イギリス議会の起源 – 世界史用語集

「イギリス議会の起源」と言うとき、多くの場合その中核はイングランド王国で形成された議会(Parliament)の系譜を指します。現在のイギリス議会(英国議会)は1707年の連合法でイングランド議会とスコットランド議会が統合して成立し、さらに1801年の連合法でアイルランドを編入しましたが、その制度的な骨格—国王(または君主)・貴族院・庶民院の三者構成、課税への「共同の同意」、請願と立法の手続き—は中世イングランドで形づくられました。本稿では、(1)前史にあたるサクソン時代の会議体とノルマン征服後の王領会、(2)マグナ・カルタから「モンフォール議会」「モードル(模範)議会」に至る代表制の誕生、(3)14世紀の制度化と二院制の成立、(4)イングランド議会から「イギリス議会」への継承という流れで、用語の射程を丁寧に整理します。

結論を先に述べれば、議会は「王の助言機関」が、課税・請願・立法という具体の機能をめぐり全国代表の集会へと拡張され、やがて貴族とコモンズ(庶民)という二つの院に分かれて恒常化したものです。戦争動員と財政の必要、王権と地方社会の利害調整、法の正統性を支える儀礼と文言—これらの要素が重なって、イングランド特有の代表政治がゆっくりと形成されました。

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前史:ウィタンから王領会へ—「王の助言」と共同体の声

アングロ=サクソン時代には、王が司教や大領主を招いて国政の大事を相談する会議体「ウィタナゲモート(賢人会、witan/witenagemot)」がありました。これは法律の制定・王位承認・対外関係の確認などを行う場で、のちの議会と直接連続する制度ではないものの、「王は有力者の助言のもとに統治する」という観念の前史とみなせます。ここでは、王令の承認や土地付与の確認に聖職・貴族が署名するという、象徴的な「共同の同意」の儀礼が育っていました。

1066年のノルマン征服後、王権は封建的軍役と王領収入を基盤に強化され、王の周囲には常設の「王領会(Curia Regis)」が置かれます。王領会は、王の評議・司法・財政(大蔵院)を担う中枢で、のちの王璽尚書院や各法廷の母体となりました。重要な国事、とくに臨時課税の同意や遠征準備のためには、王は大諸侯・高位聖職者を幅広く招集する「大評議(Great Council)」を開きます。これは単なる親族会議ではなく、王国共同体(the community of the realm)の意思を背負った承認装置として機能し始めました。

12世紀後半から13世紀初頭にかけて、アンジュー系プランタジネット朝の王たちは、仏領土の保持や対スコットランド戦、行政・司法の整備に莫大な資金を要しました。ヘンリ2世は巡回裁判や財政の合理化を進め、ジョン王の治世では戦費が膨張し、王は臨時課税や封建義務の拡張を試みます。これに対して反発したのが、1215年のマグナ・カルタです。

代表制の出発点:マグナ・カルタからモンフォール議会、モードル議会へ

マグナ・カルタ(1215年)は、王の恣意的課税・拘禁の抑制、慣習に基づく統治、都市と商人の自由の確認などを掲げます。ここで重要なのは、「王が全国的な臨時課税(スカテージ、エイドなど)を課すには王国の共通の助言(commune consilium)を要する」と定めた点です。これにより、課税と同意をつなぐ糸口が法文に刻まれました。もっとも、直後に内戦が続き、マグナ・カルタは改訂・再確認を経ますが、「共同体の同意」の原理は生き残ります。

13世紀半ば、ヘンリ3世の財政・外交に不満を募らせた諸侯は、1258年にオックスフォード条項で王政の監督機関を設置し、統治の合議化を迫りました。内戦のなかで頭角を現したのがシモン・ド・モンフォールです。彼は1265年、ロンドンで大評議を開き、伯爵・司教・修道院長に加え、各州(シャイア)から2名の騎士、主要都市(ボロウ)から2名の市民を召集しました。これが「モンフォール議会」で、州騎士と都市市民の「代表」を王国の会議に参加させた点で画期的でした。王はのちに巻き返し、モンフォールは戦死しますが、「代表を呼ぶ」という政治技法は忘れられませんでした。

