国立作業場 – 世界史用語集

国立作業場(こくりつさぎょうじょう、Ateliers nationaux)は、1848年二月革命直後のフランス第二共和政で、失業者救済と労働の権利の実験としてパリを中心に設けられた公的就労制度です。革命の熱気の中で掲げられた「労働は権利であり、社会はその実現を保証するべきだ」という理念を、実務として形にしようとした試みでした。道路整備や掘削などの土木作業に失業者を配分し、日当を支給する仕組みでしたが、財源・運営・政治対立の難しさから数か月で破綻し、1848年6月に閉鎖を決定したことがきっかけで六月蜂起(六月暴動)が発生しました。短命に終わったとはいえ、国立作業場は近代ヨーロッパにおける社会政策の出発点を示す重要な事例であり、国家が失業と貧困にどう向き合うかという問いを鮮烈に提起した制度でした。

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成立の背景:二月革命、社会共和国の約束、臨時政府のジレンマ

1848年2月、七月王政が倒れて臨時政府が誕生すると、共和派と社会主義的潮流(労働者・職人・思想家)が結びつき、「労働の権利(droit au travail)」の承認が声高に求められました。ルイ・ブランは臨時政府の一員として国立作業場構想を訴え、国家が生産を組織し、失業者に尊厳ある仕事を提供する「社会共和国」の理念を掲げました。一方で、臨時政府には財政の制約と政治内の多様な立場(温和な共和派、保守的農民の利害を代弁する勢力、急進派など)が共存し、理念と現実の折り合いを急いでつけなければならないジレンマがありました。

二月革命は市民・労働者・学生が街頭を埋めた動員の結果で、パリには大量の臨時失業者が生まれていました。経済状況は好転しておらず、冬から春にかけての季節要因と政治の混乱が重なり、貧困は深刻化します。治安維持と秩序の確保という観点からも、失業者を組織化し日当を与えることは急務と考えられました。こうして、理想と危機対応が結びつく形で、国立作業場は急造されます。

制度の仕組みと運営の実態:登録、配分、日当、そしてひずみ

制度はシンプルに見えました。失業者は委員会に登録し、作業班に配属され、道路・堤防・運河掘削・公園整備などの公共事業に従事して日当を受け取ります。労働の場を仲介する事務局はパリ市内に設置され、労働者を班ごとに集合・点呼し、郊外を含む作業現場へ移送しました。日当は当初一定額で支払われ、職能や熟練度の差は十分に反映されませんでした。

ところが、運用に入ると複数のひずみが露呈します。第一に、需要と供給の不一致です。登録者が急増する一方、短期間で用意できる公共工事には限度があり、待機者が大量に発生しました。点呼だけで半日を過ごし、実作業はわずかという日が続き、制度は「日当を配る場」に傾きます。第二に、財源の逼迫です。税収の落ち込みと国債発行の制約のなかで、毎日膨らむ賃金支払いは財政を圧迫しました。第三に、労務管理の未整備です。職種・技能・現場の安全・労働時間の管理が追いつかず、非効率が積み重なりました。加えて、雇用の公平性や登録の正当性をめぐる不正・抜け道が疑われ、制度への信頼も揺らぎます。

政治的にも、国立作業場は論争の的でした。温和共和派や保守派は、制度が「怠惰を助長し、財政を破壊する」と批判し、農村出身の代表者は都市偏重だと反発します。逆に急進派や社会主義者は、現在の規模と条件では「労働の権利」の実質化には程遠く、国家が生産組織を本格的に整備すべきだと主張しました。国立作業場は、理念と現実、都市と農村、労働者・中産層・農民の利害が交差し、断層を露わにする舞台となったのです。

閉鎖決定と六月蜂起:制度の破綻が引き金となった内戦

1848年4月の制憲議会選挙では、広大な農村を基盤とする穏健・保守勢力が多数を占め、国立作業場に批判的な空気が強まりました。議会は支出の抑制と制度の縮小を求め、政府は登録者の郊外移送や軍事工事への転用、地方への再配置などを試みますが、混乱は深まります。6月に入ると、政府はついに国立作業場の閉鎖を決定し、登録者の一部を軍への志願、若年者を国土開発のための地方行きに振り向ける方針を発表しました。

