三部会招集停止 – 世界史用語集

三部会招集停止は、フランスの全国三部会(第一身分=聖職者、第二身分=貴族、第三身分=平民)を1614年を最後に長期にわたって開かず、1789年のフランス革命直前まで国家の最高レベルの合議機構を事実上停止した政治状況を指す用語です。王権は課税同意や全国的合意の形成を、全国三部会ではなく、王令・王室評議会・高等法院(パルルマン)・州三部会・売官制や徴税請負などの実務装置に振り分けて運営しました。この空白は「絶対王政」の要として理解され、常備軍・官僚制・財政の中央集権化と表裏一体でした。他方で、王権は常に社会との交渉を要し、地方の身分制会議や高等法院の登録権、民衆の税騒擾に配慮しながら、臨時課税や戦費調達を進めました。結果として、全国的な代表制を介した合意形成の伝統は弱まり、財政危機とともに制度的出口が塞がれ、1789年に至るまでの政治文化を大きく規定したのです。

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1614年以後の停止――なぜ全国三部会は開かれなくなったのか

全国三部会が1614年を最後に途絶えた直接の背景には、宗教戦争後の秩序再編と王権の集権化があります。ヴァロワ朝末期の内乱とナントの勅令(1598年)で辛うじて平和が回復すると、ブルボン朝は常備軍・富くじ・関税・専売の強化、そして売官制による官職ネットワークの拡大で財政と統治力の底上げを図りました。ルイ13世期のリシュリュー、続くマザランの時代には、王室評議会の機能強化、地方総監(アンタンダン)の派遣による県レベルの監督が進み、中央が地方に介入するパイプが整備されました。こうした制度設計は、三部会を招集せずとも課税と統治を回す実務的な道を王権に与えました。

停止の「利点」は王権側に明瞭でした。第一に、部ごとの票決(一身分一票)に依拠する三部会は議事が膠着しやすく、迅速な戦費調達や財政改革には不向きでした。第二に、第三身分の人数倍加や頭数票決をめぐる争いを避け、貴族・聖職者との微妙な力学を王宮内の交渉へ吸収できました。第三に、州三部会や高等法院、都市自治体、徴税請負人との取引を個別に仕切ることで、譲歩と恩典を組み合わせた「分割統治」が可能となりました。こうして王権は、全国的な公開討議を伴う場を避け、閉じた評議と行政命令に依存する政治文化へと傾斜していきました。

一方、停止は突発的決断ではなく、15~16世紀を通じて進行した制度的トレンドの延長でした。常設化しない全国会議、断続的招集という伝統の上に、財政・軍事の常備化が重なり、三部会を用いずにやり過ごす統治技法が積み上がったのです。1614年の後、王権は地方レベルの州三部会(ラングドック、ブルターニュなど)や、租税契約を結ぶ特定の団体(商人組合・都市・教会)を相手に交渉を重ね、全国三部会の不在を補完しました。

三部会なき統治の仕組み――代替装置と「交渉の国家」

全国三部会停止の下でも、王権はさまざまな制度を束ねて合意形成を行いました。中心は王室評議会(コンセイユ)で、外交・戦争・財政・立法を分担する複数の評議(高等評議会、苛斂誅求を扱う財政評議など)が案件を審議し、国王の名で王令(アレ)を発出しました。王令は高等法院(パルルマン)に登録されて法的効力を得ますが、高等法院は「抗議(レマンストランス)」の権利を持ち、時に王令の是正を迫りました。王は「ベッド・オブ・ジャスティス(寝台裁判)」の儀礼で強制登録を命じることもでき、ここに司法と王権の緊張が生まれます。

地方統治では、王権が派遣するアンタンダン(地方監察官)が徴税・治安・司法を監督し、州三部会は地方案件の協議と租税負担の配分に関与しました。州三部会は全国三部会の縮小版ではなく、各州の歴史的特権と財政事情に基づく実務会議で、公共事業や慈善・倉庫の運営、穀物市場の監督などにも役割を持ちました。王権はここで免税・特権の再確認と引き換えに賦課を通し、徴税請負人(ファルミエ・ゼネロー)や地方の有力士紳・都市参事会と取引して財政を回しました。

課税のレパートリーは多岐にわたり、土地税タイユ(地域により実態は異なる)、塩税ガベール、消費税エード、身分人頭税カピタシオン、所得比例税ディジエムやヴァンティエムなどが組み合わされました。これらはしばしば不均衡で、特権身分の免税や買戻し可能な特権、従来慣行に基づく差配がからみ、負担は第三身分に偏りがちでした。ゆえに王権は、臨時課税のたびに世論と騒擾のリスクを管理しなければならず、穀物流通の統制や価格政策に失敗すると暴動が発生しました。三部会に代わる公開の協議舞台がないため、抗議はしばしば街頭に現れ、パリや地方都市ではパン騒動や税吏への暴力が繰り返されました。

こうした「代替装置」の連携は、絶対王政のイメージと異なり、王権が万能であったことを意味しません。むしろ、王権は社会の多様な団体・身分・地域と個別に交渉し、法と慣行の隙間を埋める実務に忙殺されました。大きな改革は、王室の権威と行政能率、そして譲歩の配分にかかっていました。ルイ14世の全盛期には、戦果と宮廷の威光がこの仕組みを支えましたが、17世紀中葉のフロンドの乱に見られるように、財政強化と司法貴族の抵抗、都市の自律性が衝突すると、制度は容易にきしみを見せました。

