玄宗 – 世界史用語集

玄宗(げんそう、685–762/在位:712–756、諱:隆基、廟号:玄宗、尊号:開元聖文神武皇帝)は、唐王朝の第9代皇帝で、治世前半の善政と文化興隆が「開元の治」と称えられる一方、後半の政情悪化と安史の乱(755–763)によって王朝の転換点を画した人物です。若き日には韋后・武氏政権を打倒して中興の主となり、姚崇・宋璟らの改革官僚を登用して租庸調の運用正常化、律令の整備、冗費抑制、辺境軍政の立て直しを進めました。宮廷では音楽・舞踊・詩・書画が爛熟し、梨園の創設、李白・杜甫・王維らの活躍が時代の象徴となります。しかし天宝年間に入ると、李林甫・楊国忠らの専横、宦官の勢力伸長、節度使の軍事的自立、そして楊貴妃の外戚ネットワークをめぐる政治の歪みが重なり、玄宗は次第に政務から離れます。ついに天宝14載(755)に節度使・安禄山が反乱を起こし、翌年には長安・洛陽が陥落、玄宗は蜀へ奔り、馬嵬坡で楊国忠が誅殺、楊貴妃も逼死しました。乱は長期化し、粟特・契丹・ウイグルなど外族の動員、塩鉄専売・両税法への道を開く財政再編、節度使体制の固定化を招き、唐は以後、均田・府兵の理想を失って藩鎮割拠と宦官政治の時代へ移ります。玄宗は晚年、太上皇として終焉を迎えましたが、彼の治世は唐帝国の盛衰の分水嶺として、政治・軍事・文化・財政の総合的変容を映し出しています。

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即位まで:中興の担い手としての登場

隆基は睿宗の子として生まれ、武周期の権力闘争のただ中で成長しました。景龍年間(707)に太平公主派と対立した「安楽公主・太平公主」系統の策動や、韋后の専権が政局を混迷させるなか、隆基は父の復位(710)を助け、韋后・安楽公主を誅して政権を掌握します。先ずは睿宗のもとで臨朝称制的に政務を統べ、やがて先天元年(712)に譲位を受けて即位しました。政権初期における第一の功は、人事と制度の立て直しです。彼は姚崇・宋璟という名相を相次いで宰相に据え、姦佞を退け、科挙の公正化、風紀粛正、刑政の軽簡を旨としました。外戚・近侍・戚里の私権を削り、冗官・冗費を整理し、府庫の収支を均衡させることで、国家財政を再建します。

軍政面では、則天武后期以来の府兵制の弛緩を是正し、北辺の突厥(第二突厥可汗国)に対して攻守のバランスをとりながら、羈縻州・都護府—節度使による辺防体制へと漸進的に移行しました。ここで生まれた節度使(辺境軍鎮の統合指揮官)は、当初は臨機の必要から設置されたものでしたが、後の政治構造を左右する重しとなります。玄宗はまた、宦官を統制しつつも近侍として高力士らの能力を活用し、宮中の秩序を保ちました。

「開元の治」:律令国家の成熟と文化の爛熟

開元年間(713–741)は、唐の制度と文化が最も整った時期の一つです。官制では、三省六部の分掌が明確化され、尚書省の実務能力が高まりました。法制面では『開元礼』『開元天宝遺事』に象徴されるように礼制・法度の整理が進み、刑罰の寛和化と行政の簡約化が図られました。財政では、租庸調の運用を適正化し、戸口・田籍の把握を改善して賦課の公平性を高め、開元通宝の鋳造により貨幣流通も活性化しました。江南の経済力(米・絹・塩)を長安・洛陽へ輸送する運河・陸路の整備は、都市の市場経済を支え、茶・陶磁・紙墨・書籍の生産流通が隆盛します。

外交・軍事では、奚・契丹・突厥・吐蕃・吐谷渾・回鶻(後のウイグル)など周辺勢力と戦略的均衡を維持しつつ、シルクロードの西走廊・安西四鎮の防衛を継続しました。怛羅斯以前の天山南北の交通は、ソグド商人と漢人官軍の協働で維持され、唐の多民族的帝国としての性格を強めます。開元前半には、唐の威信は東アジアから中央アジアにまで及び、冊封・互市・朝貢の網が緻密に編まれました。

