高宗(こうそう、在位649〜683年)は、唐の第三代皇帝・李治(りち)です。太宗(李世民)の後を継ぎ、国内の法制整備と東アジア〜中央ユーラシアに広がる対外政策を同時に進め、唐を「国際帝国」としての最盛期へ押し上げた君主として位置づけられます。一方で、後半生は持病や体調不良により執政能力が低下し、皇后の武則天(ぶそくてん、後の武周の則天武后)が共同統治者として台頭しました。百済・高句麗の征服、西突厥の制圧、安西・安東都護府の展開と喪失、吐蕃(とばん、チベット帝国)との角逐、泰山封禅の挙行、そして『永徽(えいき)律疏』を中心とする法体系の整備など、光と影が交錯する治世でした。本稿では、即位と初期改革、対外政策と東アジア秩序、法制・宗教・文化の編成、武后との共同統治と晩年の政治の四つの観点から、わかりやすく整理します。
即位と初期政治:太宗路線の継承と『永徽律疏』の完成
高宗は太宗の第九子として生まれ、太宗の晩年に皇太子に立てられて649年に即位しました。前代の「貞観の治」による基礎整備を受け継ぎ、まずは国内秩序の安定と官僚制の整流に重点を置きました。初期の元号「永徽」期には、太宗の重臣であり外戚でもある長孫無忌(ちょうそん・むき)らが中枢を担い、法典の改訂・訓令の整理・地方統治の監察強化が進みます。
この時期の象徴が『永徽律疏』です。唐律(刑法典)本体に対して、条文の解釈と運用原理を注釈(疏)として体系化し、量刑原則、親族・身分・職掌に応じた法の適用差(八議・官当)や、恩赦・減刑の範囲を明文化しました。唐法は刑名の構造、罪刑均衡の原則、そして「律(法)—令(行政規範)—格(追加規定)—式(施行細則)」という四層構造で運用され、以後の東アジア(新羅・日本律令、宋・元・明清の法)に長期の影響を与えます。永徽期の整備は、唐国家が「法による統治」を自負する基礎を築いたと評価できます。
人事では、門閥と新進官僚の均衡を図りました。貢挙(科挙)の実施は太宗期に軌道に乗っていましたが、高宗期には合格者の地方配置や監察御史の巡察が重視され、中央—地方の官僚循環が整えられます。他方、外戚・重臣間の対立(長孫無忌と武氏勢力の軋轢)は潜在し、後に政局に影を落とします。
対外政策と東アジア秩序:百済・高句麗の滅亡、西突厥制圧と吐蕃との角逐
高宗の治世は、対外戦線の拡大と再編が特徴です。東アジアでは、朝鮮半島で新羅と連携して百済(660年)を滅ぼし、続いて668年には高句麗を攻略しました。前線では蘇定方(そていほう)らの将軍が活躍し、唐は熊津・安東などの都督府・都護府を設置して軍政統治を試みます。とはいえ、統治は単純ではありませんでした。百済遺民の復興運動(扶余豊・鬼室福信ら)や、高句麗遺民の抵抗が続き、新羅もやがて唐の半島支配に反発して唐・新羅戦争に発展します。半島統治は、征服の成功が直ちに安定を意味しないことを示す典型でした。
中央ユーラシアでは、西突厥に対する遠征が行われ、655〜657年頃にかけて唐は西突厥可汗国を打破し、安西都護府の権威をタリム盆地からさらに西へ広げました。これにより、シルクロードのオアシス諸城(亀茲・于闐・焉耆・疏勒など)を唐の保護網に組み込みます。しかしこの拡大は、ほどなく吐蕃の反撃に直面します。吐蕃は高宗期に強勢となり、670年の大非川などで唐軍に痛打を与え、安西四鎮(亀茲・于闐・焉耆・疏勒)の動揺・喪失を招きました。以後、唐と吐蕃は青海・河湟・蔥嶺(パミール)周辺で長い消耗戦に入り、国境地帯の城塞・牧地・交通路の制御が国際政治の焦点となります。
北方と西北の別の脅威として、吐谷渾(とよくこん〈吐谷渾〉)の問題がありました。唐は当初これを保護しつつ秩序化を図りましたが、吐蕃の圧迫で崩壊し、住民の多くが唐領へ編入されます。こうした辺境政策は、軍事行動と移民の受容、羈縻(きび)政策による在地統治の三つ巴で進みました。征服—都護府—羈縻州というパターンは、唐の帝国統治の基本モジュールでしたが、補給線・地理・現地勢力の連合関係によっては脆く、状況に応じた再編を迫られました。
