期を終えつつあった日本社会に核被害の“現在性”を突きつけました。輸入されたマグロや鰹からの放射能検出は日常生活の不安へ直結し、原水爆禁止を求める署名運動は東京都杉並区から爆発的に広がり、短期間で数千万の署名が集まります。ここで可視化されたのは、専門家や政党に依存しない、市民起点のボトムアップ型アクションでした。

翌1955年、広島で第1回原水爆禁止世界大会が開かれ、被爆都市・被爆者の証言、科学者の報告、国際連帯の表明が一つの場に結びつきます。以後、8月の広島・長崎での会合は毎年の恒例となり、国内外の運動のハブとして機能しました。1956年には日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)が結成され、医療・補償・実態調査・証言活動が体系化されます。被団協の訴えは、人道的視点から核兵器の非合法性を問う論理(“非人道性フレーム”)の原型を形づくり、後世の条約交渉にも受け継がれました。

同時期、科学者と思想家の国際的呼びかけ(ラッセル=アインシュタイン宣言、1955年)を受けて、パグウォッシュ会議(1957年~)が発足し、研究者コミュニティの役割が強化されます。英国ではCND(核軍縮キャンペーン、1957年~)がイースターのアルダーマストン行進で大衆動員を実現し、米欧では1960年代の部分的核実験禁止(1963年)をめざす気運が盛り上がりました。原水爆禁止運動は、被害の証言と科学的知見、倫理・宗教・法の言葉を束ねる国際的プラットフォームへと育っていきます。

組織と潮流:日本の二大潮流と国際ネットワーク

日本の運動は、1955年に結成された日本原水協(原水爆禁止日本協議会/原水協)を中軸に始まりましたが、60年代の政治状況や国際共産主義運動の亀裂の影響を受け、1960年代半ばに原水協原水禁(原水爆禁止日本国民会議)という二大潮流に分かれます。前者は被爆の告発と国際連帯を前面に、後者は労組・市民と結ぶ広域な国民運動を志向し、両者はときに競合しながらも、署名・集会・ロビー活動・学習運動など運動の実務を分担・重層化しました。分立はしばしば「運動の分裂」と語られますが、複数チャンネルの存在が社会の異なる層へリーチする効果ももたらしました。

被団協は、医療・補償・認定制度の改善を直接の目標としながら、国際舞台で被爆証言の中心を担ってきました。自治体のネットワークとしては、1982年に平和首長会議(Mayors for Peace)が発足し、核兵器廃絶のアピールを世界各都市へ広げています。学校・地域での平和学習、博物館・記念資料館の常設展示、巡回展や被爆体験講話は、世代継承の装置として整備されました。

国際的には、英国CND、米国の核凍結運動(1980年代)、NATOの中距離核配備に反対した欧州の大規模デモ、科学者のパグウォッシュ会議、そして2007年以降のICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)が連帯の大きな節として挙げられます。ICANは被爆者の証言を核に「被害の視点」を外交の最前線へ押し出し、各国政府・国際機関・NGOの橋渡し役を担いました。こうした多層ネットワークが、国家安全保障の言説に偏りがちな核政策を、市民の安全・人権の言葉へ引き戻す役割を果たしました。

到達点と条約:規範の階段を上る

原水爆禁止運動の政治的到達点は、複数の条約と宣言に結晶しています。1963年の部分的核実験禁止条約(PTBT)は、大気圏・宇宙・水中での核実験を禁じ、放射性降下物による市民被害を直接抑える第一歩でした。1970年発効の核不拡散条約(NPT)は、核兵器国の増加を抑え、核軍縮交渉と原子力の平和利用を柱に据えました。1996年の包括的核実験禁止条約(CTBT)は地下実験まで射程に収めましたが、未発効の課題を残しています。地域レベルでは、南半球を中心に非核兵器地帯条約が広がり、地理的な規制が蓄積されました。

そして2017年、国連で核兵器禁止条約(TPNW)が採択され、2021年に発効しました。これは核兵器の非人道性を根拠に、開発・実験・保有・威嚇・使用・援助を包括的に禁止する初の普遍的規範です。採択過程で、被爆者の証言と医療者・法律家・市民の連携が強く働き、運動史の長い蓄積が法的成果へ橋渡しされた形となりました。条約は核兵器国や「核の傘」に依存する国の参加という難題を残す一方、金融・保険・軍需供給網など「周辺の実務」に規範圧力をかけ、核政策のコスト構造を変えつつあります。

