憲宗(けんそう、モンケ/Möngke, c.1209–1259)は、モンゴル帝国の第4代大ハーンであり、1251年に即位して1259年に没するまで、夭折と内訌の続いた帝国を再統合し、財政・行政を制度化しつつ、東西二方面で大規模な遠征を指揮した統治者です。チンギス・ハーンの長男ジョチの弟であるトルイを父、ソルコクタニ・ベキを母にもち、クビライ・フレグらの兄として、トルイ家の中核に位置しました。彼の治世は、オゴタイ家による先代の政権からの転換点であり、モンゴル帝国の統合原理(大カアン権威と諸ウルスの協調)を現実に運用するための行政・財政の新設計と、対外戦役の同時並行を特徴とします。西方ではフレグを派遣してイルハン国の前段を築かせ、アッバース朝バグダードを陥落させる道を拓き、東方では自ら南宋戦線の総司令官として四川・漢中から江南攻略を統裁しました。他方、1259年の急死は、クビライとアリクブカの内戦(帝位継承戦)を誘発し、帝国の分裂の扉も開きました。モンケの評価は、征服者としての拡張と、財政・法・宗教政策の安定化を両立させた「建設的な大ハーン」としての側面にあります。本稿では、(1)出自と即位、(2)体制整備と財政改革、(3)西アジア遠征の指令とフレグの派遣、(4)南宋戦線の戦略と戦術、(5)宗教・学知・法と帝国統治、(6)死と継承、評価と遺産、の順に整理します。
出自と即位:トルイ家の台頭とクリルタイ
モンケは、トルイとソルコクタニの長子として生まれました。ソルコクタニはケレイト王族の出で、政治手腕と学識に富み、息子たちの教育と人脈形成に大きな役割を果たしました。モンゴル帝国では、チンギス・ハーン没後、オゴタイ家を頂点とする体制が続きましたが、オゴタイ死後の政争とグユクの短命、さらにバトゥ(ジョチ家)の影響力増大が複雑に絡み、帝国中枢は不安定化していました。こうした状況下で、トルイ家—とりわけ母ソルコクタニとバトゥの連携—がモンケ擁立の地歩を固めていきます。
1251年、タラス川上流域またはオルホン川流域で開催されたクリルタイ(部族会議)で、モンケは大ハーンに選出されました。この決定は、ジョチ家・チャガタイ家・オゴタイ家・トルイ家の複雑な力学のうえに成立した妥協であり、即位後のモンケは、オゴタイ家・チャガタイ家の反対派に対して粛清・再編を断行します。具体的には、オゴタイ家のカラ・フルムらの勢力を削ぎ、反乱の芽を摘み取る一方、各ウルスに対しては諸特権を原則として尊重し、貢納・軍役・道路(ヤム)制度の共通枠組みを取り戻す方針を鮮明にしました。こうして、権力の再集中と諸王の権益調整という相反する課題に同時に取り組む統治が始まりました。
体制整備と財政改革:ヤム・戸籍・課税の再設計
モンケ治世の基礎は、財政・行政の整備にあります。帝国全域の軍事遠征を維持するには、課税・徴発・輸送の制度化が不可欠でした。彼はまず、各地の官僚(ウイグル人書記、契丹・漢人の実務家、イスラーム商人の財務官)を登用して、複合官僚制を強化しました。書記言語としてはウイグル文字モンゴル語が中枢の標準でありつつ、華北では漢文、中央アジアではペルシア語・アラビア語が併用され、地域に即した公文の多言語運用が進みました。
財政面では、帝国各地で恣意的に広がっていたパイザ(通行札)の濫用を抑え、ヤム(駅伝)の運用を再編しました。乱発されたパイザによる無償供応は諸地域の疲弊を招いていたため、モンケは発給権限を中央に回収し、官民の区別、等級、使用範囲を厳格化しました。さらに、華北と中央アジアで戸籍調査を実施し、土地と人頭に対する課税ベースを整え、商人・手工業者・農民に対する負担配分を調整しました。華北では、金・元来の税制を引き継ぎつつ、塩・鉄・茶など戦略物資の徴収と管理を強化し、陝西—四川—雲南—広西の補給路に倉廩を配しました。中央アジアでは、キャラバンサライとヤムを接続し、長距離輸送の効率化と治安の維持を図りました。
