「アン女王戦争」とは、18世紀初頭のスペイン継承戦争(1701〜1714)の北米戦区で起きた武力衝突を指す呼称で、1702年から1713年のユトレヒト条約成立までを中心に展開した英仏西と先住民勢力の複合戦争を意味します。イングランド側の史料や北米植民地史では「第二次植民地戦争」とも呼ばれ、ニューイングランド対アカディア・ニューフランス、カロライナ対スペイン領フロリダという二つの大きな軸に、ハドソン湾・ニューファンドランド・先住民同盟(ワバナキ連合、イロコイ連邦、クリークなど)の攻防が絡み合いました。大西洋世界では同時にヨーロッパ本土・地中海・カリブ海で戦役が進み、北米戦区の戦果や損害は、海軍力や財政、通商利権の配分を通じて講和条件に反映しました。
この戦争は、フロンティアの村落や宣教拠点、通商路をめぐる散発的な襲撃から、港湾・要塞を標的とする遠征作戦まで、規模と性格が多様でした。1704年のディアフィールド襲撃、1702年のセント・オーガスティン包囲、1710年のポートロイヤル攻略、1711年のケベック遠征失敗などが代表事例です。講和の結果、フランスはアカディア(ノヴァスコシア、ただしケープブレトン島を除く)・ニューファンドランド・ハドソン湾地域をイングランドに割譲し、イロコイ連邦(ファイブ・ネイションズ)に対するイングランドの宗主権を事実上認めました。他方、フランスはケープブレトン(イル・ロワイヤル)とセント・ジョン島(現プリンスエドワード島)を保持し、後にルイブール要塞の建設で大西洋航路の要を固めます。アン女王戦争は、のちのジョージ王戦争やフレンチ・インディアン戦争へ続く長期の英仏抗争の一段階であり、同時に先住民社会・カトリック宣教圏・アカディア人社会の運命を大きく左右した転回点でした。
用語の範囲と背景—スペイン継承戦争の北米戦区として
アン女王戦争は、1702年にイングランドがフランス・スペインへの宣戦を布告したことを直接の起点とします。ヨーロッパ本土ではスペイン王位の継承をめぐり、フランス・ブルボン家とオーストリア・ハプスブルク家が対峙し、英蘭同盟はフランスの覇権拡大を抑えるため戦争を主導しました。北米では、この欧州戦争が既存の植民地境界と交易網、同盟関係を刺激し、辺境の小競り合いが一気に国際戦争の一部へと拡大します。イングランド植民地はニューイングランド(マサチューセッツ、コネチカット、ロードアイランド、後にニュー・ハンプシャー分離)、中部(ニューヨーク、ニュージャージー、ペンシルヴェニア)、南部(ヴァージニア、カロライナ)に広がり、フランス側はセントローレンス川沿いのカナダ(ケベック・モントリオール)と、アカディア(現ノヴァスコシア)、五大湖周辺の前哨に基盤を置きました。スペインはフロリダ(首都セント・オーガスティン)とメキシコ湾岸に勢力を持ちます。
戦争の背後には、先住民と欧州勢力の複雑な関係があります。イロコイ連邦(モホーク、オナイダ、オノンダガ、カユーガ、セネカ)は17世紀後半の「盟約の鎖(コヴナント・チェーン)」を通じてニューヨーク植民地と関係を築きましたが、同時にフランス宣教(カトリック化したカナワケ・モホーク共同体など)とも結びつき、部族内で対立や移住が起きていました。北東部のワバナキ連合(ミクマク、マリシート、アベナキ等)は、アカディア・ケベックと交易・通婚を重ね、英系開拓地の前進に抵抗します。南東部では、クリークやイアマシー、カトーバ等がカロライナの商人と武器・奴隷貿易で深く結びつき、スペイン宣教網(アパラチー宣教)の脆弱化が進んでいました。このように、アン女王戦争は欧州の王家の争いが、北米の多民族・多共同体の生存戦略と直結する舞台でした。
さらに、海上では私掠(プライヴァティアリング)が重要な手段でした。ニューイングランドやニューヨークの私掠商船は、フランス・スペインの商船を拿捕して戦費を補い、カリブ海や大西洋横断の経路で活発に活動しました。逆にフランスの私掠船もニューイングランド沿岸を脅かし、漁業と交易はたびたび中断します。軍事と商業が密接に結びつく「財政=軍事国家」化の進展は、北米でも明瞭に観察できました。
戦区と展開—ニューイングランド、アカディア、ニューファンドランド、南東部