文化面では、玄宗自身が音楽と舞踊に深い関心を持ち、宮廷音楽の養成機関として梨園を創設したことがよく知られます。西涼・龜茲・高麗・天竺など各地の楽舞を取り入れた「九部楽」は、唐楽として洗練され、日本にも影響を与えました。詩壇では、王維の清新、孟浩然の高潔、そして李白の奔放と杜甫の写実が相次いで花開き、山水詩と歴史詩が宮廷と士大夫のサロンを満たします。書画では顔真卿の正気、呉道子の線描が評価され、仏教では玄奘・基の学統(法相宗)に続き、華厳・禅宗の思想が成熟し、道教も皇室の庇護を受け儀礼が整えられました。科挙は秀才・進士科を中心に定着し、地方の士人が中央政治へ参入する回路が広がります。

天宝の変調:李林甫・楊国忠と政治の劣化

開元末から天宝年間(742–756)にかけて、政治は次第に歪みを見せます。宰相李林甫は「口蜜腹剣」と称される巧妙な権術で政敵を排し、皇帝への情報統制を強めました。彼は外様の節度使を重用して辺防を維持する一方、中央の士人登用を抑え、官僚の萎縮と派閥化を招きます。財政では、均田制の弛緩と戸籍の逃散が進み、徭役・賦税の不均衡が拡大しました。物価の変動、江南富商の台頭、塩・茶・鉄など戦略物資の利権化は、のちの専売・両税法へ向かう潜在的圧力を溜め込みます。

宮廷では、玄宗の寵姫楊貴妃(玉環)をめぐる楊氏一族の昇進が、政務に私的ネットワークの影を落としました。李林甫の死後、楊貴妃の従兄楊国忠が宰相として台頭し、党争は激化します。宦官は高力士のような節度ある近侍もいたものの、軍政・禁軍・伝奏のルートに影響力を持ち始め、後の専横の種が播かれました。対外では、吐蕃の強勢化、奚契丹の動揺、天山方面の軍事負担が重く、節度使の常設化と権限集中が進みます。この過程で、幽薊(河北)・范陽・平盧・河東などの大鎮が巨大化し、地方軍団の自立性が高まりました。

安史の乱:帝都陥落と体制転換

天宝14載(755)、范陽・平盧・河東節度使で粟特系混血とも伝わる安禄山が「清君側」を旗印に反旗を翻し、洛陽を占領して国号大燕を称しました。唐軍は潼関で敗れ、天宝15載(756)夏、長安も陥落します。玄宗は蜀(成都)へ奔り、その途次、馬嵬坡で兵の怨嗟を受け、楊国忠が誅殺、楊貴妃も自尽を強いられました。この衝撃的事件は、皇帝の統率権と道義的権威に深い傷を残します。太子(粛宗・李亨)は霊武で即位し、唐は分権的に反撃体制を構築、ウイグル可汗国の助力を求めつつ、郭子儀・李光弼らの名将を柱に反攻を進めました。

安禄山は内紛と病により滅びたものの、後継の史思明が乱を継続し、河北一帯は長期にわたって唐の支配から離脱します。763年にかけて乱はようやく鎮圧に向かいますが、その代償は甚大でした。第一に、節度使体制の固定化です。反乱鎮圧の功を立てた地方軍鎮は実質的自治を獲得し、徴税・用兵・官吏任免を掌握する「藩鎮」と化しました。第二に、財政構造の転換です。戸籍の荒廃と均田制の崩壊により、伝統的な租庸調の賦課は機能不全に陥り、のちに徳宗期(780)に両税法が導入される土壌が整います。第三に、軍政と宦官です。禁軍の再編が進む一方、その統帥・節制に宦官が深く関与し、以後の政変(甘露の変など)へ連なる構造的脆弱性が形成されました。

文化面でも、杜甫の「三吏三別」に象徴されるように、戦乱と流離の現実が詩歌に刻印されました。李白は乱に連座して一時流罪となり、王維は賊中に在って釈放後に出仕停止とされるなど、知識人の運命も波涛に翻弄されます。長安・洛陽の市は疲弊し、国際交易のルートは断絶・変容を余儀なくされました。

玄宗像の多面性:君主の美点と限界

玄宗の政治は、前半と後半で質が異なります。前半の彼は、的確な人事と制度改革によって秩序を再建した中興の名君でした。彼の長所は、(1)有能な宰相を見抜き任せる眼、(2)礼法と法度の整序を重んじる文化的素養、(3)異文化—音楽・舞踊・宗教—を取り込み帝国文化へ昇華する寛容性、に見てとれます。