エドワード1世は、ウェールズ征服や対フランス戦を進めるにあたり、より広い同意を必要としました。1295年、彼は司教・貴族(barones)に加え、各州からの騎士2名、各主要都市からの市民2名を召集する大規模な集会を開きます。これが通称「モードル(模範)議会(Model Parliament)」で、異なる身分・地域からの代表を一堂に会す原型を確立します。1297年の「諸自由の再確認(Confirmatio Cartarum)」は、課税に関して「全国の共同体の同意」原則を再度強め、無断徴税への抗議(マルトルト騒動など)を背景に、王の財政運営に歯止めをかけました。

この時期、議会の主要機能は三つに整理されます。第一に課税同意で、戦費や臨時収入のための関税・物品税・特別課税に王国全体の承認を与えること。第二に請願(petition)で、王の官僚や地元当局の不正・不都合を訴え、救済を求めること。第三に立法で、請願が国王の同意を得て「国王と議会による制定法(statute)」の文言に整えられ、公に公布されることです。ここに、のちの「王と議会(King-in-Parliament)が法を作る」という公式が芽生えます。

14世紀の制度化:二院制、手続、言語、そしてコモンズの自意識

14世紀に入ると、議会はより整った手続を備えるようになります。各州・都市の代表は、国王の「召喚状(writ)」を受けた保安官(sheriff)が選挙を管理して送り出し、会期中は旅費・日当を地元から支給されます。会場は主にウェストミンスターで、国王の開会演説ののち、貴族や高位聖職者(lords spiritual and temporal)が一団、州騎士と市民代表が一団となって審議しました。やがて両者は別室で討議する慣行が定着し、1341年ごろまでに実体としての「上院(Lords)」と「下院(Commons)」がかたちづくられます。

上院は世襲貴族と高位聖職者で構成され、司法審判や上訴の最終審、国政の大方針に影響力をもつ場として機能しました。下院は「コミュニタス(共同体)の代表」として、課税同意の提出、請願の取りまとめ、政策・官僚統制に関与します。1376年の「良き議会(Good Parliament)」では、下院が王の寵臣を弾劾(impeachment)し、責任追及の手続きを開きました。これは後世の議会統制の重要な技法となります。翌1377年には、下院の議事を取りまとめ国王と交渉する「議長(Speaker)」の役割が明確化し、下院の自律性が高まりました。

言語面では、法廷・行政でラテン語・フランス語が使われていた慣行が次第に英語へと移行し、1362年には「訴訟手続における英語使用法(Statute of Pleading)」が制定されて庶民の理解に近づきました。議会の請願と制定法の文言は、請願—起草—王の同意という段取りの中で洗練され、やがて「国王と諸院の助言を得て」という定型句が定着します。財政面では、関税(羊毛・皮・皮革の古関税・新関税)や後のトン税・ポンド税に対する同意を、議会とりわけ下院が取り仕切る慣行が固まりました。「供与(supply)と救済(redress)」—すなわち、下院が課税の供与を認める代わりに不満(grievances)の是正を求める—という交渉形式は、すでにこの時期に始まっています。

選挙制度も輪郭を得ます。州の代表(knights of the shire)は各州会(county court)での選出、都市代表(burgesses)は自治都市の評議での選出が一般的でした。州の選挙権については15世紀に「四十シリング自由保有(freeholder)」要件が整えられ、近世に入るまで長く続きます。都市側の選出は町ごとに大差があり、人口や富ではなく歴史的特権に依存したため、代表性には著しい偏りも生まれましたが、「納税者の声を召喚する」という原理は確かに根づいていきました。

14世紀末から15世紀にかけても、議会はしばしば召集され、王位継承の承認、王妃・摂政の地位確認、戦費の供給、王室家政の監督などに関与しました。こうした慣行が積み重なったことで、「法は王と議会が共同で定める」「課税は共同の同意を要する」という二つの柱が、制度と観念の両面で固まります。

