仇教運動とは、19世紀後半の清末中国を中心に、外国人宣教師やキリスト教会、そしてその保護を受ける中国人信徒(教民)に対して広く展開した反発・排撃の社会運動を指す呼称です。ここでいう「教」は主にキリスト教を意味し、単発の襲撃事件から長期にわたる民衆騒擾、さらには官僚や郷紳が関与する組織的な排外運動までを含みます。背景には、アヘン戦争以後の不平等条約体制の下で宣教師と教会が享受した特権、法廷や治安の現場で生じた「教案」と呼ばれる紛争、文化・宗教観の衝突、経済・土地利害の対立などが重なっていました。要するに〈列強の保護を背に拡大する宣教勢力に対し、地域社会が「理不尽な特権」と感じたものへ抗議・排撃した動き〉の総称が仇教運動です。なお、同時期の朝鮮半島や日本にも反キリスト教・排外の動きは見られますが、中国語史料でいう「仇教運動」はとくに清末の対宣教師・対教会運動を指すのが普通です。
以下では、用語と時代背景、社会的要因と火種、主要事件の流れ(天津教案から義和団へ)、そして余波と歴史的評価の四点を、分かりやすく整理して説明します。
用語と時代背景――「教案」の時代に生まれた反発のことば
「仇教」という語は直訳すれば「教を仇む(にくむ)」という意味で、清末の公文書・地方日記・新聞雑誌・宣教師報告などにしばしば現れます。対象となる「教」は、多くの場合カトリック・プロテスタントのキリスト教です。アヘン戦争後の南京条約(1842)や天津条約・北京条約(1858・60)により、宣教師の中国内地での活動や教会財産の保持、領事裁判権に基づく保護が拡大しました。とりわけ1860年以降、教会は各地で学校・病院・孤児院を設立し、治外法権に近い保護のもとで活動しました。この構図は、治安・裁判・租税・土地利用の領域で在地社会との摩擦を生み、「教会が地元の規範を超越している」という印象を強めました。
この摩擦が公的事件に発展すると、当時の用語で「教案」と呼ばれました。教案には、改宗者をめぐる家族内の争い、教会土地の収用や墓地をめぐる訴訟、孤児院をめぐる流言、僧侶や道士との宗教対立、税・賦役の免除をめぐる誤解など、多彩な類型が含まれます。多くの教案では、地方官が仲裁役となって和解金や責任分担が取り決められましたが、しばしば外国領事が介入し、賠償や謝罪の要求がエスカレートしました。その結果、「教会側は外交力を背景に優位を占める」「中国側は弱い立場に置かれている」という感覚が広がり、反発感情が蓄積しました。仇教運動は、このような「日常的な摩擦の連鎖」が集団的な排撃行動へ転化した局面で顕在化したのです。
他方で、同時代の官僚や知識人の間でも、キリスト教の教義・儀礼・社会事業に対する評価は一枚岩ではありませんでした。医学や教育の導入、慈善事業の効用を認める声と、宗教的・政治的危険を強調する声が併存し、地方社会の実利と国家主権の論理が複雑に交錯しました。つまり、仇教運動は単なる「迷信と野蛮の発露」ではなく、近代的主権や法秩序、公共性のあり方をめぐる価値観の対立という側面も抱えていました。
社会的要因と発火点――特権・裁判・流言・利害の四つの絡み
仇教運動を理解する鍵は、草の根の社会世界にあります。第一に、宣教師と教会が事実上の特権を持ったと受け取られた点です。教会敷地の不可侵、教民の保護、税や賦役の取り扱い、刑事事件での領事関与などが、在地の慣習や身分秩序と衝突しました。教会の保護を頼って訴訟で優位に立とうとする「抱教」行為(改宗を法的盾として利用する)が問題視され、宗派間の改宗競争が地域の分断を深めることもありました。
第二に、裁判と治安の二重構造です。領事裁判権は外国人に適用されるものでしたが、現実には事件処理の各段階で外国領事や宣教師が影響力を行使し、地方官の威信を損ねました。官僚の側にも汚職や責任回避があり、調停が拙速になって不満を残すことが、再燃の火種になりました。
第三に、流言と情報環境です。孤児院での誘拐や臓器抜きといった荒唐無稽な噂、洗礼儀式やミサの誤解、聖像に対する偶像視などが、人口に膾炙しました。新聞や告示、ビラに加え、廟会・市日・茶館での口コミが急速に広がり、緊張が一気に高まることがありました。災害や物価高、疫病の流行時には、外来宗教への猜疑とやり場のない不満が結びつきやすかったのです。
第四に、土地・経済・身分の利害です。教会の土地取得や墓地の設置は、風水観念や共同体の共有地の慣行と衝突しました。教育・医療の近代化は、在来の職能や既存の宗教施設の役割を侵し、郷紳・僧侶・道士・医師らの既得権を揺るがしました。これらの利害の亀裂のうえに、排外を旗印に人々を動員する「説客」や秘密結社が現れ、騒擾の拡大に拍車をかけました。
主要事件の流れ――天津教案から各地の騒擾、そして義和団へ
