「王政復古(おうせいふっこ)」は、字義どおりには「王による統治(君主制)を旧に復すること」を意味しますが、歴史用語としては文脈により指す出来事が異なります。ヨーロッパでは一般に、17世紀イングランドのステュアート復位(1660年)や、ナポレオン戦争後のフランス・スペインなどでの復古(1814–15年)を指します。日本語史学では、1867年12月9日の「王政復古の大号令」を中心に、天皇親政を掲げて幕府体制を終わらせた政変を意味する場合が多いです。本稿は、両系統を見通しよく整理し、用語の違いと共通点、前提・経過・制度の要点を具体的に解説します。概要だけでも、「誰が・いつ・何を・どう復したのか」が掴めるよう平易に述べ、その後の見出しで詳細を補います。
ヨーロッパにおける王政復古――イングランド1660年とウィーン体制下の復位
まず、英語の “Restoration” といえば、清教徒革命後にステュアート家が王位へ戻った1660年を強く指します。共和政(コモンウェルス)と護国卿クロムウェルの時代を経て、オリヴァーの死後に体制が動揺し、1660年、議会と軍の調整のもとでチャールズ2世が即位しました。ブレダ宣言は恩赦・所有権の扱い・宗教寛容の枠組みを示し、王政は復古しましたが、17世紀初頭の専制へ単純に回帰したわけではありません。国王・議会・裁判所の権限は再配分され、ハベアス・コーパス法(1679)などの法整備が続きます。やがて1688–89年の名誉革命で、王権の範囲はさらに限定され、『権利の章典』によって立憲主義へ軸足が据えられました。この連続過程を踏まえると、1660年の復古は「王の復位」と「制度の再編」が同時進行した転回だと理解できます。
19世紀のヨーロッパでは、ナポレオンの退位後に「王政復古」が各国で進みます。フランスでは1814年、ルイ18世が即位し、憲章(Charte)により立法府・市民権・言論の一定の自由を保障する立憲君主制が敷かれます。1815年の百日天下を経て体制は再確認され、のちにシャルル10世の反動的政策が七月革命(1830)を招くまで続きました。スペインでもフェルナンド7世の復位と反動、イタリア諸邦やドイツ連邦でも旧王家・旧秩序の回復が進みます。これらはウィーン会議(1814–15)と列国協調(勢力均衡)に裏打ちされた「ヨーロッパの復古体制」の一部で、王政の回復と同時に、警察・検閲・外交の枠組みが再設計されました。すなわち、近代ヨーロッパの王政復古は、単なる王族の帰還ではなく、革命と戦争で揺れた国家を再安定化するための制度パッケージでした。
日本における王政復古――1867年「大号令」と旧体制の終止符
日本史で最頻の意味は「王政復古の大号令」です。徳川幕府末期、尊王攘夷運動と公武合体の動揺のなか、薩摩・長州・土佐などの雄藩勢力が連携を強め、15代将軍徳川慶喜は1867年10月(旧暦)に大政奉還を上奏しました。これは将軍が朝廷に統治権を返上する形式でしたが、幕府の枠組みや旧勢力の影響を温存しうる余地が残りました。これに対し、同年12月9日(旧暦)に朝廷はクーデター的手法で「王政復古の大号令」を発し、摂政・関白・征夷大将軍など旧来の官職を廃止し、総裁・議定・参与の「三職」を置き、天皇親政を名分として新政府権力を樹立しました。これに続く小御所会議では、徳川家に対し辞官納地(官職辞任と領地返上)を決定し、政治的・経済的基盤の切断を図ります。
王政復古は、直後の内戦を含む激しい政治過程に直結します。1868年正月の鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争で旧幕府勢力と奥羽越列藩同盟が抵抗する一方、新政府は版籍奉還(1869)・廃藩置県(1871)へと行政再編を進め、太政官制・政体書(1868)・五箇条の御誓文(1868)を通じて統治理念と省庁構造を整備しました。中央集権化、地租改正、兵制改革、学制公布など後続の諸改革は、この「王政復古」によって開いた権力の空間の上で展開します。ここでの「復古」は、古代律令国家の天皇親政のイメージを資源として用いた政治的レトリックであり、実際には近代国家への制度転換(官僚制・徴兵制・財政の再編)を伴う「創造的復古」でした。
手法と論理の比較――誰の名で、何を復し、どこまで新しくしたのか
