三部会は、フランスの身分制社会を代表する三つの「部門」(第一身分=聖職者、第二身分=貴族、第三身分=平民〔都市民・農民・法服貴族などを含む〕)から成る全国会議を指す用語です。中世末から近世にかけて、国王の招集によって課税や王令の追認、外交・戦争などの重大案件を協議するために開かれました。固定的・常設の議会ではなく、招集は断続的で、王権の必要に応じて開催頻度や権限が変化したのが特徴です。制度としての起源は14世紀に遡り、たとえば1302年にフィリップ4世がローマ教皇との対立を背景に聖俗の代表を集めた会議が、後の「三部会」的形態の原型とみなされます。長い歴史のなかで三部会は、王権の正統性補強、課税の動員、国民的合意形成の形式を担い続けましたが、同時に身分間の序列と地方的多様性のために意思決定が遅滞しやすく、16~17世紀には王権の集権化と官僚制の整備に押されて影が薄くなりました。ところが財政破綻と社会危機が重なった18世紀末、1789年に久方ぶりに招集され、そこから第三身分が「国民議会」へと転化してフランス革命の発火点となったことで、三部会は世界史の教科書級の事件と結びつくことになりました。
起源と構造――「三つの身分」と代表のあり方
三部会の発生背景には、カロリング朝以降の身分秩序と、王権が地方有力者の協力を得て国家運営を行う慣行がありました。中世後期のフランスでは、封建的連関の上に都市の成長や貨幣経済の浸透が重なり、課税・動員・軍事の必要から、国王は各身分の「代表」を召集して同意を取り付ける政治技法を発展させました。ここでいう「代表」は、近代的な普通選挙の議員とは異なり、身分団体や都市コルポラシオンの代表、地方議会(バイヤージュ/セネシャル管区)単位の選挙で選ばれた代議員、あるいは上級聖職者・世襲貴族といった、身分を体現する者でした。
三部会の構成は、第一身分(聖職者)、第二身分(貴族)、第三身分(平民)という三つの部門に分かれ、それぞれ別室で審議し、最終的に「部ごとの一票」で表決するのが通例でした。すなわち、第一・第二・第三が各一票をもち、合計三票で可否が決せられる仕組みです。これは身分団体の合議という観点では整合的でしたが、人口と納税負担で多数を占める第三身分の意思が、制度上は常に聖職者・貴族の連携によって否決され得る構造でもありました。また、各身分内部も一枚岩ではなく、第一身分の中には高位聖職者と下級聖職者の利害差、第二身分の中には宮廷貴族と地方貴族の差、第三身分の中には大商人・弁護士・法服貴族・農民・職人の差が存在しました。したがって、三部会は単純な三極対立ではなく、多層の交渉と妥協の場だったのです。
選出方法は時代と地域で異なりますが、一般に各バイヤージュ(司法管区)ごとに身分別の予備会を開き、そこで代議員を選出し、同時に「訴書(カイエ・ド・ドレアンス)」――王に対する陳情・改革要求・不満・提案を項目立てした書類――を作成しました。この訴書は、地方社会の声を可視化するとともに、全国レベルでの議題設定に影響を与えました。三部会は儀礼と象徴の世界でもあり、身分ごとの衣装や席次、起立・跪拝の順序、王への答礼の形式が厳格に定められ、政治的序列が空間演出として再現されました。
中世末から近世へ――断続的招集と王権の集権化
三部会は、百年戦争期や財政危機の折に重要な役割を果たしました。たとえば1350年代、イングランド軍の侵攻と捕虜王ジャン2世の身代金問題で財政が逼迫すると、パリ都のエティエンヌ・マルセルら都市勢力が強い発言力を持ち、課税権や行政監視の強化を求めました。王権は諸身分の協力を取り付けつつ危機を凌ぎましたが、こうした「非常時の合意形成機構」としての三部会は、王権の正統性と引き換えに一定の譲歩を得る場でもありました。
しかし16世紀に入ると、ヴァロワ朝末からブルボン朝初期にかけて、常備軍、官僚制、王令登録権をもつ高等法院(パルルマン)など、王権の統治装置が整備され、財政も間接税・王室領収入・売官制などによって安定化が図られました。宗教戦争の混乱期には、王権が教派間の調停のために身分代表の会議を利用した局面もありましたが、17世紀のルイ13世期・ルイ14世期には、王権は三部会への依存を低下させ、むしろ臨時の身分別会議や地方三部会(各州の身分会議)で代替することが多くなります。中央の三部会は1614年を最後に長く開かれず、「王はみずから国家なり(朕は国家なり)」という絶対王政的イメージの時代背景のもとで、王令と行政のトップダウンが標準になっていきました。
それでも地方レベルでは、ブルターニュやラングドックなどの州三部会が租税協定や公共事業の分担で機能し続け、地方社会の自律と王権の財政需要の調整弁の役割を果たしました。王権は一方的な課税ではなく、交渉と譲与、免税特権の再確認と引き換えに合意を作り、徴税効率と社会安定のバランスを取ろうとしました。こうした「交渉の国家」は、18世紀半ばまで大枠を保ちますが、七年戦争やアメリカ独立戦争への参戦で財政が再び悪化し、旧来の調整メカニズムでは持ちこたえられなくなりました。
