英露協商 – 世界史用語集

英露協商(えいろきょうしょう、Anglo-Russian Convention of 1907)とは、長らくユーラシア内陸とインド洋周辺で競合してきたイギリス帝国とロシア帝国が、1907年に結んだ一連の取り決めの総称です。最大の狙いは、ペルシア(イラン)・アフガニスタン・チベットをめぐる両帝国の軋轢を整理し、相互の勢力圏と行動規範を明文化して衝突の危険を下げることにありました。英はインド帝国の安全保障を、露は中東・中央アジアでの前進とオスマン帝国・極東での後退の穴埋めをそれぞれ意識し、妥協に踏み切りました。これにより、英仏協商(1904)とあわせて三国協商(英・仏・露)の骨格が整い、第一次世界大戦前夜の勢力均衡は二大ブロック(協商対同盟)へと収斂していきます。他方で、協商の内容は現地の主権や改革運動をしばしば圧迫し、イラン立憲革命やアフガニスタンの対外自主を掣肘するなど、植民地・半植民地世界の矛盾を露呈させました。英露協商は、列強間の「衝突管理」の成功と、地域社会への負荷という二面性を帯びた転換点でした。

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成立の背景:グレート・ゲームから妥協へ

19世紀を通じて、英と露は「グレート・ゲーム」と呼ばれる覇権争いを中央アジア・南アジアで繰り広げました。露の南下(コーカサス征服、トルキスタン併合、オアシス都市の制圧)は、インド帝国を掌握する英にとって重大な脅威でした。英はアフガニスタンを緩衝国家として扱い、第一次(1839–42)・第二次(1878–80)のアフガン戦争で外交・軍事的影響力を確立しようとしました。一方、露は黒海・バルカン・ペルシア湾への接近を夢見つつも、クリミア戦争(1853–56)や露土戦争(1877–78)を経て国際的制約に直面します。19世紀末には、露の極東膨張と日露戦争(1904–05)の敗北、内政の動揺(1905年革命)が続き、対英全面対決を避けたい空気が生まれました。

英側にも変化がありました。英仏協商(1904)でフランスとの植民地紛争を整理し、ボーア戦争(1899–1902)の反省から対外的負担の調整が課題となる中、英はインドの安全保障に資源を集中したいと考えました。ロシアとの限界画定は、海軍回廊(スエズ—ペルシャ湾—インド洋)とインド北西辺境の安定のために合理的選択と見なされます。さらに、ドイツ帝国の台頭が英の脅威認識を海上・造艦競争へとシフトさせ、ユーラシア内陸で露と消耗し合う余裕が乏しくなりました。

こうして、英(外相エドワード・グレイ)と露(外相イズヴォリスキー)を中心に交渉が進み、1907年8月31日、ペテルブルクで協定が締結されました。内容は一つの包括条約ではなく、三地域(ペルシア・アフガニスタン・チベット)に関する個別文書の束として構成され、互いの「してよいこと/してはならないこと」を整理する実務志向の協商でした。

内容:ペルシア・アフガニスタン・チベットの三本柱

①ペルシア(イラン)条項では、同国を三つのゾーンに区分しました。すなわち、北部(カスピ海沿岸からテヘランを含む地域)をロシアの「勢力範囲」、南東部(バルーチスタンに接する地域からペルシャ湾北岸の一部)をイギリスの「勢力範囲」、そして両者の中間を「中立地帯」としました。形式上はペルシアの主権を尊重しつつも、鉄道敷設・銀行・関税借款・軍事顧問の採用などの案件で、各勢力圏内では相手国が先占的利益を妨げないことが取り決められました。これは事実上、財政・交通・軍事の主導権を列強が分割管理する仕組みで、近代国家形成の中枢に深く介入するものでした。

②アフガニスタン条項では、アフガニスタンの対外関係について、英国が指導的地位を有することをロシアが承認しました。ロシアはカブール政権と直接外交を行わず、アフガン外交は英印政府(インド総督府)を通じて処理される慣行を認める——換言すれば、アフガニスタンを英の勢力圏とみなす内容でした。その代わり、英はアフガン領土を対露戦略の攻勢拠点にしないことを誓約し、国境(デュランド・ライン等)の管理や武器供給の扱いについて相互に通知することが定められました。

③チベット条項では、チベットの領土保全と清朝宗主権(当時)を尊重し、両国が単独で特権を求めたり、他国に対して排他的権利を獲得しないことを相互に約束しました。これは、1904年の英軍のチベット進入(ヤングハズバンド遠征)の後始末と、露の対チベット関与をめぐる英の疑心暗鬼を収める狙いがありました。チベットに関する通商・代表部設置などは、清廷を通じて処理する建前が再確認され、インドとチベットの通商点(ギャツェやヤトゥン等)での実務が整理されました。

全体として、英露両国は、相手の既得権・安全保障上の懸念を認める代わりに、前向きの拡張を抑制し、情報交換・通告を通じて危機管理を図る「消極的協力」に合意したと言えます。条文は抽象的ですが、金融・鉄道・顧問の派遣といった具体案件に直結し、地方行政と軍政に強い影響を与えました。

