ウラービー(オラービー)運動は、19世紀末のエジプトで起きた軍人・民衆・官僚・宗教指導者が連携した政治運動で、1881~1882年にかけて憲法と議会、軍の国籍平等、財政主権の回復を掲げました。中心人物は陸軍将校アフマド・ウラービー(通称ウラービー・パシャ)で、合言葉は「エジプトはエジプト人のため(ミスル・リル=ミスリイン)」でした。背景には、ムハンマド・アリー以来の近代化で肥大化した国家財政の破綻、英仏による財政監督(いわゆるデュアル・コントロール)、トルコ系・チェルケス系将校の特権、農村の負担、官僚・商人の不満が積み重なっていました。運動はカイロの王宮前デモなどで一時的に政権を動かしましたが、1882年の英軍の武力介入とテル・エル=ケビールの戦いで敗北し、ウラービーはスリランカ(当時のセイロン)に追放されました。それでも、憲政の要求や「国の財政は国民の手に」という主張は、その後の1919年革命や独立運動に継承されていきます。本稿では、背景、運動の展開、国際介入と敗北、余波と歴史的評価の四つの観点から、用語の中身を具体的に説明します。
背景――財政危機、外国監督、軍内部の不満が重なった19世紀末
19世紀前半、ムハンマド・アリーは常備軍と官僚制、綿花輸出を基盤に国家経済を拡大しましたが、綿花価格の変動や公共事業・軍備・宮廷費の膨張は慢性的な財政赤字を生みました。イスマーイール総督(1863–79)は運河開削や鉄道、欧化的都市整備で負債を積み増し、1875年には国債償還のためにスエズ運河会社株の一部を英国へ売却、翌1876年には「公債委員会(カイス・ド・ラ・デット)」を設置して歳入の一部を債権国の管理下に置きました。やがて英国とフランスが事実上の共同財政監督(デュアル・コントロール)を行い、予算と徴税の決定にまで介入します。
この過程で、農村は徴税強化と徵発で疲弊し、都市では商人や職人が市場の混乱に直面しました。官僚層は昇進・給与で外国顧問や一部エリートに後れを取り、軍はとりわけ強い不満を抱えました。エジプト軍の幹部ポストはトルコ系・チェルケス系が多く占め、エジプト系(アラブ系)将兵は昇進で差別されがちでした。加えて、アフリカ内陸での戦役の失敗、人員縮小、俸給遅配が続き、軍内の不公平感は臨界に達していました。
国政のトップでも動揺が続きます。1879年、英仏の圧力でイスマーイールが退位し、息子のトゥフイーク(タウフィーク)に交代しましたが、財政監督は継続し、王宮・官僚・外国顧問の三角関係は混乱を深めました。こうした「上からの支配の不全」と「下からの不満の積層」が、ウラービー運動の舞台を整えたのです。
運動の展開――将校の抗議から憲政要求へ、「エジプトはエジプト人のため」
1881年2月、カイロで将校団の抗議が表面化し、同年9月には王宮前(アブディーン宮殿)の大規模なデモで、ウラービーらが軍の兵員増強、差別撤廃、閣僚の交代を迫りました。国王トゥフイークは要求の一部を受け入れ、軍務・内務を握る民族派寄りの内閣が成立します。やがて国会(代表会議)と予算審議の権限拡大、徴税の公正化、負債返済の条件見直しなど、憲政的改革の綱領が掲げられました。運動は軍人だけでなく、法曹・官僚・ウラマー(宗教指導者)、都市の商人、地方地主など、多様な層を巻き込み、新聞やビラ、集会で支持を広げました。
スローガン「エジプトはエジプト人のため」は、外国人優遇に対する反発だけでなく、行政・財政・軍の人事原則を国民本位に正すという意味合いを持ちました。とりわけ議会と予算統制の要求は、債権国の監督に対抗する「制度の盾」として構想され、政府は歳入の内訳や軍備の計画を議会に開示する方向へ動きます。官僚と法律家は、混合裁判所や関税、歳入の担保化など、外国の法的特権の再交渉を目指しました。
他方で、運動内部には現実的な政策選択をめぐる緊張が存在しました。急進的な民兵動員と急ぎすぎる改革を求める声、財政現実と国際関係を考慮して漸進を唱える声、王権やオスマン宗主権との関係をどこまで認めるか、といった争点です。ウラービー自身は軍の規律と秩序を重んじる姿勢を崩さず、王権そのものを直ちに否定する革命ではなく、憲政を枠組みとする「国家の正し方」を志向しました。
