3B政策 – 世界史用語集

3B政策は、19世紀末から20世紀初頭にかけてドイツ帝国が構想・推進した対外戦略を指す日本の便宜的呼称で、ベルリン(Berlin)―ビザンチウム=ボスポラス(Byzanz/Bosphorus、すなわちイスタンブール)―バグダード(Bagdad)を結ぶ経済・交通・軍事の大動脈を築くことを目標としたものです。核となる事業は「バグダード鉄道(Bagdadbahn)」であり、ドイツ資本・技術をテコにオスマン帝国内部の鉄道網を貫通させ、メソポタミアの資源とペルシア湾岸の海路へアクセスすることで、世界市場と帝国戦略の新たな軸を作り出そうとしました。イギリスがアフリカとインド洋をCairo・Cape Town・Calcuttaで結ぶ「3C政策」を体現していたのに対し、ドイツの3Bはバルカン・アナトリア・メソポタミアを陸路で貫く「内陸回廊」の創出を狙った点が対照的でした。結果として、この構想はオスマン帝国との緊密化、英露仏との摩擦、石油利権と港湾支配をめぐる角逐を生み、第一次世界大戦前夜の国際政治地図に深い影を落としました。

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用語の射程と背景――「3B」の意味とドイツ帝国の戦略環境

「3B」という略称は、当時の公式文書の固定語というより、のちの歴史叙述・教育文脈で整理された呼び名です。Bは一般にベルリン・ビザンチウム(=ボスポラス)・バグダードを指しますが、地中海側の端点としてベイルート(Beirut)を挙げる用例もあります。趣旨はいずれも、ドイツを起点としてバルカンとアナトリアを経由し、メソポタミア・ペルシア湾へ至る「大陸横断的な影響圏」を陸上交通網で編成することにありました。

19世紀末、ドイツ帝国は統一から間もない新興大国として、工業生産・人口・科学技術で急伸する一方、海外植民地では英仏に遅れを取り、地中海・中東での足場が弱いという構造的制約を抱えていました。ビスマルク体制下では欧州内の均衡と大陸外交が重視され、植民地獲得は抑制的でしたが、ヴィルヘルム2世の親政(1890年代)以降、世界政策(Weltpolitik)を掲げて海軍力増強と対外進出が強まります。そうした中で、オスマン帝国は「病人」と揶揄されつつも、広大な領土と戦略的位置を持つ潜在的な提携相手でした。列強の露骨な分割を避けたいスルタン政府(アブデュルハミト2世)は、英露仏に対抗する外部バランサーとしてドイツを選び、武器調達・教育・鉄道敷設にドイツの参入を歓迎しました。ここに「3B」の土台が生まれます。

この構想が惹きつけた理由は三つあります。第一に、軍事・地政学上の価値です。ドイツ本土からバルカンを通過し、イスタンブール経由でシリア・メソポタミアへ達する陸路は、英海軍の制海権に左右されにくい「第二の大動脈」を意味しました。第二に、経済・資源面の期待です。小アジアの農牧産物、鉱物資源、そしてメソポタミアで見込まれた石油は、産業国家ドイツにとって魅力的でした。第三に、文明論的・文化外交の意義です。鉄道・学校・医療・顧問団を通じて、ドイツ技術・学術の威信をオスマン領に浸透させる「ソフトパワー」の機会でもありました。

バグダード鉄道の実像――資本、技術、路線と難工事

3B政策の象徴であるバグダード鉄道は、ドイツ資本(主にドイツ銀行[Deutsche Bank]グループ)とオスマン政府のコンセッション(敷設・運営の特許)契約に基づいて進められました。前史として、19世紀後半からアナトリア鉄道(イスタンブール―アンカラ方面)や小アジア各都市の支線が段階的に建設され、これが幹線の基盤となります。1899年以降、ハイダルパシャ(イスタンブールのアジア側)からアダナ、アレッポ、モスル方面を経て、最終的にバグダード・バスラ近傍へ至る壮大な計画が具体化しました。路線はトロス山脈・アマヌス山脈の貫通が最大の難所で、長大トンネル・高架橋・蛇行河川の渡河など、当時の土木工学の粋が結集します。

技術面では、ドイツの橋梁・トンネル技師団が主導し、地質調査・測量・資材輸送に高い組織力が求められました。建設現場にはオスマン諸民族に加え、バルカン・中欧の労働者が混在し、多言語・多宗教の労務管理が不可欠でした。資材はレール・鋼材・機関車・電信器材などをドイツから輸入する一方、現地産石材・木材を活用し、橋脚・覆工・駅舎の意匠にはオリエント風の要素が採り入れられることもありました。工事は資金繰りや国際政治の圧力で断続し、トンネル区間の遅れが計画全体のボトルネックになります。第一次世界大戦期には軍事的必要から突貫工事が進み、一部区間は仮設・簡易構造で開通しましたが、戦前の全面完成には至りませんでした。

金融スキームは、運賃保証・路線内税収の担保・付随利権(電信・港湾・鉱山)のパッケージ化など、コンセッション鉄道の典型を示します。オスマン財政の逼迫は常態で、列強の銀行団との駆け引きが繰り返されました。債券発行・利子保証の条件は政治と直結し、英仏露は自国資本の不利を口実に外交的圧力を強めます。鉄道が軍用輸送に転用可能であることは周知で、トンネルの断面規格・駅間距離・側線設備まで、軍略上の意味が問われました。こうして、バグダード鉄道は単なるインフラ投資を超え、帝国間競争の「可視化された戦略物件」となったのです。