影響:三国協商の完成と第一次世界大戦への接続

外交史上、英露協商の最大の意味は、英仏協商(1904)と合わせて三国協商(Triple Entente)の枠組みを完成させた点にあります。これにより、ドイツ・オーストリア=ハンガリー・イタリアの三国同盟と、英仏露の協商という二大ブロックが欧州政治を規定し、バルカン・北海・中東の局地危機が一気に大戦規模へ拡大しやすい構図が作られました。英露協商は軍事同盟ではなく、参戦義務を課すものでもありませんでしたが、参謀間協議や情報連絡は加速度的に密になり、英は海上封鎖とインド・中東防衛、仏は西部戦線、露は東部戦線という役割分担の暗黙の了解が形成されていきました。

また、ペルシア湾—インド洋—紅海の海上線で英の自由度が増し、ロシアは黒海・バルト海の戦略に集中しやすくなりました。英にとっては露の極東撤退(ポーツマス条約後)も相まって、アジアでの対露緊張が低下し、造艦競争の主敵をドイツ海軍に定める政策転換(ドレッドノート建艦競争)を加速できました。逆に言えば、英露協商は、ドイツ側の包囲感を強める一因ともなり、艦隊法や大陸政策強硬化の国内基盤を与えたと解釈されます。

地域社会への影響:イラン立憲革命・辺境統治・宗主権の矛盾

英露協商は、現地社会に複雑な影響を与えました。とりわけイラン立憲革命(1905–11)の局面では、国王権力と議会(マジュレス)をめぐる闘争に、協商の「勢力圏」論理が介入しました。1908年にはテヘランでロシアの支援を受けた宮廷派が議会を砲撃・解散に追い込み、翌年には連合軍(露・英の派兵と見張り)が国内秩序を監督する形が強まりました。銀行借款や関税担保、軍事顧問の配置は、行政改革の財源を供給する一方で、外交の自立性を著しく制限しました。

アフガニスタンでは、アブドゥッラフマーン・ハーン以来の中央集権化が進む中で、英の対外主導が実務規範化し、武器輸入・国境管理・通商条約は英印政府の意向に左右されました。露も非公式の情報網を維持しつつ、協商の枠内で直接介入を控える姿勢をとります。その結果、アフガンは列強間の緩衝として平時の戦火は避けられたものの、対外自主の余地は狭まり、国家形成のテンポは外圧によって管理されました。

チベットでは、清朝の内政干渉と地方実力者の力学、ラサ政権の自律志向、英印政府の通商・国境管理の要請が複雑に絡みました。英露協商は、英・露が直接特権を迫らないという枠を再確認しただけで、チベットと清との関係や内部改革に積極的解を示したわけではありません。結局、清末の新政や辛亥革命、さらに英・チベット・清(のち中華民国)間の交渉(シムラ会議、1913–14)へと課題は持ち越され、協商は「凍結」の装置として働いたに過ぎませんでした。

限界と逆流:第一次大戦・革命・秩序変動

英露協商は、1914年の大戦突入で安全保障の実務連携へと事実上昇格しましたが、1917年の二月革命・十月革命によりロシア帝国が崩壊すると、協商体制は根底から揺らぎます。ボルシェヴィキ政権は、秘密外交の暴露(「秘密条約」の公表)を通じて列強の勢力圏分割の実態を世界に示し、反帝国主義の言説を広めました。イラン・アフガニスタン・チベットを含むユーラシア周縁では、戦後秩序の再編において民族運動・国家形成が進む一方、英の影響力は米国の登場や国内財政負担の増大で相対的に低下していきます。

それでも、英露協商の遺産は長く尾を引きました。勢力圏の思考法、鉄道・通信・金融の支配を通じて主権を実質的に制約する手法、緩衝国家の管理という発想は、戦間期の中東・中央アジア政策に色濃く残りました。地域社会の側でも、外圧をてこにした改革と、それに対する反発の往復運動が政治文化のDNAに刻まれ、のちの国境紛争や内政危機の背景となります。

用語整理と学習のコツ

試験・学習の観点からは、次の要点を押さえると整理が容易です。第一に年次と当事者(1907年、グレイ—イズヴォリスキー)を冒頭に置くこと。第二に三地域の条項(ペルシアの三分割〈露・中立・英〉/アフガニスタンの対英承認/チベットでの相互不干渉と清宗主権尊重)。第三に効果(三国協商の完成、対独包囲の心理効果、英の対露負担軽減と独海軍への注視の転換)。第四に現地影響(イラン立憲革命への圧力、アフガニスタンの対外自主制限、チベット問題の凍結)。第五に限界(参戦義務を伴わない協商、1917年革命での崩壊、秘密外交批判の高まり)です。

また、英仏協商(1904)との比較で、英露協商が「未決の真正面課題」を扱った点(インド防衛に直結するアフガン、湾岸—中央アジアを貫くペルシア、清の宗主権を介したチベット)を強調すると、両協商の性格の違いが浮かび上がります。地図を用いてペルシアのゾーンを粗描し、テヘラン・タブリーズ・エスファハーン・マシュハド、ペルシャ湾北岸の主要港(ホルムズ海峡周辺)と鉄道計画の位置関係を示せると、条文の抽象さが具体化されます。

英露協商は、列強の衝突を「管理」しながら、地域社会に代償を転嫁する近代国際政治の典型例です。外交の技術と倫理、勢力均衡と民族自決のねじれを読み解く入口として、本用語を位置づけると、第一次世界大戦前夜の「不安定な安定」の実相が見えてきます。