また、モンケは、財務の透明化と汚職摘発に意を用いました。無秩序な徴発を禁じ、徴税を標準化するために地方に査察官を派遣し、不正を働いた重臣・商人に対しても容赦なく罰を加えました。これは、他の大ハーンに比して厳正さで知られ、遠征の戦費調達と内政の信頼回復に寄与しました。ただし、急速な再編は各地の利害を刺激し、反発や流通の停滞を生むこともあり、バランス感覚が常に求められました。
西アジア遠征:フレグの派遣とバグダードへの道
モンケは即位後、西方におけるイスラーム勢力の再編と、ニザール派(いわゆる「山の老人」—アサシン)による要害支配の掃討を優先課題としました。1253年、彼は弟のフレグ(Hülegü)を大軍とともに西遷させ、イラン高原の完全掌握を命じます。この派遣は単なる遠征ではなく、後にイルハン国へ発展する恒常的支配の基礎づくりでした。フレグ軍はアルボルズ山脈のニザール派要塞を次々に降伏させ、1258年にはアッバース朝のバグダードを包囲・陥落させます。カリフ制の象徴的中心の崩壊は、イスラーム世界に巨大な衝撃を与え、同時にモンゴル帝国の西域支配の転回点となりました。
モンケの戦略は、征服と行政の接続にあります。フレグには、ペルシア人・アルメニア人・ジョージア人の官僚と技術者、漢人の工匠・投石器技師が随行し、攻城・土木・財務・通訳の多国籍チームが編成されました。遠征と統治の間を官僚が橋渡しし、征服地の土地税・都市税・商税を整えて、軍需と宮廷財政に充てる体制が整備されました。ここで培われた多言語・多宗教の行政手法は、のちのイルハン国の制度の中核となります。
一方で、エジプト・マムルーク朝との対峙は、モンケの死後に実戦化します。フレグの進軍は1260年のアイン・ジャールートの戦いで頓挫し、モンゴルの西方無敵神話に陰りが見えましたが、それでもモンケ期の西征がイラン—イラクの政治地図を塗り替えた事実は動きません。モンケは、キリスト教勢力(アルメニア教会・東方教会)やジョージアとの友好も活用し、交易・外交の多角化を図りました。
南宋戦線:自領指揮と四川—漢中ルートの突破
東方では、モンケは南宋に対する最終的攻略のため、自ら総司令として出陣しました。1257年の大遠征で大理国(雲南)を制圧したのち、雲貴高原—四川—漢中を経由する戦略ルートを整え、南宋の側背を突く構えを取ります。四川の山岳・峡谷は補給と攻城に難を生むため、モンケは陣営・倉庫・橋梁の整備、投石器・攻城塔の運用、火器・火矢の併用など、工兵を重視した持久戦術を採りました。彼はまた、クビライに江淮方面からの圧力を命じ、東西から南宋を圧迫する挟撃態勢を構築します。
1258年から59年にかけて、四川—漢中—合州(重慶周辺)—鄂州(武漢)の戦域で激戦が展開されます。合州の釣魚城は堅城で、モンゴル軍は度重なる攻城に苦しみました。1259年、モンケは陣中で病没(疫病・戦傷など諸説)し、モンゴル軍は動揺します。クビライは軍をまとめて北還し、南宋攻略は一時停滞しました。モンケの死亡は、単なる将帥の交代にとどまらず、帝位継承戦を引き起こし、南宋戦線の主導がクビライ—元朝期の最終征服(1276杭州陥落、1279崖山)へと引き継がれる契機となりました。
モンケが自ら前線に立ったことは、モンゴル帝国の伝統(ハーン自出陣)を体現するものですが、同時に帝国中枢の空白リスクも抱えました。彼の死は、前線の戦略判断の停滞だけでなく、後方の資源配分・補給の指揮系統にも混乱をもたらしました。それでも、四川の要地確保、雲南・貴州経由の補給線整備は、のちの元の江南統治のインフラ形成に資する長期的成果でした。
宗教・学知・法:寛容と秩序の両立をめざして
