「憲政改革調査委員会」とは、一般に1945年秋に日本政府が設置した憲法改正のための審議機関を指して用いられる通称で、正式名称は憲法問題調査委員会、通称松本委員会です。終戦直後、占領下で日本の統治体制を民主化する要請が高まるなか、幣原喜重郎内閣は、明治憲法(大日本帝国憲法)の改正方針を検討するため、憲法学者・実務官僚らを動員して政府案の骨子作りを試みました。松本委員会の作業は、1946年2月にまとめられた「憲法改正要綱」(いわゆる松本試案)という形で結実しますが、その内容は天皇主権や統治構造を大枠で維持する限定的改正にとどまり、連合国軍総司令部(GHQ/SCAP)から不十分と判断されました。これを受けてGHQは独自のGHQ草案(1946年2月13日)を提示し、政府の再起草(3月6日)を経て、最終的に日本国憲法(1946年11月公布、1947年5月施行)へと至ります。松本委員会は結果として政府案の主導権を失いますが、占領初期の憲法改革をめぐる国内側の意図・制約・議論の輪郭を知るうえで不可欠の存在です。以下では、(1)設置の背景と構成、(2)審議の視点と「松本試案」の要点、(3)GHQ草案との衝突と転回、(4)評価と史学上の論点、(5)その後への影響を整理します。
設置の背景と構成:占領下の「自主改正」模索
1945年8月の敗戦後、日本の政治は占領政策の管理下に置かれ、ポツダム宣言に基づく民主化・非軍事化が最優先課題となりました。幣原内閣は、国家の連続性を保ちながらも、議会制の強化と基本的人権の充実を図る「自主改正」の道を探ります。こうして1945年10月末、内閣のもとに憲法問題調査委員会(松本委員会)が発足しました。委員長は法制局長官経験者で国務相の松本烝治で、憲法学者・行政法学者・立法実務家が参与し、内閣法制局・枢密院関係者・官庁スタッフが下支えしました。
委員会の基本姿勢は、「帝国憲法の条文枠内での改正」、すなわち第73条(改正規定)に従い、天皇大権の形式を大きく崩さずに、議会・内閣・司法の関係を調整するというものでした。占領当局の意図を読みつつ、国内保守層の抵抗を抑え、急激な断絶を避けたいという政治的配慮がにじみます。
審議の視点と「松本試案」の要点:限定改正の設計
松本委員会の検討は、(1)天皇の統治権の再定義、(2)議会主義の強化、(3)内閣の責任と大権行使の整理、(4)人権規定の拡充、(5)地方制度と司法の独立、を柱に進みました。これらは当時の憲法学界の漸進主義を反映し、革命的断絶ではなく「修正・補強」によって実現しようとする立場でした。
1946年2月にまとめられた「憲法改正要綱」=松本試案の特徴を要約すると次の通りです。第一に、天皇主権の温存です。主権者を国民と明示はせず、天皇の統治権総攬を前提としつつ、「国務の協賛機関」として帝国議会や内閣の役割を拡大する方向でした。第二に、議会の権能拡大ですが、貴族院を含む二院制は維持され、解散・任命などに天皇大権の影響が残りました。第三に、内閣責任の明確化として、総理大臣に閣僚任免権を与えるなどの改善はありますが、議会に対する明確な連帯責任や議院内閣制の原則を制度化するまでには踏み込みませんでした。第四に、人権規定の拡充は図られたものの、なお「法律ノ範囲内」といった留保が広く、国民の権利を下位立法に委ねる余地が残ります。第五に、戦争放棄や軍備廃止といった国際規範上の新原則は明記されていません。
総じて、松本試案は、対外的には漸進的民主化の意思を示し、対内的には旧来の権威と連続性を保つという折衷案でした。だが、占領当局—とくにGHQ民政局—が求める「国民主権・基本的人権の確立・戦争の放棄」に照らすと、不十分と判断されます。
GHQ草案との衝突と転回:2月13日の断層
