人民戦線内閣(チリ) – 世界史用語集

人民戦線内閣(じんみんせんせんないかく)とは、1938年に南米チリで成立した、急進党・社会党・共産党など左派・中道諸勢力の連立政権を指します。大統領には急進党のペドロ=アギーレ=セルダが就任し、「統治するために教育する(Gobernar es educar)」というスローガンを掲げて、労働者・農民・中間層の生活改善や産業政策、教育文化の振興などを進めました。世界史では、1930年代の世界的なファシズムの台頭に対抗して形成された人民戦線政府の一例として、フランスやスペインと並んでチリの人民戦線内閣が登場します。

チリ人民戦線内閣は、ヨーロッパの人民戦線と同様、反ファシズム・反保守独裁を掲げつつ、社会改革と民主主義の防衛を目指した政権でしたが、ラテンアメリカという地域的条件や、銅輸出に依存するモノカルチャー経済という構造のもと、独自の課題にも直面しました。短命に終わったフランス・スペインの人民戦線政権と比べると、チリの人民戦線は約3年にわたり継続し、次の政権にも一定程度その路線が引き継がれた点で特徴があります。

この記事では、まずチリに人民戦線内閣が登場した背景として、世界恐慌と1930年代の政治危機を整理し、そのうえでアギーレ=セルダ政権の成立と政策の内容、さらにはチリ政治史のなかでの意義と限界を説明していきます。人民戦線内閣(チリ)という用語に出会ったときに、「単に左派連立政権」というだけでなく、「世界的な反ファシズムの潮流とラテンアメリカの社会構造が交差した一つの政治実験」としてイメージできるようになることを目指します。

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背景:世界恐慌とチリ政治の動揺

チリの人民戦線内閣が生まれる背景には、1920〜30年代の政治的変動と世界恐慌の衝撃があります。19世紀末以降のチリは、硝石や銅など鉱産物の輸出に大きく依存した「一次産品輸出国」として、国際市場の動きに左右される経済構造を持っていました。第一次世界大戦後、人工窒素の普及などで硝石需要が落ち込むと、国家財政と雇用は大きな打撃を受けます。

1920年代には、中間層や労働者の支持を背景にアルトゥーロ=アレサンドリが大統領となり、労働法制の整備や社会政策を試みましたが、保守派や軍部との対立も激しく、政局は不安定でした。その後、軍部によるクーデタや軍事政権、短命な文民政権が交代し、政治の枠組みそのものが揺らぎます。こうした中で、労働運動や共産党・社会党など左派勢力も、都市の労働者や一部の中産階級の間で一定の支持を得るようになりました。

決定的だったのは、1929年の世界恐慌です。銅価格の暴落と輸出の急減によって、チリ経済は大打撃を受け、失業と貧困が急速に拡大しました。税収の落ち込みは国家財政を圧迫し、社会政策は後退を余儀なくされます。こうした経済危機は、従来の保守・自由主義的な経済運営の限界を露呈させ、「国家がもっと積極的に経済と社会を調整すべきだ」という声を高めました。

一方、国際的には、1930年代にドイツやイタリアなどでファシズムが台頭し、スペイン内戦ではフランコ軍と人民戦線政府の戦いが繰り広げられていました。第二インターナショナルやコミンテルン(第三インターナショナル)の路線転換のもと、社会民主主義勢力と共産主義勢力が「反ファシズム・反独裁」を合言葉に連帯し、人民戦線を形成する動きが広がります。チリの左派勢力も、この国際的な潮流に刺激を受けていました。

チリ国内では、右翼民兵組織や保守派の強権的な動きに対抗して、急進党(中道左派の自由主義政党)、社会党、共産党などが徐々に協力を深めていきます。彼らは、「自由主義的民主政の枠内で社会改革を進めつつ、ファシズムの浸透と保守派の反動を防ぐ」という共通目標を掲げ、選挙を通じた政権奪取を模索しました。この流れの中で、人民戦線(フレンテ・ポプラル)が結成されていくのです。