国際介入と敗北――アレクサンドリア砲撃、テル・エル=ケビール、英軍占領へ
運動の高まりに対し、英国・フランス両国は自国の債権とスエズ運河航路の安全を最優先し、共同出兵の圧力を強めました。1882年6月、アレクサンドリアで多国籍住民と現地民との衝突から暴動が発生し、治安悪化を口実に英国艦隊は港湾防備の解除を要求、拒否されたとして7月にアレクサンドリア市街を砲撃しました。市街は大きな被害を受け、火災と混乱が広がります。フランスは軍事介入からは撤退し、英国が単独で作戦を継続しました。
ウラービーは沿岸砲台の再建と内陸での国土防衛を進め、運河線・デルタの要地に塹壕と要塞化を施しました。決戦は1882年9月、スエズ運河北方のテル・エル=ケビールで行われ、夜明け前の奇襲的前進と火力で英軍がエジプト軍陣地を突破、短時間で勝敗が決しました。ウラービーは逮捕され、軍事法廷で死刑判決を受けますが、減刑されてセイロン(現スリランカ)への流刑となりました。主要閣僚や将校も処罰・追放され、民族派政権は崩壊します。
以後、エジプトは名目上はオスマン帝国の宗主権下・侯国(ヘディーヴ制)を保ちながら、実質的には英国の「隠れ保護統治(ヴェイルド・プロテクタレート)」に置かれました。高等弁務官や顧問が財政と行政の要所を握り、軍の編成・治安・教育・灌漑事業が英主導で進められます。1914年の第一次世界大戦勃発とともに英国は保護国化を宣言し、1922年の形式的独立まで、国家主権は大きく制限されました。
余波と歴史的評価――憲政の記憶、農村と都市の連結、そして記録
ウラービー運動の敗北は、軍事的な力関係と国際政治の現実を映していますが、社会に残した痕跡は広範でした。第一に、憲政と予算統制への希求が、政治言語として定着しました。議会・憲法・国民軍・租税の公正といった語彙は、のちの立憲運動やワフド党の要求に受け継がれ、1919年の大衆運動の精神的前史を形づくりました。第二に、農村の小農・徴税負担層と都市の官僚・商人・知識人をつなぐ回路が可視化され、民族運動の社会的基盤が広がりました。新聞・パンフレット・演説・宗教施設での説教など、情報の流通経路は政治文化を底上げしました。
第三に、軍の役割をめぐる議論が続きました。軍は近代化の担い手であると同時に、均衡を崩せば専横の危険も孕みます。ウラービーは規律と合法性を重んじたものの、結果的には軍の政治化に道を開いたという批判もあります。逆に、当時の王宮・外国監督の枠組みが民主的正統性を欠いていた以上、軍人が代表役を担わざるを得なかったという擁護もあります。
人物史としてのウラービーは、英雄像と現実主義者像の間を揺れます。彼は農村出自の士官で、弁舌と組織化に優れ、宗教指導者や都市エリートと折衝しながら運動を広げました。亡命先のセイロンでは教育や地域社会に関わったと伝えられ、1901年に帰国を許されます(のちに逝去)。彼個人の評価とは別に、運動の核心にあった「財政主権」「国籍平等」「議会と予算」は、エジプト近代政治の反復する主題となりました。
史料面では、公文書・議会議事録・新聞・回想録・外交文書・軍法会議記録などが重要です。とりわけ英仏の外交電報や財政監督機関の資料は、当時の意思決定と介入のロジックを具体的に示し、エジプト側新聞・ビラは都市社会の熱量と語彙を伝えます。アレクサンドリアの砲撃・火災、テル・エル=ケビールの戦闘跡は、考古学的・軍事史的研究の対象にもなってきました。こうした多方面の資料を突き合わせることで、運動が単なる「軍の反乱」でも「外征の口実」でもなく、制度改革を通じて国家の主権構造を作り替えようとした試みだったことが具体的に浮かび上がります。
総じて、ウラービー(オラービー)運動は、帝国主義時代の国際環境のもとで、国内の社会的多様性を束ね、憲政と財政主権を求めたエジプトの近代政治の起点の一つでした。敗北によって英軍の占領が長期化したという皮肉を残しつつも、当時に生まれた制度と言葉、挫折と記憶は、後代の運動に織り込まれていきました。王宮前に集った群衆、砲撃で焦土と化した港町、夜明けの砂漠で交錯する銃火――それらの場面は、国家と主権、内政と国際政治の境界線がむき出しになった瞬間として、今も史書の頁に刻まれています。

