アフガニスタン撤退(ソ連) – 世界史用語集

スポンサーリンク

ソ連によるアフガニスタン侵攻の背景

ソ連のアフガニスタン撤退は、1979年12月に始まったソ連軍のアフガニスタン侵攻に端を発します。この侵攻は、冷戦構造の中でソ連が自国の勢力圏を維持・拡大しようとする試みの一環であり、アフガニスタンにおける社会主義政権を守るために行われました。1978年の「四月革命」により成立したアフガニスタン人民民主党政権は、急進的な社会主義改革を推進しましたが、伝統的な部族社会やイスラム教指導者との対立を深め、国内は不安定化しました。

当時のアフガニスタン政府は、ソ連の支援を受けながら統治を強化しようとしましたが、抵抗運動であるムジャーヒディーン(イスラム武装勢力)の反発に直面しました。ソ連は、アフガニスタンが西側諸国やイスラム勢力の影響下に置かれることを懸念し、ついに軍事介入を決断しました。1979年12月、ソ連軍は首都カブールを制圧し、親ソ派の政権を擁立するに至りました。

アフガニスタン戦争の展開と泥沼化

ソ連軍の介入後、アフガニスタン戦争は本格化しました。ムジャーヒディーンはゲリラ戦術を駆使してソ連軍およびアフガニスタン政府軍に抵抗し、戦争は次第に泥沼化していきました。アフガニスタンの険しい山岳地帯はゲリラ戦に有利であり、ソ連軍は都市部や幹線道路を掌握するものの、農村部や山間部を完全に制圧することはできませんでした。

さらに、西側諸国やイスラム諸国はムジャーヒディーンを積極的に支援しました。特にアメリカのCIAは「オペレーション・サイクロン」と呼ばれる秘密工作を通じて、ムジャーヒディーンに武器や資金を供与しました。中でも供与された携帯型地対空ミサイル「スティンガー」は、ソ連軍の航空戦力に大きな打撃を与えました。サウジアラビアやパキスタンもイスラム戦士を支援し、アフガニスタンは冷戦の代理戦争の舞台となったのです。

ソ連軍は最大で約10万の兵力を投入しましたが、戦争は長期化し、兵士の死傷者は増加しました。民間人も甚大な被害を受け、数百万人のアフガニスタン難民がパキスタンやイランへと流出しました。この戦争は、ソ連にとって軍事的・経済的な大きな負担となり、国際的な非難も強まりました。

ソ連の撤退決定とその過程

1985年にゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任すると、アフガニスタン戦争の終結が重要課題として浮上しました。ゴルバチョフは「流血の傷」と呼んで戦争の無意味さを認識し、和平交渉を模索しました。1986年以降、ソ連は徐々に撤退を進める方針を固め、国際連合やパキスタン・アメリカを交えた外交努力が展開されました。

1988年4月には、ジュネーヴで「アフガニスタン和平協定」が調印され、ソ連軍の撤退が正式に決定されました。同年5月から撤退が開始され、1989年2月15日、最後のソ連軍部隊がアフガニスタンから離脱しました。これにより、約9年間にわたるソ連の軍事介入は終結したのです。

ソ連軍の撤退は、単なる軍事行動の終了にとどまらず、冷戦史における重大な転換点となりました。撤退後もアフガニスタン政府はムジャーヒディーンの攻撃にさらされ続け、最終的に1992年には親ソ政権が崩壊し、アフガニスタンはさらなる内戦に突入しました。

アフガニスタン撤退の歴史的意義

ソ連のアフガニスタン撤退は、国内外に多大な影響を及ぼしました。ソ連国内では、戦争の犠牲と経済的負担が国民の不満を高め、ペレストロイカやグラスノスチの推進と相まって体制の弱体化を加速させました。撤退はソ連の威信低下を象徴する出来事となり、最終的には1991年のソ連崩壊へとつながる要因の一つとなりました。

国際的には、ソ連撤退は冷戦におけるソ連の後退を示すシグナルとなり、アメリカを中心とする西側諸国の優位を強めました。また、ムジャーヒディーンの戦いは「聖戦(ジハード)」としてイスラム世界で大きな影響を持ち、後のアルカーイダやタリバンなどのイスラム過激派運動の土壌を形成しました。つまり、ソ連の撤退は単なる冷戦の一局面ではなく、21世紀に続く国際テロや地域紛争の起点ともなったのです。

総じて、ソ連のアフガニスタン撤退は冷戦史の重要な節目であり、帝国的な大国が「アフガニスタンの泥沼」に翻弄されるという歴史の教訓を改めて示しました。その後のアメリカのアフガニスタン介入もまた同じ運命を辿ることになり、アフガニスタンは「帝国の墓場」と呼ばれる所以を再確認させるものとなったのです。