1789年の招集と転化――三部会から国民議会へ
18世紀末、穀物価格の高騰、構造的財政赤字、特権身分の免税、国債の利払い膨張などが重なり、王権は抜本的な財政改革を迫られました。ネッケルら改革派の財務総監は、臨時課税や均一課税の導入を試みますが、高等法院や特権身分の抵抗で頓挫します。こうしてルイ16世は、1614年以来となる全国三部会の招集を決断し、1789年5月、ヴェルサイユに各地から代議員が集結しました。招集に先立ち、第三身分の代表数は第一・第二の合計に等しい倍加が認められ、カイエ・ド・ドレアンスが大量に作成されて、税制、司法、農村慣行、特権の廃止など多岐にわたる改革要求が可視化されました。
ところが、表決方法を「身分別票決(一部一票)」とするか、「頭数票決(個々の代議員の票の総和)」とするかをめぐって、議事は膠着します。第三身分は人口と負担の重さを根拠に頭数票決を主張し、第一身分の下級聖職者や第二身分の改革派がこれに同調する動きもありました。6月、第三身分は自らを「国民議会」と宣言し、主権の所在が国民にあることを表明します。これに対する王権の圧力に対抗して、6月20日、開場を閉鎖された代議員たちは隣接する球戯場に集まり、「憲法制定まで解散しない」ことを誓う有名な「球戯場の誓い」を立てました。やがて第一身分の多数と第二身分の一部も合流し、身分別の三部会は事実上解体され、単一の立法権を担う憲法制定国民議会が成立します。
この転換は、単なる議場手続きの争いではなく、代表原理の根本的な再定義でした。すなわち、身分とコルポラシオンの代表(スタンド・レプレゼンテーション)から、国民なる抽象共同体の代表(ナショナル・レプレゼンテーション)への移行です。1789年夏のバスティーユ襲撃、農村騒擾(大恐怖)、8月4日の封建的特権の廃止、8月26日の人権宣言の採択へと続く一連の出来事は、この代表原理の変化を、制度と社会の両面で不可逆にしました。以後、三部会という枠組みは歴史的遺制としてのみ語られ、革命憲法の下では単一院(のち複院)制の近代議会が国民主権の器として位置づけられます。
史料・史学・比較――三部会をどう読むか
三部会を理解するうえで重要なのは、儀礼・法・社会を結ぶ多層の資料です。各管区のカイエ・ド・ドレアンスは、農奴制的負担、十分の一税、領主裁判、通行税、関税障壁、ギルド規制、直轄税の不公平、宗教寛容の是非など、地域社会の具体的な要求を詳細に記録しています。これらは統計的分析の対象ともなり、地域差や身分間の利害対立の分布を可視化できます。議事録、演説、パンフレットは、言葉の政治、世論の形成、印刷文化の役割を示し、都市と農村、首都と地方のテンポの違いを読み解く手がかりを提供します。
史学的には、三部会は「王権に従属する臨時会議」に過ぎないとする見方と、「代表政治への途上形態」とみなす見方が併存してきました。前者は中世末から近世にかけての王権強化と官僚制の整備を強調し、三部会の決定が最終的には王令やパルルマン登録に依存した点を重視します。後者は、課税同意権や訴書の作成、身分横断の政治連携が、近代的な公論形成と政治参加の萌芽を含んでいた点を評価します。現在では、両者を架橋する視点――すなわち、王権と社会が交渉を通じて国家を共構築したという「交渉の国家」論――が広く受け入れられています。
比較史的にみると、フランスの三部会は、同時期のイングランド議会(聖職者は上院での役割が早期に変質し、コモンズの課税同意権が強化)やスペインのコルテス(地方の多元性を強く保持)と対照的です。フランスでは中央集権の進展が早かったため、全国三部会の常設化は進まず、地方(州)三部会が事実上の交渉の場として重要でした。ドイツの帝国議会(ライヒスターク)は諸侯・都市の複合連邦的性格を保ち、オスマン帝国では宗教共同体(ミッレト)単位の代表原理が長く機能しました。こうした比較は、代表制の多様な起源と、国民国家形成における制度選択の幅を教えてくれます。
また、三部会の「象徴政治」にも注目が集まります。衣装・席次・奉答文・祝典は、身分秩序を可視化する劇場であり、政治の正統性は儀礼の反復によって日常化されました。1789年の衣装論争(第三身分の黒衣・貴族の華やかな服装・聖職者の祭服)は、視覚的な対立を際立たせ、版画や小冊子を通じて世論の想像力を刺激しました。こうした視覚文化は、革命後も続く「政治の演出」の伝統につながり、現代の議会儀礼や国家行事の根にも見いだされます。
総じて、三部会はフランス社会の身分的多様性と王権の必要が交差する場でした。その歴史は、非常時の合意形成の装置として始まり、地方的多様性を抱え込んだまま王権の集権化と並走し、最後には代表原理の転換点として爆発的に機能しました。三つの身分の一票から、個々の国民の一票へ――この移行の折り目に三部会が位置していたことが、今日なお強い関心を集める理由です。