イングランド議会から「イギリス議会」へ:併合・連合と伝統の継承

16世紀、テューダー朝のもとで宗教改革が進むと、議会は「至上権法」など重要立法の舞台となり、王権の宗教政策に法的正当性を与える装置として頻繁に活用されました。エリザベス1世のもとで「供与と救済」の交渉様式はさらに洗練され、議会は王権を補強しつつも、言論の自由や手続の自律性を意識するようになります。17世紀に入ると、課税・軍事・宗教をめぐって王と議会の摩擦が激化し、やがて内戦と共和政、王政復古、名誉革命を経て「権利章典(1689)」が制定され、常備軍の統制や課税・法停止に関する議会優位が明文化されました。ここで確立された「議会主権」に近い実践は、中世的起源の延長線上にあります。

地理的な拡張としては、ウェールズが1536/1543年の「ウェールズ諸法」で行政・司法制度に組み込まれ、ウェールズ選出の下院議員が送られるようになります。1707年の連合法によってスコットランド議会は解散し、スコットランド選出の貴族・庶民議員がウェストミンスターの両院に参加する体制が整いました。1801年の連合法でアイルランドも同様に統合されます。こうして現在の「イギリス議会」は、イングランド議会の制度と手続を母体として、諸王国の代表を包摂する「連合王国の議会」へと拡張されたのです。

なお、スコットランドやアイルランドにもそれぞれ独自の「三身分会議(エステーツ)」や議会の系譜があり、英語の“Parliament”はそれらを含む広義の語でもあります。しかし、今日のウェストミンスターの構造—二院制、議長職、法案手続、国王の裁可儀礼—は、やはりイングランド中世の経験に強く根ざしています。

用語と史料の注意:呼称、年次、文言、そして「起源」をどう捉えるか

第一に、呼称の注意です。中世の「Parliament」はフランス語の parler(話す)に由来し、「議論の場」を意味しました。英語史料では “Great Council”“Common Council”“High Court of Parliament” など多様な呼び方が現れ、固定化は遅い点に留意が必要です。「イギリス議会」と言う場合、厳密には1707年以降の連合王国の議会を指し、起源を語る文脈では「イングランド議会の起源」と明記すると誤解が減ります。

第二に、年次と節目の押さえ方です。1215年(マグナ・カルタ)、1258年(オックスフォード条項)、1265年(モンフォール議会)、1295年(モードル議会)、1297年(Confirmatio Cartarum)、1341年前後(二院制の定着)、1376/77年(良き議会/議長の確立)を最低限の指標としておくと、流れが見通しやすくなります。

第三に、文言と手続の重みです。中世の政治は「正しい形式」を非常に重視しました。請願が制定法になるときの言い回し、課税同意の表現、王権と諸院の関係を示す定型句は、実質と同じくらい重要でした。起源を学ぶ際は、単なる事件列ではなく、言葉と儀礼の積み重ねが制度を作ったことに目を向けると、理解が深まります。

第四に、「代表」の意味合いです。州騎士や都市市民が議会に参加したといっても、近代的な普通選挙からは遠く、地元の有力者・自治体評議会の合意が選出に強く影響しました。とはいえ、納税と戦争動員が全国規模になった以上、「共同の同意」を形式化する必要があり、これが議会の持続的召集を正当化しました。代表の質と広がりは、近世・近代にかけて長く改められていきます。

以上のように、イギリス議会の起源は、王の評議会が課税と請願の場を兼ねることで代表制へと変化し、二院制という分業構造に落ち着くまでの数世紀にわたる漸進の物語です。戦争と財政、法と言語、儀礼と政治技術が絡み合い、「王と議会がともに統治する」というイングランド独特の均衡がゆっくりと形になっていきました。その延長線上に、連合王国の議会という現在の枠組みが築かれたのです。