象徴政治として、高宗は666年に泰山で封禅(ほうぜん)の大礼を挙行しました。これは天子の徳が天地に通じたことを示す儀礼で、同席した武后との「二聖」体制の予兆ともなります。封禅は国際秩序を意識した内外宣言でもあり、唐が東アジア・内陸アジアの広域秩序を主導する意思を儀式化した出来事でした。
法制・宗教・文化:唐国家の「標準」を仕上げる
国内では、法制・儀礼・度量衡・文教の標準化が進みました。『永徽律疏』のほか、礼(儀礼・服飾・喪葬・朝儀)の条目整理、戸籍と租庸調の運用の精密化が行われ、地方官の治績評価と巡察体制が引き締められます。均田制の枠組みはまだ機能しており、農地の授受・租税・徭役の割当が比較的安定した形で運用されました(のちの両税法は高宗より後世の制度です)。
科挙は、進士科・明経科などで選抜が続き、書判・策問・詩賦の技能が官僚登用の重要評価軸となりました。名家出身者が依然として優位であったとはいえ、文才と政策構想力を示すことで出世の道が開かれる環境は、唐の文化活力と政務の専門化を後押ししました。文人官僚の活躍は、制度の書記文化(文書起草・詔勅・法令)を洗練させ、帝国の遠隔統治を支えます。
宗教では、仏教・道教・在地信仰が重層的に共存しました。高宗・武后期は、仏教と王権の共鳴が強まり、寺院の造営・経典の翻訳・法会(ほうえ)の挙行が活発になります。武后は後年、仏教の護国論(大雲経信仰など)を政治正当化の言語として用い、高宗期の宗教環境がその土台を形づくりました。道教は皇帝の祭祀・仙真人の称号付与などで引き続き重んじられ、道観の維持と科儀が国家儀礼に組み込まれます。こうした宗教政策は、地方社会の秩序維持(慈善・救恤)と都市文化の華やぎ(灯会・仮面劇・音楽)にも寄与しました。
文化・学術では、太宗期の「文治」の気風が継承され、史書・地理書・法制注疏の編纂が続きます。外交通商の拡大は、ササン系・ソグド系の商人や西域の音楽・舞踊・服飾を都に流入させ、長安・洛陽のコスモポリタンな都市文化を醸成しました。絵画・書・工芸は国際趣味と中国古典の折衷を示し、金銀器やガラス、色釉陶(三彩の前段階)などの美術が洗練されていきます。
武后との共同統治と晩年政治:病と権力、制度の弾力
高宗は660年代後半から頭痛・眩暈・視力障害などに苦しんだと伝えられ、政務の一部を皇后の武氏に委ねるようになります。武后は才幹と政治的意志に富み、人事・詔勅起草・訴訟監督に深く関与し、やがて皇帝と皇后を「二聖」と並称して合議で国政を動かす段階に至りました。これは唐の制度が想定していなかった共同君主制に近い形で、形式上の責任主体と実質の権力がずれる現象を生みます。
政敵の排除も進みました。外戚の長孫無忌は失脚・処断され、太子問題(中宗・睿宗)をめぐっても武后の影響力が強まりました。高宗崩御(683年)後に中宗(李顕)が即位しますが、皇后韋氏の台頭を恐れた武后はこれを廃して睿宗(李旦)を擁立、自らは皇太后として垂簾政治を行い、最終的に690年には自ら即位して国号を周(武周)とするに至ります。高宗の晩年に形作られた「女帝の政権掌握」の道筋は、後世から見れば唐中期政治の大転換点でした。
もっとも、武后の登場をもって直ちに「専制の暗黒」と断じるのは単純化に過ぎます。高宗—武后期には、法令の整序、選挙の実施、地方監察の強化といった制度操作が継続し、官僚制は一定の弾力で政権変化に適応しました。外征の成功と失敗が交錯する中で、補給・道路・城塞の網は維持され、唐国家は巨大な慣性で動き続けます。高宗個人の体調悪化があっても、制度が帝国を走らせたという側面は看過できません。
総じて、高宗の治世は「拡張と標準化」の時代でした。外に向かっては領域と影響圏を拡げ、内に向かっては法と儀礼・人事の標準を仕上げる。その成果は、武后による権力構造の変容を経てもなお、唐という帝国の骨格として長く持続しました。他方、対外拡張の反動(吐蕃の反攻、半島支配の困難)と、共同統治が孕んだ権力の私事化の萌芽は、のちの玄宗期以降の政治的ゆらぎへと連なっていきます。高宗を学ぶことは、制度が個人をどこまで支え、個人が制度をどこまで方向づけるかという、古今に通じる問いに向き合う手がかりになります。

