安史の乱 – 世界史用語集

「安史の乱」とは、唐代中期の天宝14載(755年)から至徳2載・乾元2年頃(763年)にかけて続いた大規模な内乱で、節度使の安禄山と史思明が中心となって起こした反乱を指します。長安・洛陽という二京の陥落、皇帝玄宗の蜀への避難(奔蜀)、馬嵬駅での楊国忠誅殺と楊貴妃の死、粛宗(李亨)の即位、そして回鶻(ウイグル)や吐蕃(チベット)など外部勢力の介入といった劇的な出来事を伴い、唐帝国の政治・軍事・経済・社会構造を根底から変化させました。乱の終息は形式上は763年の史朝義の自殺で画されますが、河北・河朔地域に自立化した節度使(藩鎮)体制、均田制と租庸調の崩壊、募兵制の常態化、780年の両税法導入へと連なる構造変化は長く尾を引き、唐の盛唐から中・晚唐への転換点として位置づけられます。

安禄山はソグド系と突厥系の血を引くとされる辺境武人で、范陽・平盧・河東の三節度使を兼ねる超大軍閥へ成長しました。宰相楊国忠と対立関係を深めるなか、洛陽・長安の政治と辺境軍事の断絶、財政の歪み、府兵制の機能不全などが複合し、反乱は爆発します。安禄山の死後、子の安慶緒、ついで旧部下の史思明、さらに史朝義へと主導権が移り、唐側は郭子儀・李光弼らの名将と回鶻の援軍を得て首都を奪還・喪失する攻防を繰り返しました。乱は国内政治の破綻だけでなく、東アジアの国際秩序と経済ネットワークを揺さぶった事件でした。

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背景と発端—節度使の巨大化と玄宗政権のひずみ

唐の対外防衛は、玄宗期に入ると節度使という辺境総司令官に大きく依存するようになりました。突厥・契丹・奚・吐蕃・渤海などとの対峙は、迅速な軍事判断と現地調達を可能にする権限集中を求め、節度使は兵権・財権・人事権を兼ね備えた地方軍政長官へと変質しました。范陽節度使(幽州=現・北京周辺)、平盧節度使(遼西方面)、河東節度使(太原方面)の三鎮を兼ねた安禄山は、関内の文臣が及ばない規模の兵力と財力を掌握し、朝廷に比肩する勢力となります。

玄宗の治世は前半の「開元の治」に象徴される繁栄を誇りましたが、後半の天宝年間には財政の弛緩、官僚機構の派閥化、府兵制の崩壊と募兵の常態化が進みました。楊貴妃の一族から出た楊国忠が宰相として権勢を握り、外戚政治への反発が広がります。一方で、安禄山は宮廷に頻繁に出入りし、玄宗や楊貴妃の信任を巧みに取り付け、洛陽と東北辺境という二つの世界のパイプを握りました。こうして、朝廷内部の権力抗争と辺境軍事の自律化が相互に絡み合い、爆発点は静かに近づきます。

決定的な転機は天宝14載(755年)です。安禄山は范陽で挙兵し、表向きは宰相楊国忠の排除を掲げつつ、迅速に南下して黄河を渡り、東都洛陽を制圧しました。ここで安禄山は「大燕(だいえん)」の建国を称し自ら皇帝を名乗り、唐王朝に対抗する体制を整えます。唐の防衛線は動揺し、実戦経験に富む反乱軍に対して、首都防衛の中核だった禁軍は連敗を喫しました。政治中枢は危機への対処を誤り、兵力の集中も後手に回ります。

756年、安軍は関中へ迫り、玄宗は西南の蜀(成都)へ退避、太子の李亨は霊武へ向かいます。長安近郊の馬嵬駅では、護衛の不満が爆発して楊国忠が殺され、楊貴妃もまた兵士の要求によって命を絶たれました。唐の権威は象徴的にも大きく傷つき、朝廷内の求心力は失われます。他方、霊武に入った太子は粛宗として即位し、郭子儀・李光弼ら歴戦の将を軸に再建を図りました。ここから、二京をめぐる攻防は新たな段階へ移ります。