松本試案は、1946年2月8日に政府案骨子としてGHQ側に説明されました。しかし、GHQはこれを即座に否定し、わずか数日後の2月13日、民政局主導で起草したGHQ草案を日本政府に提示します。GHQ草案は、(1)国民主権の明確化(主権は国民に存する)、(2)基本的人権の包括的保障(法律による不当な制限を排す)、(3)戦争放棄(第9条の原型)、(4)象徴天皇制、(5)議院内閣制と司法の独立強化、という今日の日本国憲法の背骨を成す原理を全面に掲げました。
幣原内閣は、国内政治の力学(貴族院・官僚・保守勢力の反発)と占領当局の圧力の間で苦渋の選択を迫られ、結果としてGHQ草案を基調とした再起草へ舵を切ります。政府は3月6日に「憲法改正草案要綱」(政府案)を公表し、これが帝国議会での修正・審議を経て、1946年11月3日の公布へとつながりました。この転回により、松本委員会の主導は実質的に終わり、委員会は役割を縮小します。
評価と史学上の論点:失敗か、過渡期の装置か
松本委員会の評価は、研究史で二極化しがちです。一方では、「時代認識の欠如」として批判されます。すなわち、天皇主権を温存し、旧来の大権構造に固執したため、占領期の国際的民主化要求を理解せず、結果として政府の交渉力を弱めた—という見方です。松本試案が英字紙に「骨抜き案」として報じられ、対外面での評価を損なった点も指摘されます。
他方で、松本委員会を「過渡期の安全装置」とみなす見解もあります。すなわち、急進的転換に伴う政治的・社会的摩擦を緩和し、帝国憲法の改正条項(73条)という法的連続性のルートを確保したこと、議院内閣制・人権拡充・司法独立などの要素を部分的に先取りしたことは、政府案の受容可能性を国内で高める前提を整えた、という評価です。最終的に日本国憲法が帝国議会の改正手続を経て成立したこと(八月革命説など法理論上の整理は別として)も、委員会が用意した「改正」という枠組みの延長で理解する余地があります。
また、松本委員会の内部には、学説上の多様性—国家学派・統治機構論・自然権思想への距離—が存在し、単線的保守主義では括れない側面もありました。たとえば、内閣の権能強化や行政監督の合理化、人権条項の追加など、制度技術としての改良は積み上げられており、これらの一部は最終憲法案にも形を変えて取り込まれました。
その後への影響:人材・議論・手続の遺産
松本委員会自体は短命でしたが、そこで動員された人材(法制官僚・憲法学者)や審議素材(比較憲法の蒐集、条文対照表、外国憲法の翻訳)は、その後の政府案作成、帝国議会審議、憲法施行に至る過程で継続利用されました。また、戦後に入ってからの憲法学界の編成—国民主権・基本的人権・平和主義の三原則の学理化、立憲主義の再定義—にも、帝国憲法との連続・断絶をどう整理するかという松本期の問いが引き継がれています。
さらに、1950年代以降の憲法調査会(1956–1964)や各種の憲法改正論議では、松本委員会の経験—政府主導の審議体、比較法資料の集約、条文設計のテクニック—が再参照されました。占領期という特殊条件下での「自主改正」模索の挫折は、その後の改憲・護憲の言説を長く規定する歴史的記憶となります。
小まとめ:占領初期の「限界」と「足場」
憲政改革調査委員会(憲法問題調査委員会/松本委員会)は、占領初期に日本政府が描いた最小限の自己改革案でした。松本試案は、天皇主権や大権構造を前提とするがゆえに、GHQの要求する民主主義の三原則に届かず、GHQ草案へ主導権が移る転回点を生みました。他方で、この委員会は、法的連続性という足場を提供し、制度技術としての改良の種をまき、戦後日本の憲法論が向き合うべき問い—連続と断絶、国内政治の受容可能性、国際規範との整合—をはっきりさせた意味を持ちます。敗戦直後の短い時間に刻まれた逡巡と模索は、最終的な日本国憲法の成立過程を相対化し、憲法をめぐる意思決定がいかに政治・国際・法技術の三層を同時に扱う作業であるかを教えてくれます。