人民戦線の結成とアギーレ=セルダ内閣の成立

1930年代半ば、チリでは保守派・右翼勢力と左派・中道勢力の対立が鮮明になっていきました。1932年に共和制が復活し、その後、右派政権が成立しますが、経済危機と社会不安は根本的には解決されませんでした。こうした状況の中で、急進党を中心とする中道左派と、社会党・共産党などの左派が連携して、選挙での協力体制を固めていきます。

1936年には、急進党、社会党、共産党、労働組合組織、左派系の市民団体などが参加して「人民戦線(フレンテ・ポプラル)」が正式に結成されました。彼らは共通綱領として、①ファシズム的勢力や右翼民兵組織への反対、②労働者と農民の生活改善、③国家による経済の合理的な管理・産業化政策、④教育と文化の拡充、⑤民主主義・憲法秩序の擁護、などを掲げました。

1938年の大統領選挙では、人民戦線は急進党のペドロ=アギーレ=セルダを候補として擁立します。一方、保守・右派勢力も候補を擁立し、選挙戦は激しく争われました。その最中、右翼民兵組織が起こしたクーデタ未遂や若者の蜂起が政府によって武力弾圧され、多数の犠牲者が出る事件が発生します。この事件は、保守政権の強権性と社会の緊張を象徴する出来事として、多くの人びとに衝撃を与えました。

結果として、1938年の選挙でアギーレ=セルダは僅差ながら勝利し、人民戦線内閣が誕生します。これは、ラテンアメリカにおいて初めて、社会党や共産党を含む左派・中道の広範な連立による政権交代が選挙を通じて実現した事例でした。アギーレ=セルダは、「統治するために教育する」というモットーを掲げ、教育・文化政策と社会改革を軸にした内政を進めることになります。

人民戦線内閣は、急進党が最大勢力として主導しつつも、社会党・共産党および労働組合の要求にも一定の配慮を行う必要がありました。そのため、政策決定はしばしば調整を要し、穏健な社会改革と急進的な要求との間でバランスを取ることが課題となりました。

人民戦線内閣の政策とその影響

アギーレ=セルダ率いる人民戦線内閣は、経済・社会・教育文化など多方面にわたって改革を試みました。まず、経済政策の面では、世界恐慌後のモノカルチャー依存を見直し、国家が主導する形での工業化・産業多角化を目指しました。具体的には、国営企業の強化やインフラ整備を通じて、国内市場向けの工業生産を育成し、輸入代替工業化の方向へ舵を切りました。

チリ経済にとって重要な銅産業についても、外国資本への依存度を徐々に引き下げ、国家の統制力を高める政策が進められました。ただし、この時点で全面的な国有化が実現したわけではなく、外資との協調を図りながら、租税や労働条件の面で国家の関与を強める段階にとどまりました。この路線は、のちのアジェンデ政権による銅産業国有化へとつながる長期的な流れの一部と見なすことができます。

社会政策の面では、労働法制の整備と社会保障の拡充が進められました。労働時間や最低賃金に関する規制が強化され、労働組合の法的地位も一定の範囲で認められました。また、都市の貧困層向けの住宅政策や、公衆衛生・医療サービスの改善なども図られました。これらは、急速な都市化と工業化のなかで生じていた社会問題を緩和しようとする試みでした。

教育・文化政策は、アギーレ=セルダ政権の象徴的な領域でした。彼は元々、教育行政や文化政策に関わった経験を持ち、「教育なくして民主主義なし」という信念を持っていました。人民戦線内閣のもとで、小学校の設置拡大や教員養成、識字教育の推進、図書館や文化施設の整備などが進められ、農村や貧困層に対する教育機会の拡大が図られました。

また、大学や研究機関への支援も行われ、知識人や芸術家の活動に対する一定の保護がなされました。これにより、チリ文化の発展に寄与するとともに、政権への支持基盤としての「教育された中間層」を育成する意図もありました。アギーレ=セルダが残した「統治するとは教育することだ」という言葉は、こうした政策の方向性を象徴しています。