ニューイングランドとアカディアの戦線では、国境地帯の村落・砦をめぐる攻防が激しく、冬季の奇襲や夜襲が多用されました。1704年2月のディアフィールド襲撃はその典型で、フランス軍とカナワケのモホーク、アベナキなどの先住民部隊がマサチューセッツのフロンティア村落を急襲し、住民の殺害と捕虜の連行が行われました。多くの捕虜がケベックや先住民共同体へ移送され、一部はのちに「養子」として受け入れられ、帰還せずに現地社会に同化する事例も生じました。これは戦争が単なる領土争奪ではなく、家族・宗教・共同体の境界を横断する体験であったことを示しています。
アカディアの中心拠点ポートロイヤル(現アナポリス・ロイヤル)は、1707年にニューイングランド軍の攻囲を受けたものの持ちこたえましたが、1710年の再攻撃で陥落し、英側の軍政が開始されました。以後、この地域は「ノヴァスコシア」と呼ばれ、英軍はフォート・アン(旧ポートロイヤル要塞)を拠点に周辺の統治を進めます。しかし、ミクマクやアカディア人の抵抗は続き、辺境の治安は安定しませんでした。ポートロイヤル攻略は、英側にとって北大西洋の足場を得る重大な戦果であり、北米講和条項の交渉材料としても大きな意味を持ちました。
ニューファンドランドでは、英仏の漁業基地が隣接する構造的対立が顕在化しました。仏側のプレザンスを中心とする勢力は、1705年以降、英系のセントジョンズなどを襲撃し、1708年にはセントジョンズ一帯が一時的に占領・破壊されました。漁業設備と集落は戦争のたびに焼き払われ、住民は季節移動や本土退避を余儀なくされます。ハドソン湾方面でも衝突は続き、要塞と交易拠点(ファクトリー)をめぐる奪回戦が繰り広げられましたが、決定的な戦闘は少なく、講和での包括的調整に委ねられます。
1711年、英側はケベック攻略の大規模遠征を試みました。陸路での進撃と大艦隊によるセントローレンス河口突入の二正面作戦でしたが、濃霧と座礁多発、補給混乱により艦隊は大損害を出して撤退し、陸上部隊も進撃を中止しました。この失敗は、ニューイングランドの期待を打ち砕き、戦費負担と紙幣発行(植民地紙幣)の増加を招きます。他方、フランス側も人的資源と補給の制約に苦しんでおり、カナダ総督ヴォードルイユらは先住民同盟の機動力に依拠して防衛を維持しました。
南東部では、カロライナ植民地がスペイン領フロリダの拠点を圧迫しました。1702年、サウスカロライナ総督ジェームズ・ムーアはセント・オーガスティンを包囲しましたが、石造要塞カスティーヨ・デ・サン・マルコスの堅固さとスペイン艦隊の救援で攻略に失敗しました。1704年以降、カロライナ側はクリークなど同盟部族の支援を得て、アパラチー宣教集落を連続的に襲撃・破壊し、多数の住民を捕縛しました。これにより、スペインの内陸宣教網は壊滅的打撃を受け、フロリダの人口と軍事的存在感は長期にわたり衰退します。これらの襲撃は、南東部における先住民奴隷貿易の拡大とも絡み、地域社会に深刻な傷跡を残しました。
このほか、カリブ海では英仏西の艦隊と私掠船が抗争し、セント・キッツ島の支配や通商路の掌握を巡る戦いが続きました。北米戦区に直結する物流・補給はカリブ海の安定に依存しており、砂糖貿易と海軍力の連動は、講和の席での利権配分に影響を及ぼします。
講和と条約—ユトレヒト条約の北米条項
1713年のユトレヒト条約は、北米の地図を塗り替えました。フランスはアカディア(ノヴァスコシア)をイングランドに割譲し、これにより英側は北西大西洋の港湾と漁場に安定した足場を得ました。ただし、条約文上はアカディアの範囲が曖昧で、のちに現ニュー・ブランズウィックやメイン北東部に及ぶ境界をめぐって長期の争いが続きます。フランスはケープブレトン島(イル・ロワイヤル)とセント・ジョン島(現プリンスエドワード島)の保持を認められ、ここに大規模軍港ルイブール要塞を建設する前提が整いました。ルイブールは以後、北大西洋航路と漁場の要衝として英領ニューイングランドを圧迫し、次の戦争での重要目標となります。
ニューファンドランドでは、島全体の主権がイングランドに帰属し、フランスは特定海岸線(いわゆる「フレンチ・ショア」)での季節的漁業権を保持する形に整理されました。ハドソン湾地域(ルパートランド)については、拠点をイングランドに返還する取り決めがなされ、ハドソン湾会社の交易体制が回復します。さらに、条約はイロコイ連邦をイングランドの保護下にある主体として扱うことを暗黙に前提とし、フランスはその点での異議申し立てを抑えました。これは五大湖・オハイオ流域の勢力均衡に長期的影響を与え、のちの英仏対立の舞台設定に関わります。
