アリー(アリー・イブン=アビー=ターリブ, ʿAlī b. Abī Ṭālib, 600頃–661)は、イスラーム初期史における中心人物の一人であり、スンナ派の理解では第4代正統カリフ、シーア派の理解では初代イマームとして特別の地位を占める人物です。彼は預言者ムハンマドの従兄であり娘ファーティマの夫で、預言者家(アフル・アル=バイト)の柱として早期から共同体に奉仕しました。バドルやウフド、ハイバルの戦いにおける勇名、法判断・書記・使節としての手腕、そして敬虔と簡素を旨とする統治理念で知られます。661年、クーファの大モスクで礼拝中に暗殺され、その死はイスラーム共同体の分断を決定づける転機となりました。
カリフとしてのアリーは、行政・財政の再均衡をめざし、首都をメディナからイラクのクーファへ移して戦略上の中心を再配置しました。彼の治世(656–661)は、第三代カリフ・ウスマーン暗殺後の混乱を背景に始まり、対立の調停に失敗したことから第一次内乱(フィトナ)へと雪崩を打ちました。656年の「らくだの戦い(ジャマル)」、657年の「シッフィーンの戦い」と仲裁(タフキーム)、そして658年の「ナフラワーンの戦い」という三局面は、権力正統と法・共同体統合をめぐる基本問題を露わにしました。アリーは最後まで〈正義〉と〈共同体の統一〉の折り合いを模索しましたが、最終的に過激派(ハワーリジュ派)の矛先をも向けられることになりました。
出自と台頭:預言者家の中核として
アリーはメッカのクライシュ族ハーシム家に生まれ、幼少からムハンマドの庇護を受けました。イスラームへの改宗は最初期に属し、迫害期のムスリム共同体の一員として堅固な信仰を示しました。ヒジュラ(622年)の折、ムハンマドがメディナへ移住する夜に彼の寝所に身代わりとして残った逸話は、忠節と勇気の象徴として伝えられます。メディナ時代にはバドル(624)、ウフド(625)、ハンダク(627)、ハイバル(628)など主要戦役に参戦し、騎士としての勇猛と指揮能力を示しました。
家族関係では、ムハンマドの娘ファーティマと結婚し、ハサンとフサインをもうけ、彼らはのちにシーア派の第2・第3代イマームとして崇敬されます。アリーは法判断(カダー)にも秀で、預言者から「彼は法問題において最もよく裁く者」と評されたと伝承されます。彼の敬虔・簡素・公正は、後代のフトゥワ(騎士道)やスーフィー諸教団の倫理規範にも結びつき、精神的規範の源泉となりました。
預言者没後(632)における後継問題では、共同体の合意によりアブー・バクルがカリフとなり、続いてウマル、ウスマーンへと継承されました。この過程に対する位置づけは、スンナ派とシーア派で解釈が分かれます。シーア派は預言者がアリーを指名したと解するハディース(グハディール・フムの出来事:〈私を主人とする者は、アリーもまたその主人である〉と伝承される句)を重視し、アリーの指導権を原初的に認めます。他方スンナ派は、四正統カリフの合意による継承を重視し、アリーをその最後の完成者として評価します。
カリフ就任と統治理念:再均衡、人事刷新、クーファ移転
第三代カリフのウスマーンが656年に暗殺されると、メディナの有力者と各地の兵士・反乱勢力の圧力の下で、アリーはカリフ就任を受け入れました。彼は公庫(バイトゥルマール)の配分において「人は皆アッラーの前に平等である」として、出自や早期回心の貢献度に基づく差等配分を改め、均等支給へと回帰させる方針を採りました。また、各地に広がったウスマーン時代の知己・親族による知事任命を置き換え、公正を重視する人事刷新を断行しました。この改革は理念としては公平を旨としましたが、既得権益を持つ勢力の反発を招き、政情不安を助長する結果ともなりました。
戦略上の理由から、アリーは首都をメディナからイラクのクーファへ移します。クーファはイラン方面・シリア方面への軍事行動の中継点であり、兵站と人的資源の点で優位でした。他方で、イラクの部族色の濃い政治文化は、中央の統制に挑戦する柔軟性と不安定性を併せ持ち、アリーの統治を難しくする一因ともなりました。
第一次内乱:ジャマル、シッフィーン、ナフラワーン