17〜18世紀前半の帰結――安定の代償と制度疲労

三部会招集停止は短期的には統治の即応性を高めましたが、中長期的には三つの代償を生みました。第一に、全国的な代表制を通じた「公論形成の訓練」が欠落し、税・司法・宗教といった根本問題を公開の議論で調整する経験が蓄積しませんでした。第二に、王権は高等法院の登録権と州三部会の固有権を相手取った局地交渉に追われ、全体最適よりも部分的妥協の積み重ねに流れました。第三に、売官制や特権の温存は財政の弾力性を奪い、戦争の長期化(スペイン継承戦争、ポーランド継承戦争、オーストリア継承戦争、七年戦争)で債務が雪だるま式に膨張しました。

司法と政治の関係では、1771年のモプー改革(大法官モプーによる高等法院の解体・再編)が象徴的です。王権は抵抗的な法服貴族の牙城を一時的に封じ、登録権の政治化を抑え込みましたが、広範な反発が生じ、ルイ16世即位後には旧体制へ回帰します。この往復運動は、王権が制度の「ハードリセット」を持続できない現実を示しました。さらに、経済思想の変化(重農主義、重商主義の再編)と産業・農業の構造変容は、旧来の租税・特権の体系と噛み合わず、改革の必要性は誰の目にも明らかになっていきました。

この間、全国レベルで代替された「代表の舞台」として、王権はしばしば臨時の顕要者会議――名士会(アッサンブレ・デ・ノターブル)――を活用しました。1787年の名士会は、財務総監カロンヌが包括的税制改革(等級身分の区別なき均一地租、地方議会の創設など)を通すために招集したものですが、名士たちは十分な正統性を持たないこの会議で大改革を認めることに慎重で、提案は挫折しました。続くブリエンヌは高等法院に登録を迫るも失敗し、登録権をめぐる政治闘争が全国に拡大します。ここで初めて、「全国三部会の招集こそ正統な合意形成の道だ」とする声が、制度的説得力を伴って復活しました。

1789年への道――停止の解除と制度の爆発

1788年、深刻化する財政危機と全国的な政治闘争の中で、王権はついに全国三部会の招集を約束しました。問題は、その構成と表決方法でした。第三身分は代表数の倍加と頭数票決を求め、第一身分の下級聖職者や第二身分の一部改革派がこれに同調します。1614年以後に一度も経験されなかった全国的手続きは、誰にとっても前例の乏しい未知の領域であり、儀礼・席次・衣装に至るまで政治闘争の対象となりました。

1789年5月、ヴェルサイユで開かれた三部会は、まもなく表決方法をめぐって膠着し、第三身分は「国民議会」を自称します。これこそが、長期の招集停止が生み出した「制度の爆発」です。すなわち、身分とコルポラシオンを単位とする代表制が、国民という抽象的主体を単位とする代表制に置き換わる瞬間でした。三部会そのものは短命に終わりますが、その代わりに憲法制定国民議会が成立し、封建的特権の廃止、人権宣言、行政区画の再編、教会財産の国有化といった抜本改革が雪崩を打って進みました。

この過程は、単純に「絶対王政の崩壊」と言い切れるものではありません。むしろ、17世紀以来の「三部会なき統治」が制度的に成功しすぎたため、18世紀末の危機において全国的コンセンサスを形成する熟練の場が欠け、いったん舞台が開けば、代表原理そのものが根底から再定義されるほどのエネルギーが解放された、と言えます。停止の長さは、革命の急峻さに正比例したのです。

比較・評価――イングランド・スペインとの対照と史学的議論

比較史の視点からは、同時代のイングランドが議会を断続的ながらも頻繁に開き、財政同意権を通して王権と交渉する実務を磨いたのに対し、フランスは全国三部会を用いず、法廷(高等法院)と州三部会・官僚制・徴税請負に政治的調整を委ねました。スペインではコルテスが王権の強弱に応じて開閉され、地方の多元性が強く残りました。フランスの特徴は、中央の行政化が進んだために全国代表の場が縮小し、地方代表の場が財政の実務に特化して生き残った点にあります。

史学的には、三部会招集停止を「絶対王政の専制」と断じる見解と、「交渉の国家」の成熟と見る見解が併存します。前者は、公開の討議と課税同意の原理が抜け落ちたために政治文化が歪み、革命の暴発を招いたと捉えます。後者は、王権と社会が多段階の交渉と取引で国家を運営した結果であり、それ自体が近代官僚制の準備となったと評価します。現在では、両者を接合し、制度疲労と財政制約が極まった18世紀末において、全国代表制の欠如が決定的なボトルネックとなった、という折衷的理解が広がっています。

また、停止期は「議会なき政治言論」の発達を促しました。パンフレット、怪文書、サロン、学会、王立アカデミー、経済学派(重農主義)の議論は、全国三部会の不在を埋める公共圏を部分的に形成しました。これらは国政を直接動かす権限を持たなかったものの、1780年代の危機に際して世論を急速に動員する準備体操となり、印刷文化の爆発と結びついて、革命初期の言説空間を形づくりました。

総括すれば、三部会招集停止は、旧体制フランスの統治技法とその限界を同時に映す鏡でした。王権は全国代表の舞台を閉じることで統治のスピードを得た代わりに、合意形成の厚みを失いました。州三部会・高等法院・官僚制・徴税請負という代替装置は長らく機能しましたが、戦争と債務の累積、社会の識字率と公論の高まり、経済構造の変化という外的・内的圧力の前で粘り切れず、最終的には1789年という「停止解除の爆点」で制度が一挙に組み替えられました。この視角から学ぶと、代表制の継続的運転がいかに政治共同体の安全弁として重要かが見えてきます。