宗教・住民処遇では、ノヴァスコシアのカトリック住民(アカディア人)に対し、信仰の自由と一定期間内の移住選択の権利が認められました。もっとも、英行政とアカディア人との忠誠宣誓をめぐる葛藤は解消せず、半世紀後の「大追放(ル・グラン・デランジュマン、1755)」への遠因となります。条約はまた、北米以外の地域—ジブラルタルやミノルカの獲得、アシエント(黒人奴隷貿易契約)—に関する英側の利得を確定し、海軍・通商国家としての地位を一段と高めました。北米の戦果は、こうした世界規模の取引の中で評価され、配分されていきます。
影響と連続—先住民社会、植民地国家形成、次の戦争へ
アン女王戦争は、北米の先住民社会に深い影響を残しました。ワバナキ連合は、アカディア・ケベックとの同盟によって英系開拓の圧力を一時的に押し返しましたが、講和後の英軍駐屯と砦建設、プロテスタント宣教の拡張によって、交易条件と居住空間の再編を余儀なくされます。イロコイ連邦は、英仏のはざまで中立と均衡を模索しましたが、条約における英の宗主権主張は、連邦の外交自立性を細らせる潜在的火種となりました。南東部では、スペイン宣教網の崩壊とカロライナ経済の台頭が、先住民奴隷貿易と銃器拡散を促し、1715年のヤマシー戦争をはじめとする地域内戦争の土壌を育てます。アン女王戦争の暴力は、単に英仏間の問題ではなく、各先住民共同体の人口移動・同盟再編・宗教転換と密接に結びつく「社会の地震」でした。
英系植民地社会では、遠征・防衛のための臨時税と紙幣発行、私掠活動の活況、民兵と「プロヴィンシャル・トループ」の組織化が進みました。マサチューセッツなどは軍費調達のために紙幣(ビル・オブ・クレジット)を発行し、のちの通貨不安と議会—王室の財政関係の摩擦を先取りします。軍事経験を持つ植民者や商人層は、帝国防衛に主体的に関与する意識を高め、戦争協力と権利主張をセットで語る政治文化を育てました。これがのちのジョージ王戦争(1744〜1748)やフレンチ・インディアン戦争(1754〜1763)での動員、さらには18世紀後半の政治運動の素地の一部となります。
フランス側では、ケープブレトンにおけるルイブール要塞の建設(1720年代以降)が、ユトレヒト体制下での海上戦略の要となりました。ルイブールは北大西洋の漁業・海運を監視する「扉」となり、ニューイングランドの商業と海軍にとって恒常的脅威でした。アカディア人は英領化後もフランス文化とカトリック信仰を保持し、忠誠宣誓の条件や土地所有をめぐって英当局と交渉を続けました。両大国の板挟みとなった彼らの選択は、のちの追放とディアスポラ(アカディ、カジャン文化)に連なります。
都市と港湾の発展にも変化が生じました。ボストン、ニューヨーク、フィラデルフィアは戦時物資・私掠戦利品の集散地として繁栄し、商人層は海上保険・信用・為替といった金融技術を洗練させます。ニューイングランドの造船業は軍需に支えられて拡大し、熟練労働と木材供給のネットワークが広がりました。宗教・教育面では、宣教師団体が戦時救援と布教を兼ねて活動し、先住民や捕虜に対する説教と通訳の実践が記録されています。戦争は文化の境界を否応なく横断させ、人々は多言語・多宗教の接触を日常的に経験しました。
この戦争は、英仏両帝国の「国家化」を北米にもたらしました。検疫・通関・港湾統制、砦と道路の整備、郵便と情報の流通は、戦時動員の名目で効率化され、講和後も恒常的な行政装置として残ります。これに対し、植民地議会は歳入・歳出の権能を主張し、王室代理(総督)との権限争いが目立つようになります。帝国の中央—周辺関係は、利益配分と義務のめぐって調整を迫られ、のちの帝国改革(1760年代)で表面化する矛盾が静かに蓄積しました。
総じて、アン女王戦争は、北米の戦場で進んだ「小さな戦い」の連続が、世界規模の講和体制の設計に接続することを示した事例でした。村落の夜襲、宣教所の焼失、港湾の包囲、捕虜交換と人質交渉、私掠と保険、税と紙幣—これら一見ばらばらの現象は、海軍力・財政・外交・同盟という大きな回路の中で意味づけられました。戦争の終結は平和の到来を必ずしも意味せず、国境線に沿って小規模な衝突は続き、英仏の覇権争いは新たな局面へ移ります。アン女王戦争を理解することは、北米における国家形成・帝国競合・先住民社会の変容を連続的プロセスとして捉えるうえで欠かせない視座を与えてくれます。

