穀物法廃止 – 世界史用語集

穀物法廃止(こくもつほうはいし)とは、1846年にイギリス議会が可変関税制(スライディング・スケール)を含む穀物輸入規制の枠組みを撤回し、穀物の輸入自由化へ舵を切った出来事を指します。長年にわたりパンの価格を押し上げてきた保護政策を終わらせたことで、都市の消費者や製造業にとっては生活費の軽減と競争力強化につながりました。他方、農業と地主にとっては保護の盾を失うことを意味し、社会の利害が鋭く対立した政治的決断でもありました。廃止を主導したのは首相ロバート・ピールで、反穀物法同盟の世論運動、古典派経済学の自由貿易論、そしてアイルランドのジャガイモ飢饉という緊急事態が背景にありました。ここでは、なぜ廃止が必要とされたのか、どのように実現したのか、そして何をもたらしたのかを、流れに沿ってわかりやすく整理します。

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背景:保護から自由へ—パンの価格と産業競争力の問題

穀物法は、ナポレオン戦争後の1815年に導入された輸入規制の総称で、国内価格が一定水準を下回ると輸入を禁じる、あるいは高関税を課すことで農業を保護する仕組みでした。1828年には可変関税制へ改められ、国内価格に応じて関税率が上下する弾力的運用が導入されます。しかし、制度が複雑なうえ、港ごとの価格報告や発動のタイミングをめぐって混乱や投機が起き、消費者価格の安定には十分に寄与しませんでした。

19世紀前半のイギリスは、綿工業や鉄鋼などを先頭に工業化が加速し、都市人口が急増していました。労働者の家計に占めるパンの比重は大きく、穀物価格の高止まりは生活を直撃します。製造業者にとっても、食費の高さは賃金水準の上昇圧力となり、輸出市場での価格競争力を削ぐ要因でした。古典派経済学は、輸入自由化によって食料が安くなれば実質賃金が上がる一方、名目賃金は抑制可能で、資本蓄積と投資が活発化するという論理を提示しました。

これに対し、地主や農業利益を代弁する勢力は、自由化がもたらす価格下落によって農地改良の投資回収が難しくなり、農村の雇用や秩序が損なわれると主張しました。こうして、都市と農村、産業資本と地主、下院の新興勢力と上院の伝統貴族という、多重の対立軸が形成されます。穀物法は単なる関税の問題ではなく、近代化の速度と社会的コストの配分をめぐる大問題として、政治と世論の中心に座り続けました。

世論と政治の動員:反穀物法同盟の戦略と議会のせめぎ合い

1838年、マンチェスターの実業家リチャード・コブデンやジョン・ブライトらが反穀物法同盟(Anti–Corn Law League)を結成し、全国規模の運動が始まります。同盟は講演旅行、新聞広告、パンフレット、請願署名、補欠選挙での集中的支援といった当時として先進的なメディア・ロビー戦術を駆使しました。合言葉は「安いパン(cheap bread)」で、自由貿易が生活を楽にし、産業を強くし、国際平和にも資すると訴えました。

この運動は、都市の中産層や職人、労働者の一部から支持を集めますが、労働運動の主潮であるチャーティストは選挙権拡大など政治改革を優先しており、必ずしも同盟と完全に重なったわけではありません。それでも、世論の圧力は議会に確かな影響を与え、ホイッグ党(のちの自由党)や保守党の一部は、関税引下げと税制近代化へ傾斜していきます。

1841年に成立した保守党のロバート・ピール内閣は、当初は慎重でしたが、財政改革や原材料関税の引下げなどを進め、自由貿易路線を拡大します。決定的な転機は1845年のアイルランドのジャガイモ飢饉でした。疫病で主食が壊滅し、飢餓と疫病が広がる中、政府は食料の迅速な調達と流通を求められます。穀物輸入に障壁を残しては命にかかわる—この現実認識が、首相の心を大きく動かしました。