第一段階(ジャマルの戦い:656年)——アリーのカリフ就任直後、預言者の妻アーイシャと、元功臣タルハ・ズバイルがウスマーンの復讐と秩序回復を掲げてバスラに拠り、アリー軍と衝突しました。戦いは短期に終結し、アリーが勝利しましたが、共同体内部で血が流れた事実は、宗教的な痛手となりました。アーイシャは故郷に帰還させられ、タルハとズバイルは戦死しました。
第二段階(シッフィーンの戦いと仲裁:657年)——シリア総督ムアーウィヤ(ウマイヤ家)は、ウスマーンの復讐と安定の名のもとにアリーに従属を拒み、ユーフラテス中流のシッフィーン(現ラッカ付近)で両軍は対峙しました。激戦の末に決着がつかず、ムアーウィヤ側がコーランの頁を槍に掲げて仲裁を提案すると、アリー軍内部で仲裁受諾を求める声が強まり、アリーはやむなく応じました。仲裁(タフキーム)は人選・手続き・文言をめぐって混乱を招き、〈裁きはアッラーのみにある〉とする一部の強硬派がアリーから離反します。
第三段階(ナフラワーンの戦い:658年)——離反者はのちに「ハワーリジュ派(ハーリジー)」と呼ばれ、イラクのナフラワーンでアリー軍と交戦し、壊滅的打撃を受けました。彼らは徹底した敬虔と厳格な法解釈に基づき、〈大罪人は共同体から出る〉と考える傾向が強く、アリーをも糾弾の対象としました。ナフラワーンの勝利は一時的な安定をもたらしましたが、アリー軍は疲弊し、シリア方面への主導権回復は果たせませんでした。
暗殺・継承と評価:ハサンの譲位、イマーム像、法と精神の遺産
661年、ラマダーン月の夜明け前礼拝の最中、クーファの大モスクでアリーはハワーリジュ派の一人イブン・ムルジャムに毒刃で襲われ、数日後に没しました。彼はナジャフ(イラク)に葬られ、廟は長く巡礼の中心となっています。アリーの死後、長子のハサンが共同体の名目上の長となりましたが、内戦の長期化を避けるため、最終的にシリアのムアーウィヤと和睦し、統治権を譲り渡しました。ここにウマイヤ朝が成立し、カリフ位は世襲化へ向かいます。
シーア派において、アリーは預言者の後継として神意に選ばれた初代イマームと位置づけられ、その知恵と勇気、公正が信仰の規範となりました。十二イマーム派は、アリー—ハサン—フサイン—以下の系譜を霊的指導者の連続とみなし、〈ウィラーヤ(聖なる導きへの忠誠)〉を核心教義とします。スンナ派においても、アリーは四正統カリフの一人、知恵と勇気の模範として尊敬され、法学・神学における議論の源泉を提供しました。多くのスーフィー教団は入門伝法の系譜(サルスィラ)をアリーへ遡らせ、彼を「聖なる騎士道(フトゥワ)」の原像とみなします。
文献面では、『ナフジュル・バラーガ(雄弁の道)』として知られる説教・書簡・箴言集が中核資料とされ、弁舌の美と倫理・統治・神学に関する洞察が後世に大きな影響を与えました(編纂自体は後世に行われ、真偽・配列には学問的議論が存在します)。法学では、彼の判決例や原理(公庫の平等配分、証拠と証言の扱い、被支配者の権利など)が多くの学派で参照されました。都市クーファを中心とする学派(イラク法学)は、アリーや彼の門弟の討議を重要な遺産として継承します。
評価をめぐる論点として、アリーの政治的選択(仲裁受諾・人事刷新・首都移転)が短期的に軍事的優位を失わせたのではないかという批判があり、一方で、彼が示した公正と簡素の理念、合議と忠誠の調停努力を高く評価する見解もあります。歴史研究は、アリーの時代を「共同体の規範(スンナ)を探る痛切な試行錯誤」と捉え、その緊張がスンナ派・シーア派・ハワーリジュ派の三大潮流の思想的骨格を形づくったと指摘します。
学習の要点として、①家族関係と若年期の功績、②ウスマーン暗殺後の就位と改革理念、③第一次内乱の三局面(ジャマル・シッフィーン・ナフラワーン)と内容、④暗殺・ハサンの和睦・ウマイヤ朝成立、⑤シーア派初代イマーム/スンナ派四正統カリフとしての二重評価、⑥『ナフジュル・バラーガ』・スーフィズム・法学への遺産、を押さえると、アリーの歴史的意義を過不足なく説明できます。彼の生涯は、正義・統一・忠誠という相剋の中で、共同体の規範を現実政治に落とし込む困難に満ちていました。この緊張は、現代に至るまでイスラーム世界の思想と感情の深層を規定し続けています。