モンケの宗教政策は、モンゴル伝統の寛容(多宗教共存)を基本にしつつ、財政秩序の維持という観点から宗教特権の再点検を行うところに特徴がありました。寺院・モスク・教会に対する免税や労役免除は、カリスマ的統治の時代に拡大しすぎており、これが税基盤の空洞化を生んでいました。モンケは、真正の宗教施設と名ばかりの特権濫用を区別し、登録制と監査を導入して免税の乱用を抑制しました。これは宗教弾圧ではなく、帝国運営の公平性を担保する行政手段として位置づけられます。
彼はまた、宗教論争の公開討論を主催したことで知られます。仏教(チベット仏教・漢地仏教)、イスラーム、景教(東方キリスト教)、道教などの代表を招き、宮廷で信仰と倫理、教義の優劣を論じさせました。これは、単に娯楽ではなく、帝国の支配正統性と宗教勢力の均衡を測る政治的儀礼でした。討論の過程で、道教の偽経問題が指摘され、経典の真偽と社会的役割が問われました。こうした姿勢は、クビライの宮廷文化(フビライ朝の学術保護と制度化)にも受け継がれます。
法と行政では、慣習法(ヤサ)の原理と、各地域の成文法・行政実務を接合する努力が続けられました。刑罰の残虐性を抑え、冤罪を改めるための査問、徴税の標準化、駅伝・郵驛の規律、官僚の俸給と監督の整備は、帝国の「日常」を安定させるものでした。学知面では、天文・暦・地理・工学の専門家が宮廷に集められ、攻城・橋梁・水利の技術に応用されました。ペルシア・漢地・中央アジアの知の相互翻訳が、実学の層で進められたのです。
死と継承、評価と遺産:分裂の序章と制度の遺産
1259年、モンケの死は、帝位継承の危機を直ちに引き起こしました。クビライと末弟アリクブカは、それぞれ上都開平とカラコルムでクリルタイを開き、同時即位を主張します。両者の内戦(1260–64)は、帝国の政治経済資源を消耗させ、各ウルスの離心を促しました。この結果、ジョチ家はキプチャク・ハン国として自立を強め、フレグはイランにイルハン国を固め、チャガタイ家は中央アジアに独自の体制を維持し、クビライは大元ウルス(元朝)として中華皇帝の道を歩みます。モンケは、統合者として帝国の「最後の共通大ハーン」とも評され、彼の死が全体の分節化を決定づけたという認識が一般的です。
評価の一面では、モンケは建設的改革者でした。彼の財政規律、駅伝と課税の標準化、宗教特権の是正、官僚制の活用は、征服機械から統治国家への移行を推し進めました。他面では、前線での死が政治の空白を生み、帝国の大分裂を招く引き金となったという批判もあります。しかし、継承争いの素地はチンギス・ハーン以来のウルス分有(分封)の構造に内在しており、モンケ個人の判断だけでは回避困難な側面がありました。むしろ彼の遺産は、分裂後の各政権においても—元朝の制度財政、イルハン国の行政と財務、チャガタイ・キプチャクの駅伝—に形を変えて生き続けた点に見いだされます。
文化的記憶においても、モンケは「苛烈にして公正」という像を帯びます。彼は贈賄と汚職を厳罰に処し、パイザ乱用を止め、駅伝と補給の規律を回復しました。遠征を支える“裏方”の制度を整えたからこそ、フレグの西征とクビライの東方作戦が同時並行で可能になったのです。帝国の国土をつなぐ道路、倉廩、会計、通訳、書記—それらの細部に、モンケの統治哲学が宿っています。
小結:征服と統治の接合点としてのモンケ
憲宗(モンケ)の時代は、モンゴル帝国が「征服者の時代」から「統治国家の時代」へ舵を切る接合点でした。彼はクリルタイの権威を再興し、財政と駅伝を再整備し、多宗教・多言語の帝国に標準化の枠を与えました。同時に、フレグの西征と自らの南宋戦役を統裁し、イランと江南という二大文明圏の再編に道を開きました。早すぎる死は分裂の序曲となりましたが、彼が残した制度的基盤は、元朝・イルハン国という二つの「文化複合国家」の誕生を準備しました。華麗な攻城塔や大軍の影に、地味で緻密な駅伝札と税簿の世界がある—その相互依存を理解するとき、モンケの統治者としての価値が、戦果だけでなく制度の持続性という尺度で見えてきます。