仇教運動の象徴的出発点としてしばしば挙げられるのが、1870年の天津教案(天津事件)です。フランス系のカトリック孤児院をめぐる流言と住民の不信、地方官の対応の失敗、領事館・教会・修道院の襲撃が連鎖し、複数の宣教師・修道女・中国人信徒が殺害されました。事件はフランス・清間の外交危機へ発展し、関係者の処罰と賠償、地方官の更迭が行われましたが、在地社会には「強国の圧力で一方的に譲歩させられた」という感情が残りました。
1890年代に入ると、安徽・江蘇・福建・広東・四川・湖南などで反教事件が頻発します。1891年の武渓(蕪湖)事件、1895年の四川各地の教案、1896年前後の湖南での大規模な排外運動などは、新聞・教会報告・外交文書に詳細が残り、仇教運動が都市・農村の両方で拡散したことを示しています。これらの事件では、教会・学校・病院の焼き討ち、教民の家屋襲撃、宣教師の避難が繰り返されました。地方官はしばしば「偏袒」と批判され、抑え込みに失敗すると罷免され、逆に強硬に鎮圧すると外国側から非難されるという板挟みの状況に置かれました。
頂点となったのが、1899~1901年の義和団運動(義和団事変)です。義和団は当初、民間武術結社の色彩を持ち、「扶清滅洋(清を扶け洋夷を滅す)」を掲げて教会・教民に攻撃を加え、やがて北京・天津周辺で外国公使館区域を包囲するまでに拡大しました。宮廷内部でも「仇教・攘夷」を支持する強硬派が台頭し、列強との全面衝突に至ります。最終的には八ヵ国連合軍の出兵で鎮圧され、辛丑条約(1901、北京議定書)によって巨額の賠償金と軍隊駐留、刑罰・象徴的屈辱措置が課されました。
この過程で仇教運動は、単なる宗教紛争を超えて、国家主権・外交・軍事の問題へと一気に拡大しました。義和団は民族主義的要素と反近代主義的要素を併せ持ち、国家と民間、排外と改革の相克を凝縮した現象でした。結果として、清朝の威信は大きく損なわれ、近代化と立憲改革(新政)の遅れが痛感されることになります。
余波・比較・評価――共和期の「非基督教運動」、他地域の事例、史料読みの注意
辛丑条約後、教会と宣教師の安全は形式的には強化されますが、地方社会の反発が消えたわけではありません。20世紀初頭の中華民国期には、都市知識人を中心に「非基督教運動(Anti-Christian Movement)」が1920年代に起こります。これは物理的襲撃を伴う仇教運動とは異なり、キリスト教の教義や宣教活動を思想・文化・教育の観点から批判する世論運動でした。五四運動・新文化運動の延長線上で、科学と民主主義を掲げ、宗教的世界観への懐疑と、宣教が帝国主義と結びつく構図への反対が主題でした。ここではキリスト教系学校の国有化・中国人化、寄付金の透明化など現実的要求も提起され、宗教と国家・社会の分界を近代的に整理しようとする動きがみられました。
中国以外でも、反キリスト教・反宣教師の動きは地域社会の利害と結びついて発生しています。朝鮮では19世紀に度重なるカトリック弾圧(辛酉迫害・丙寅迫害など)が起こり、国家・儒教秩序の防衛と外来宗教への警戒が背景にありました。日本でも明治初年に「切支丹禁制」の余波が残り、民間レベルの排斥やキリシタンの潜伏伝統が再発見・再編される過程がありました。もっとも、中国の仇教運動は、条約体制と領事裁判権、宣教師の外交的後ろ盾という特有の構造のもとで生じており、比較の際はこの国際法的コンテクストを外さないことが重要です。
史料の読みには慎重さが求められます。宣教師報告は被害・迫害の実態を詳述する一方で、在地社会の論理や官僚の苦悩を十分に伝えないことがあります。逆に地方の筆記や民間文書は、流言や誇張を含み、教会側の事情を軽視しがちです。外交文書は各国の思惑に彩られ、事件の「国際問題化」を前提に叙述されます。複数の種類の史料を突き合わせ、地図・統計・地方法規・宗教組織の記録を総合して読む姿勢が、仇教運動の実像に近づく近道です。
評価の視角も多元的です。一つは、仇教運動を植民地的特権構造への抵抗として理解する視点です。教会の保護のもとでの不均衡が在地社会に与えた圧迫を重視し、民族主権の未成熟がもたらした歪みを指摘します。もう一つは、宗教的不寛容と暴力の問題として捉え、信教の自由の脆弱さと排外主義の危険を強調する視点です。さらに、国家建設と法秩序の整備の遅れ、地方官の統治能力や腐敗、郷紳と外来勢力の共犯関係など、制度史の観点からの分析も有効です。どの視角を採るにせよ、仇教運動は「伝統vs.近代」の単純図式に還元できない、多層の利害と感情が絡む現象でした。
最後に、仇教運動を学ぶことは、宗教と国家、在地社会とグローバル秩序、主権と人権の接点を歴史的に考える手がかりになります。宣教は宗教的救済の追求であると同時に、教育・医療・慈善・文化交流の回路も提供しました。反発は排外の情念であると同時に、法の正義や生活世界の自律を求める声でもありました。両者が衝突し、時に折衷し、時に悲劇を生む過程に、近代東アジアが直面した難問が凝縮しています。仇教運動という言葉は、その難問を一つの焦点に集めて見せてくれる歴史用語なのです。