列強の反応と中東秩序――英露仏との角逐、オスマンとの接近

イギリスにとって、3Bはインド航路・スエズ運河・ペルシア湾の安全保障に直結する挑戦でした。英政府は海上覇権を背景に、湾岸の港湾と首長国(クウェートなど)に保護条約を拡大し、ドイツの鉄道が湾岸に到達して海港を獲得することを牽制しました。クウェート協定や湾岸ケーブル網の整備、バスラ・ムハンマラ(ホラムシャフル)周辺の勢力圏化は、その文脈に位置づきます。さらに、英系資本は石油利権(のちのアングロ・ペルシアン石油会社)を押さえ、燃料革命である重油の軍事的優位を確保しようとしました。

ロシアは、カフカス・アルメニア・黒海海峡に対する歴史的な野心から、イスタンブールとアナトリア北部でのドイツの影響力増大を警戒しました。フランスはオスマン財政・レバントの商業ネットワークに深く関与し、既得権の侵食を嫌いました。三国はいずれも、鉄道敷設の各段階で、資本参加の条件や終点・支線の取り扱いをめぐってドイツと交渉・圧力を繰り返します。1900年代後半には、鉄道の終点をペルシア湾岸のどこに置くか、港湾管理権を誰が持つか、石油・関税の配分をどうするかが焦点となり、部分的妥協や共同出資の枠組みが模索されましたが、相互不信は解消しませんでした。

一方、オスマン帝国にとってドイツは、技術・武器・顧問団の供給者として魅力的でした。陸軍再編ではモルトケ以来の軍事交流の蓄積が活き、リマン・フォン・ザンダースらの軍事顧問団が近代化を担います。皇帝ヴィルヘルム2世の1898年の中東歴訪は、ダマスクス演説に象徴される文化外交の見せ場となり、イスラーム世界への友好姿勢が演出されました。もっとも、オスマン側はドイツ一辺倒ではなく、列強間の均衡を取りつつ利得を最大化する「裁定外交」を続け、鉄道利権も多国間の綱引きの中で調整されていきます。

3Bはまた、バルカン・アルメニア・アラブ諸州の民族運動とも交錯しました。鉄道は軍の展開速度を上げ、中央集権を強化する一方、周縁部の市場統合を通じて地方社会を変容させ、課税・徴兵・教育の浸透を加速させました。青年トルコ革命(1908)以後、立憲体制のもとで改革は進みましたが、列強の干渉は続き、鉄道はなお外交交渉の焦点であり続けました。

第一次世界大戦とその後――構想の帰趨と歴史的評価

1914年に第一次世界大戦が勃発すると、ドイツとオスマン帝国は同盟側として参戦し、3Bの交通回廊は軍事輸送路としての意味を帯びました。戦時中、トロス・アマヌスの難工事区間は急速に進められ、アナトリア内陸とレバントは鉄道でより強く結ばれます。他方、メソポタミア・ペルシア湾方面では英印軍が上陸・進出し、バスラ・バグダード・モスルを巡る攻防が展開しました。戦局と占領によって、バグダード鉄道の「ドイツ主導の一体運用」は実現せず、終戦後の講和と委任統治体制によって、中東の政治地図は英仏主導で再編されます。

戦後、鉄道網は分割・国有化され、トルコ共和国・シリア・イラクなど新たな主権国家のインフラとして再統合が図られました。ドイツ資本の優越は消え、3Bが目指したベルリン直結の大動脈は政治的に断ち切られます。それでもなお、アナトリア横断鉄道やヒジャーズ鉄道(支線系)を含む広域鉄道網は、国家形成・経済開発・軍事統制の基盤として機能し続け、地域の空間構造を決定づけました。石油・港湾・海峡の問題は20世紀を通じて中東政治の核心であり続け、3Bが孕んだ課題は形を変えて継承されました。

歴史的評価では、3B政策は「海に対する陸の戦略」「既存覇権に挑むインフラ外交」の古典例として位置づけられます。ドイツにとっては、海軍拡張と並ぶ世界政策の柱であり、英露仏にとっては自らの権益線を脅かす挑戦でした。賛否を超えて確かなのは、鉄道という物的ネットワークが、資本・技術・軍事・宣伝・宗教・民族・法制度を束ねる「複合体」であったという点です。レールの敷設は、同時に関税と通商条約、警備と治安、教育と言語の統一、そして地図の描き替えを伴いました。

また、3Bと3Cの対比は、帝国主義時代の「地理の発明」を象徴します。英側はスエズ・アデン・ホルムズを繋ぐ海上の鎖に重心を置き、ドイツ側は山脈と高原、河川盆地を突破する陸上の鎖に賭けました。どちらも輸送・補給・通信という近代帝国の中枢機能をめぐる競争であり、電信線やケーブル網、貿易金融の決済システムまで含めた総体的インフラ構想でした。今日のエネルギー・パイプラインや回廊外交を考える際に、3Bの経験は多くの示唆を与えます。

総じて、3B政策は、ドイツ帝国が欧州の枠を超えてユーラシアの内陸へ手を伸ばした野心的計画でした。バグダード鉄道は完成以前から国際政治の「争点」となり、列強の協調と対立、資本と主権、技術と地政学が交錯する舞台となりました。最終的にベルリンからバスラまでの一体的回廊は実現しませんでしたが、その試みは、インフラがいかに世界秩序を形づくり、またそれに拘束されるかを明らかにしました。3Bをめぐる経験を辿ることは、近代国際関係史の核心に触れることに等しいです。