他方、後半の彼は、(1)情実と寵愛が人事・政策に影を落とし、(2)宰相の専横や情報遮断を許し、(3)辺境軍政の制度化が中央の統制を超える危険を見抜けず、(4)危機の際に果断さを欠いた側面、が批判されます。楊氏外戚ネットワークの肥大は、皇帝の私生活と政治の境界が曖昧化するリスクを露呈しました。とはいえ、安史の乱は玄宗個人の失政に還元できない、帝国規模の構造変動—人口移動、土地制度の疲弊、財政・軍事の制度疲労、周辺世界の流動化—の噴出でもあり、評価は冷静な複眼が求められます。

制度・財政の連続と断絶:開元から両税法へ

玄宗時代の制度は、乱後の再編に影響を与えました。まず、節度使の常設化は、外征—防衛から常置軍鎮へと性格を転じ、軍政・民政・財政を統合する地方権力を生みました。これは乱後に不可逆化し、中央の任命権・罷免権が形式化する契機となります。次に、貨幣経済の深化です。開元通宝の流通拡大は商業課税の基盤を広げ、租庸調の現物・人頭負担から「資産・交易への課税」へと発想を転換する素地を用意しました。780年の両税法(夏秋二季に資産と土地に課税)という徳宗・楊炎の改革は、玄宗期の社会経済変動を踏まえた応答と位置づけられます。また、塩の統制は乱後に塩鉄専売へと強化され、軍費調達と国家財政を支える主柱となりました。

国際関係:吐蕃・突厥・ウイグルとの揺れ

玄宗は、突厥の再興(第二突厥可汗国)に対して李靖以来の伝統を踏まえつつ、分断工作と軍事行動を組み合わせて対応しました。吐蕃(チベット帝国)とは青海・河湟・唐蕃古道をめぐる争奪が続き、ときに講和、ときに長安近郊まで迫る緊張が生じます。東北方面では契丹・奚の動静に目を配り、幽薊・范陽の軍事基盤を維持しました。安史の乱の鎮圧では、唐は回鶻(ウイグル)の騎兵を動員することで反攻の梃子を得ますが、のちに高利の交易・婚姻・援軍条件に縛られる対価を支払いました。唐の冊封秩序は、安史の乱を境に名目的な色彩を強め、交易・軍事同盟・婚姻といった実利的関係が前面に出ます。

文化の継承と影響:日本・イスラーム圏まで

玄宗期の文化は、東アジアに広く波及しました。日本の奈良朝では、遣唐使を通じて律令・礼楽・建築・美術が輸入され、正倉院の宝物は唐文化の多様性—西域由来の織物・器物、ペルシア風の文様、唐楽器—を物証します。律令制の礼楽思想や官制の細部、文人の詩文スタイルは、日本の宮廷文化と官僚制の成熟に影響しました。イスラーム圏では、怛羅斯(751)を象徴に語られることが多いですが、実態としてはソグド・トルコ系商人ネットワークを介した文物交流が唐とアッバース朝の間で続きました。紙の技術の西伝は長期の過程で、唐代の製紙・印刷・文書行政の洗練が遠因の一つとされます。

晩年と死:太上皇としての余生

蜀への避難後、玄宗は太上皇となり、実権は粛宗に移りました。長安帰還後も、政治の第一線に復帰することはなく、762年に崩じます。彼の死は、安史の乱の収束と入れ替わるように訪れ、唐王朝は中興—衰運の長い後半戦へ踏み出します。玄宗の名は、文化の君と失政の君という相反する像をまといながら、唐を語る際の避けがたい起点として記憶され続けました。

総括:盛唐の光芒と転落の影

玄宗の治世は、唐という巨大帝国の最高点と変質点を一身に凝縮しています。開元の治は、法制・財政・軍事・文化の均衡の上に築かれ、国際的自信に満ちた文明の開花を実現しました。しかし、その繁栄は均田・府兵という古典的基盤の疲労の上に立つ砂上の楼閣でもあり、天宝後半の政治劣化、節度使の肥大、財政のひずみが一挙に露呈すると、安史の乱として噴出しました。乱後に定着した藩鎮と宦官の二重権力、財政の現金化—商業課税化は、唐の性格を作り替え、以後の中国史に長い影を投げかけます。玄宗を学ぶことは、為政者の資質と制度の相互作用、文化的繁栄と政治的持続可能性の関係、帝国の中心—周縁のバランスという普遍的テーマを考える手がかりになります。華麗な楽舞と詩が奏でる栄光の背後で、税簿と兵站、辺境の寨柵と市場がどのように機能し、どこで破綻したのか—その具体を見つめるとき、玄宗の時代は単なる興亡譚ではなく、制度と文化が織りなす大きな教科書として立ち現れます。