ピールの決断と1846年の法改正:党派分裂の代償を払って

ピールは1845年末に廃止方針を閣内で提起しますが、保守党の多くは断固反対で、内閣は一旦総辞職に追い込まれます。結局、政局の混乱を経てピールは再登板し、1846年、穀物関税の段階的撤廃法案を下院に提出しました。下院ではホイッグ党と反穀物法派の保守党議員(いわゆるピール派)が共同歩調をとり、激しい議論の末に可決します。上院でもウェリントン公の調整と危機意識が働き、最終的に通過しました。法は3年の移行期間を置いて、関税を名目水準まで引き下げる内容で、実質的に自由化を完成させるものでした。

その代償は大きく、ピール内閣は直後に崩壊、保守党は深刻な分裂に見舞われます。党の多数派を率いたディズレーリは、農業を犠牲にした裏切りだと痛烈に批判しました。とはいえ、政策は既成事実となり、以後のイギリスは自由貿易を国是とする長い時代へ入ります。ピールの判断は、短期的な党勢よりも国家全体の利益と緊急対応を優先する「良心的保守」の典型として記憶されるようになりました。

影響と帰結:自由貿易の時代、消費者利益、農業の再編

廃止の直接的効果は、穀物の輸入に道を開き、パン価格の下押し圧力を強めたことです。都市労働者にとって生活費の低下は実質賃金の改善につながり、製造業は賃金コストの相対的安定と原材料の低関税化と相まって国際競争力を高めました。イギリスはその後、航海法の廃止(1849年)や通商条約網の整備とともに、19世紀後半の自由貿易体制を牽引します。ロンドンの金融市場、蒸気船と鉄道の輸送革命、金本位制の広がりが、この体制の実務基盤を支えました。

他方、国内農業は新大陸やロシアなどからの安価な小麦の流入にさらされ、価格下落への耐性が問われます。農家は穀作中心から牧畜・酪農・園芸への転換、排水や肥料などの技術革新、産地ブランド化などで活路を求めました。1870年代の世界的不況期には穀物価格の長期低落が農村を直撃し、地主制度の揺らぎと都市への人口移動が加速します。国家は農業教育・研究の支援、衛生検査や検疫、港湾・鉄道のインフラ整備などを通じて間接的に環境整備を進めました。

国際政治経済の観点では、穀物法廃止はイギリスが「食料と原料を輸入し、工業製品を輸出する」という世界分業の核に位置する布石でした。これは繁栄の基盤となる一方、戦時には補給線の脆弱性を露呈するという矛盾も孕みます。20世紀の大戦や世界恐慌を経ると、各国は再び保護主義やブロック経済に傾斜し、イギリスも帝国特恵(1932年)へ回帰しました。したがって、1846年は自由貿易への「不可逆の革命」というより、国際環境に応じて振れる通商政策の大きな節目と位置づけるのが適切です。

思想史的には、廃止は古典派経済学が政策を動かした代表例として語られます。リカードウらの差額地代論、食料価格と利潤率の関係、比較優位に基づく貿易論が、世論運動と政治判断に理論的支柱を与えました。とはいえ、理論だけで政策は動きませんでした。反穀物法同盟の資金力とメディア戦略、地方の商工層の結束、議会の交渉術、そしてアイルランド飢饉という危機の圧力—これらが重なり合って初めて、長年の既得権を崩す力になったのです。

総じて、穀物法廃止は「パンの値段」「工業の競争力」「農業の持続性」「政党の分裂」「帝国の進路」など、社会の多層を巻き込む決断でした。その後のイギリス社会に残ったのは、自由貿易がもたらした消費者利益と産業の拡張、そして農業再編の痛みと、戦時脆弱性という教訓です。歴史を学ぶうえでは、理念・世論・議会・危機対応が絡み合う過程そのものを丁寧に追うことで、政策転換がいかにして実現するのかを具体的に理解できるようになります。