戦局の推移—二京の攻防と安・史政権の変転

756年夏、安軍は長安を占領し、唐の象徴的中心は失われました。続いて洛陽も確保され、安禄山政権は「大燕」を標榜して支配の正当化を図ります。しかし、広域支配の行政力と補給力に乏しい反乱政権は、各地の豪族・将校の離反や唐側の逆襲にさらされました。安禄山自身も疎遠になった側近や家族との確執を抱え、757年初頭には病中の彼が子の安慶緒に殺害されるという内紛が発生します。指導部の動揺は前線の士気を削ぎました。

唐側は粛宗のもとで反攻態勢を整え、北方の回鶻可汗国と同盟を結びました。回鶻は機動力と騎射に優れ、対価として戦後の略奪と絹の供給を求めました。この援軍と郭子儀・李光弼らの指揮によって、757年には長安・洛陽の奪回に成功します。ですが、唐朝の勝利は決定打ではありませんでした。反乱勢力は河北・河東の根拠地で再編を進め、旧安軍の有力将だった史思明が台頭します。

759年、史思明は安慶緒を討って実権を握り、再び「燕」を掲げて洛陽を奪回しました。唐側は二京の保持が困難となり、戦線は再び伸縮を繰り返します。史思明は軍事的才覚を示しましたが、唐の反攻と内部対立に悩み、761年には今度は子の史朝義に殺害されました。指導者の交替が相次ぐなかで、反乱政権の一体性は失われ、旧安軍・旧史軍の各部隊は自立的な動きを強めます。

762年、粛宗が崩御して代宗(李豫)が即位します。郭子儀はなお唐の柱石として兵を率い、回鶻の援軍とともに攻勢に出ました。洛陽は同年末に再び唐の手に戻り、史朝義は北東方面へ退却します。追い詰められた史朝義は763年、ついに自殺し、名目上の「安史の乱」はここで終局を迎えました。ただし同年秋、吐蕃が長安へ侵入して一時占領し、代宗は奉天へ避難を余儀なくされます。唐の中枢は動揺を続け、国境の安全保障はなお脆弱でした。戦乱は終わっても、帝国の統治はもはや盛唐期のそれには戻りませんでした。

国際関係・兵站と社会経済—回鶻・吐蕃の介入、河北荒廃と制度の転換

安史の乱は国内反乱であると同時に、ユーラシア内陸の遊牧国家や周辺諸勢力の力学に深く組み込まれた国際戦争でもありました。唐は回鶻との同盟で騎兵力を補い、戦後には絹・物資の供給と市場特権を与えます。回鶻軍は戦場で決定的な役割を果たした一方、洛陽などでの掠奪は住民に深い傷を残し、同盟の負担は社会不安を増幅しました。北西では吐蕃が唐の動揺を突いて侵攻し、河湟・関中への圧迫を強めます。東北の契丹・奚、東アジア海域の交易勢力も、唐の軍需と混乱に呼応して動きました。

兵站の面では、黄河・洛水・渭水の水運と、関中—河北—山東を結ぶ陸路の掌握が勝敗を左右しました。反乱軍は北方の牧畜と河北平野の穀倉地帯を背景に、機動的な進軍を繰り返します。唐側は関中の蓄積と江南の富を活用して補給を維持し、回鶻との同盟で騎兵劣位を補いました。しかし、長期戦は双方の財政を疲弊させ、課税基盤の崩壊は急速に進みます。均田制の前提だった丁男戸籍の管理は乱れ、租庸調の徴収は途絶し、府兵制は事実上消滅しました。唐は傭兵・募兵に依存し、節度使の独自財源(塩・関税・土地)の比重が増し、中央の統制は弱まります。

河北・河朔の荒廃は深刻でした。農地は荒れ、人口は流亡し、在地の豪族・軍事集団は自衛と徴発を兼ねる独自体制を作り上げます。戦後、中央は反乱に協力した地方勢力を「鎮」として追認し、盧龍(幽州)・成徳(鎮州)・魏博(魏州)などの河朔三鎮は、事実上の世襲軍事政権として唐朝から半独立的地位を獲得しました。これは藩鎮割拠の嚆矢であり、以後の唐政治は、中央—地方の交渉と妥協の中で辛うじて均衡を保つ体制へ変容します。中央の財政再建は江南の商業・手工業に頼る比率が高まり、貨幣経済の浸透は租税制度の再設計を促しました。