これに対して、パリの労働者と国立作業場の参加者の一部は六月蜂起を起こします。街路にバリケードが築かれ、市街戦が数日にわたって続きました。共和政政府側は、カヴェニャック将軍の下で国民軍・正規軍を動員して鎮圧に当たり、多数の死傷者と逮捕者を出して反乱は終息します。六月蜂起は、二月革命の「連帯」の夢が、現実の社会構造と政治的分裂の中で砕け散る瞬間でした。以後、第二共和政は社会問題への態度を硬化させ、治安重視と秩序回復の方向へ舵を切り、最終的にはルイ=ナポレオンの台頭と第二帝政へとつながっていきます。

六月蜂起は、単に治安事件としてではなく、「労働の権利」を巡る約束と失望の激突として記憶されました。国立作業場の閉鎖が直接の火種であった一方、背後には、都市労働者の疎外感、農村多数派の保守性、財政と行政の能力不足、議会の構成と選挙制度のバイアスなど、複合的な要因がありました。

経験の射程:社会政策の試金石と国際比較、のちの制度への示唆

国立作業場は短命でしたが、いくつかの重要な示唆を残しました。第一に、公的就労(ワーク・リリーフ)は、景気や政治の激動期には失業の拡大を一時的に吸収する有効な手段となりうるものの、設計・財源・管理を誤ると、救済の場に偏り生産性が低下し、政治的不信を招くことです。第二に、権利としての雇用保障の難しさです。労働の権利を宣言するだけでは現実の職を用意できず、職業訓練・産業政策・基礎的インフラ投資・社会保険など、複数制度の組み合わせが必要であることが浮き彫りになりました。第三に、都市と農村の利害調整です。都市に集中した失業対策は農村の反発を招き、普遍的な正当性を確保するには、全国的な財源と配分ルールの整備が不可欠でした。

国際比較の視点では、19世紀末から20世紀にかけて各国で公的就労や失業救済がたびたび試みられます。例えば大不況期のイギリスでは貧民法改正と救済事業、アメリカ合衆国では世界恐慌下のニュー・ディールで公共事業局(PWA)民間資源保存局(CCC)土木事業局(CWA)などが大規模な雇用を創出しました。これらは賃金や技能、地域配分、事業の公共性を精密に設計し、教育・訓練や生活保障(失業保険・最低賃金)とも連動させた点で、1848年の国立作業場よりも成熟した制度でした。フランス自身でも、第三共和政期以降、社会保険・労働法制・地方公共事業の制度化が進み、第二次世界大戦後には社会保障国家の枠組みが整えられます。

思想史的に見ると、国立作業場は、ルイ・ブランの協同組合的生産の構想と、国家の役割を限定し市場に委ねる自由主義とのあいだで揺れ動く19世紀社会思想の交差点に位置します。労働の権利を掲げた宣言は、のちの社会権の議論(教育・医療・社会保障へのアクセス)へつながり、国家が「救貧」ではなく「権利の保障」という言葉で社会政策を語る契機になりました。とはいえ、権利を現実にするには、財政基盤、行政能力、政治的合意形成、景気循環への対応といった総合的な条件が欠かせないこともまた、国立作業場の経験が示した現実でした。

要するに、国立作業場は、「革命の約束」を「制度の設計」に翻訳する難しさを刻印した出来事でした。短期の救済と長期の雇用創出、都市と農村、理念と会計、秩序と自由—これらのテンションをどう調停するかという課題は、今日の失業対策や公共事業、ベーシックインカムやジョブ・ギャランティーの議論にも通底しています。1848年の数か月に凝縮された経験を手がかりに、国家と社会が〈働くこと〉をどのように支え、尊厳と持続性を両立させるのかを考えることができます。