ヨーロッパ型の王政復古と日本の王政復古は、名前は似ていますが、構図に違いがあります。ヨーロッパでは、王家の復位・旧王朝の継承が中心で、既に議会・裁判・市民権が確立途上にあり、復古後は立憲主義と保守反動の綱引きが続きました。制度は「革命以前への単純回帰」ではなく、革命の遺産を取り込んだ折衷の再設計でした。他方、日本の王政復古は、長期の武家政権を終わらせ、朝廷を名目的主権者から実効権力の源泉へと位置づけ直す政変でした。ここでは「天皇親政」が合言葉でしたが、実務は新政府の合議・官僚制が担い、結果として中央集権的な近代国家が形成されました。
正統化の言語にも差が見られます。ヨーロッパでは正統王政・王権神授・国際会議の承認(ウィーン体制)が復古の根拠となり、日本では王政復古詔書・五箇条の御誓文・版籍奉還の勅許といった「詔・勅」の形式が権力移行の印章となりました。暴力の関与も異なり、1660年イングランドの復古は比較的平穏でしたが、1815年以後の大陸では反動・反乱の波、日本では内戦(戊辰)が不可避でした。
日本の王政復古の具体相――三職設置、小御所会議、太政官制へ
日本の王政復古の中身をもう少し具体に見ます。大号令は、(1)摂政・関白・幕府・諸藩の旧職制を廃し、(2)総裁・議定・参与の三職による暫定政府を置き、(3)外交・軍事・財政の権限を朝廷(新政府)に集中させる、という三点を柱としました。直後の小御所会議では、朝議の主導権を握る討幕派が徳川家の辞官納地を強行に決め、将軍家の権威を切断しました。もっとも、在京の公家・諸藩の利害は一様ではなく、会議は深夜に及ぶ厳しい駆け引きの場でした。こうして政治の主導権は新政府へ移り、太政官制により行政機構が整序されます。江戸城の無血開城(勝海舟・西郷隆盛の交渉)も、王政復古を軍事的な無用の長物にしないための重要な一手でした。
法と理念の面では、五箇条の御誓文が新体制の「宣言文」として機能しました。広く会議を興し万機公論に決すべし、上下心を一にして盛んに経綸を行うべし、知識を世界に求むべし、などの条目は、封建秩序の否定と開国・近代化の方向を明確にしました。これに続く政体書は、米仏の制度を参照しつつ三権分立的な枠組みを暫定的に導入し、各省の分掌・太政官の職務を定めました。王政復古は、単なる「号令」で終わらず、制度と文書の整備で現実の統治へ橋を架けたのです。
ヨーロッパの復古の具体相――フランス憲章、警察国家化、七月革命へ
フランスの例では、憲章により両院制(貴族院・代議院)、信仰の自由(カトリック国教の維持との併存)、言論・出版の一定の自由、官吏任免の権限配分などが定められ、王権は復位しつつも、革命の成果を無視しない構造になりました。しかし、復古王政は亡命貴族の利害回復・教会勢力の発言拡大と結びつき、選挙制度や報道規制で緊張が高まります。シャルル10世の七月勅令(1830)は新聞の検閲強化・選挙規則の改変などを含み、パリの蜂起を招いて七月革命が発生、オルレアン家のルイ=フィリップを戴く七月王政に移行しました。復古は持続的妥協を必要とし、その失敗は新たな体制変動を呼びました。
用語上の注意と整理――「Restoration」と「王政復古の大号令」
用語の運用には注意が必要です。日本語の「王政復古」は、文脈により英仏西などの Restoration を指す場合と、日本の1867年政変を指す場合があります。前者は国名・年号を添えて特定する(例:イングランド王政復古、フランス復古王政)と誤解が少なく、後者は「王政復古の大号令」という固有の史実名で呼ぶのが明確です。いずれも「古きにかえる」という語感を持ちますが、実際には新旧の折衷・制度の再設計が核でした。誰が復位し、どの機関が廃され、どの制度が新設されたかを、具体的に押さえるのが理解の近道です。
簡易年表と人物相関(抄)
【イングランド】1649共和国成立 → 1653護国卿制 → 1660チャールズ2世復位(王政復古)→ 1679ハベアス・コーパス法 → 1688–89名誉革命・権利の章典。
【フランス】1814ルイ18世即位・憲章 → 1815百日天下・第二次パリ条約 → 1824シャルル10世 → 1830七月革命・七月王政。
【日本】1867.10大政奉還(旧暦)→ 1867.12.9王政復古の大号令(旧暦)→ 小御所会議・辞官納地 → 1868戊辰戦争・五箇条の御誓文・政体書 → 1869版籍奉還 → 1871廃藩置県。
以上のように、「王政復古」は各地域で「旧秩序の名を借りた新しい秩序の立ち上げ」という共通の顔を持ちます。名称に惑わされず、出来事の前提・手順・制度の中身を丁寧に追うことが、歴史像を鮮明にする助けになります。