一方で、農村部に対する土地改革は、人民戦線内閣の時点では大きくは進みませんでした。農民層の生活改善は重要な課題でしたが、大土地所有制に切り込むには、保守派のみならず中道層の抵抗も予想され、政権基盤を揺るがしかねない問題だったからです。結果として、労働者や都市中間層に比べ、農民への直接的な恩恵は限定的となり、この点は後のチリ政治における課題として残されました。

人民戦線内閣の限界と歴史的意義

チリの人民戦線内閣は、その理念と実践の間にギャップを抱えながらも、1930年代後半のチリ社会に重要な変化をもたらしました。しかし同時に、その限界や矛盾もまた明らかとなりました。

まず、連立政権という性格上、急進党・社会党・共産党などのあいだで政策方針に違いがありました。労働運動の急進化を望む勢力と、議会制民主主義と穏健な改革を重視する勢力とのあいだで緊張が生じ、政権はしばしば妥協を強いられました。共産党は当初、人民戦線路線に積極的でしたが、国際情勢やソ連の方針の変化に影響を受け、他党との関係にも揺らぎが生まれました。

また、経済構造の制約も大きな問題でした。世界市場における銅価格の変動や、外国資本との関係は、チリ政府の政策余地を制限しました。国家主導の工業化や社会政策には財源が必要であり、財政赤字やインフレへの懸念が強まると、改革のペースを抑えざるをえなくなります。結果として、労働者や左派勢力から「改革が不十分だ」という不満が出る一方、保守派や資本家からは「国家介入が行き過ぎだ」という批判が高まるという板挟み状態に陥りました。

さらに、国際情勢も人民戦線内閣に影を落としました。第二次世界大戦が勃発すると、チリの外交・経済関係も揺れ動きます。チリは当初中立を保ちつつも、アメリカとの関係や対独関係など微妙なバランスを取らざるをえませんでした。このような外圧の中で、人民戦線内閣の自由な政策運営はさらに制約されました。

1941年にアギーレ=セルダが病死すると、人民戦線の枠組みは次第に崩れ、チリ政治は新たな局面へと移行します。とはいえ、彼の後継として同じ急進党のフアン=アントニオ=リオスが大統領となり、一定の社会改革路線が継続した点からも、人民戦線内閣がチリ政治に残した足跡は無視できません。

歴史的に見て、チリの人民戦線内閣は、ラテンアメリカにおける「選挙を通じた左派・中道連立政権」の先駆的事例として評価されています。後のアジェンデ政権(人民連合)にも通じる、「議会制民主主義を維持しながら、社会改革と経済構造の見直しを進めようとする試み」の原型の一つとみなすことができます。また、教育・文化政策を重視した点は、チリ社会の長期的な変化に影響を与えました。

一方で、人民戦線内閣の経験は、左派連立政権が直面する難しさ――内部のイデオロギー差、経済構造の制約、国内外の保守勢力とのせめぎ合い――を示す例としても重要です。フランスやスペインの人民戦線と比べると、チリの人民戦線は内戦や軍事クーデタによる即時の崩壊は避けたものの、長期的には漸進的な変化と妥協の積み重ねの中で徐々に影響力を薄めていきました。

世界史の学習で「人民戦線内閣(チリ)」という用語に出会ったときには、①1938年に成立したアギーレ=セルダ大統領の左派・中道連立政権であること、②世界恐慌と反ファシズムの国際的潮流のなかで、社会改革と民主主義防衛を目指したこと、③教育・社会政策・工業化などに一定の成果を上げつつ、内部矛盾と経済・国際環境の制約から限界も抱えたこと、という三点を意識しておくとよいです。そこから、ラテンアメリカにおける民主主義と社会改革の歴史的模索を、より立体的に理解することができるでしょう。