日本国内では、非核三原則(「持たず、作らず、持ち込ませず」)と平和都市宣言、被爆者援護法・認定制度の改善など、制度化された成果が積み上がりました。とはいえ、核抑止に依存する安全保障政策と、核兵器の違法化をめざす人道規範の間のギャップはなお大きく、運動は「二つの言語」を横断する説明力を問われています。

方法とレパートリー:証言・署名・行進・訴訟・教育

原水爆禁止運動の力は、方法の多様さにあります。もっとも基本は証言です。被爆者・被災者・医療者の語りは、数字に還元されない身体の記憶を公共圏へ運び、法廷や外交会議のテーブルに人間の顔を取り戻します。これと対になるのが科学的証明で、疫学・放射線防護・国際人道法の知見が、感情の訴えを支える骨組みを提供します。

動員の技法としては、署名運動(1954年の杉並署名、近年のヒバクシャ国際署名など)、デモ・行進(広島・長崎の8月行動、英国のアルダーマストン行進、欧州の反核デモ)、ロビー活動(議員・官庁・国連・条約会議への働きかけ)、訴訟・申し立て(国家賠償、疾病認定訴訟、健康被害の立証)、教育・資料化(平和学習、博物館展示、映像・演劇・文学)などが組み合わされます。金融セクターへのダイベストメント(核兵器関連企業からの撤資)も、条約発効後に注目度を増しました。

自治体・学校・宗教者・芸術家・メディアが、年中行事やカリキュラム、記念祭、国際会議、アーカイブづくりを通じて参与することで、運動は「イベント」から「文化」へと根づきます。被爆地の平和宣言や慰霊の儀礼は、記憶の政治学を支える重要な装置です。

論点と課題:分立、政治化、抑止、継承

運動の歴史には、いくつかの持続的な論点が横たわります。第一に分立と協調です。理念や政党関係の違いから組織が並立し、時に対立も起きましたが、条約交渉や被爆者支援など具体課題では連携の余地が常に存在します。相互の違いを認めつつ、成果で協働する「ネットワーク型運動」への移行が鍵です。

第二に政治化のリスクです。反核は本質的に政治的課題ですが、党派的動員に偏ると社会の広い層に届きにくくなります。被害の普遍性・人権の言葉・科学的根拠の提示を通じ、与野党・世代・地域を超える共通基盤を育てる工夫が求められます。

第三に核抑止との対話です。安全保障の現実と人道規範の衝突は避けがたく、抑止論の内部にある前提(偶発・誤認・サイバー脆弱性・経済コスト・環境影響)を具体的に可視化し、危険低減措置(即応態勢の引き下げ、先制不使用、発射即応の解消、検証強化)と廃絶のロードマップを段階的に議論することが重要です。運動は「ゼロか百か」ではなく、リスク低減と規範強化の中間段階を設計する力を磨く必要があります。

第四に継承です。被爆から80年に近づき、体験の直接性は不可逆に薄れます。証言のデジタル化、多言語化、VR・ARなどの新技術、医療記録と社会史の統合、地域の記憶(被爆建造物・被災物)の保全、学校教育の更新が急務です。若い世代の参加を増やすには、気候危機・ジェンダー・人権・テック倫理など同時代の関心と横断させる“接続詞”が有効です。

今日的意義:安全と尊厳をつなぐ公共性

原水爆禁止運動の今日的意義は、国家安全保障を市民の安全と尊厳につなぎ直す点にあります。核兵器は一国の防衛論理に還元できない越境的リスク(人体・医療・気候・食料・経済・民主主義)をもたらします。被爆地の経験は、この複合リスクを身体の言葉で説明し、外交・法・経済の政策言語へ変換する翻訳装置として機能してきました。

国際秩序が不安定化し核リスクが高まる局面こそ、被害の可視化・検証可能な軍縮・地域信頼醸成・都市外交・金融規範という複数ルートを束ねる運動の価値が増します。原水爆禁止運動は、過去の記憶を悼む営みであると同時に、未来の危険を具体的に小さくする実務でもあります。被爆者の声、科学者のデータ、法律家の文言、若者の創造—それらが交差する場所に、核なき世界へ向かう現実的な道筋が見えてきます。

小まとめ:街角から国連へ—積み木のように積み上げる

原水爆禁止運動は、街角の署名台から始まり、被爆者の語りと科学・法の知恵を積み木のように積み上げ、国連の条約交渉という高みにまで届いてきました。途中には分立も回り道もありましたが、規範の階段は一段ずつ確かに築かれています。核兵器のない世界は宣言では到達できません。具体的な制度と文化、地域と国際の二つの足で歩む営みです。その歩みに参加する入口は、いつも私たちの足元—学校、職場、自治体、友人との会話—の中にあります。