制度改革として象徴的なのが、徳宗期の780年に楊炎が実施した両税法です。これは安史の乱で破綻した戸籍・丁税・労役の前提を改め、夏・秋の年二回、資産・営業に応じて貨幣で税を徴収する仕組みへ移行するものでした。軍事面では、節度使の常備軍が地域の「国軍」と化し、中央の神策軍など禁軍は相対的に細くなりました。政治は宦官・外戚・宰相の三者と藩鎮の力学が噛み合う複雑な均衡のうえに立ち、皇帝権力の単線的な指令系統は維持できなくなります。

社会文化への影響も広範です。敗戦・飢饉・疫病は人々の心性を変え、文学では杜甫の詩に見られる戦乱の写実、白居易に連なる社会への視線が育まれました。李白もまた流謫・赦免の過程で乱の影響を受け、士人の移動と地方社会の再編は、地域間の文化差を際立たせます。交易ネットワークでは、シルクロードや海上ルートが断続的に遮断され、外来商人と在地勢力の関係は緊張をはらみました。仏教寺院や道教施設は救済・施療の機能を担い、宗教共同体が社会的セーフティネットとして働いた側面も指摘できます。

影響と後世—藩鎮体制・税制転換・「盛唐」から「中・晚唐」へ

安史の乱は、唐帝国の統治原理を根底から組み替えました。第一に、節度使の常置化・世襲化により、地方軍政は中央の「委任」から地方の「既得権」へ変質し、河朔三鎮などの半独立化を中央が事実上容認する構図が固定しました。これにより、宮廷政変や宦官勢力の伸長とあいまって、中央政治は「藩鎮—宦官—文臣」の三角関係の調整へと比重を移します。第二に、均田制・租庸調の崩壊と府兵制の終焉は、税制・兵制の貨幣化・雇傭化を加速させ、両税法・募兵制が唐後期の標準となりました。これは江南商業の浮上と符合し、地域間の経済バランスを北から南へと移す契機ともなりました。

第三に、文化意識の地平が変化しました。安史以前の華麗・豪奢な盛唐美学に対し、乱後の詩は現実への凝視と社会批評を強め、楽府・新楽府運動へと続く潮流を生みます。士人のキャリアも、中央の科挙一本から、地方官僚・藩鎮幕僚・民間の文化人へと多様化し、文学ジャンルの拡散と地域文芸の自立が進みました。仏教・道教・民間信仰は救済と鎮魂の役割を担い、乱後の社会再統合に一定の役割を果たします。

また、安史の乱は「唐=中華帝国」の自己像にも陰影を与えました。辺境出身の安禄山・史思明が帝都を脅かした事実は、唐が多民族的帝国であったことの裏表を示し、軍事と文化の交錯地帯で育った新興エリートの統合の難しさを露わにしました。唐は本来的に開放的でコスモポリタンな秩序を志向しましたが、その柔軟性は軍事・財政の緊張下で脆さへ転じ、制度の再設計に失敗すると致命的な破綻を招くという教訓が読み取れます。

乱の総括として重要なのは、安史の乱が単なる「反乱の鎮圧」ではなく、帝国の基盤更新を迫る「制度転換のイベント」であった点です。唐はこの危機を通じて辛うじて統一王朝として存続し、以後の百年以上にわたって文化的輝きと政治的試行錯誤を続けました。けれども、政治体制はもはや盛唐のような集中と求心で動くことはなく、藩鎮と中央の間の交渉政治、貨幣課税と商業需要に支えられる財政、募兵に依存する軍事という「後期唐」の平衡状態が常態化します。安史の乱は、そのスイッチを入れた事件として、世界史の中でも国家の軍事・財政・社会の連関を考えるうえでの一大参照点となっています。