「コルテス」とは、一般に16世紀初頭にアステカ(メシカ)帝国を滅ぼし、ヌエバ・エスパーニャ(新スペイン)の基盤を築いたスペインの征服者エルナン・コルテス(Hernán Cortés, c.1485–1547)を指します。彼の遠征は、ヨーロッパの拡大と先住社会の変容が激しく交差した出来事でした。キューバを拠点にメキシコ湾岸に上陸し、トラスカラやトトナカなど先住諸勢力との同盟を組んでテノチティトランに進入、モクテスマ2世との対面、一次撤退(「悲しき夜」)と再攻囲、1521年の陥落という流れは教科書でもよく知られています。しかし事件の核心は、火器や馬といった軍事技術の優位だけではありません。同盟の政治、疫病(天然痘)の流行、宗教儀礼や支配様式の差、帝国の連邦的構造、そして通訳・交渉役としてのマリンチェ(ドーニャ・マリーナ)の存在が複雑に絡み合いました。コルテス個人の野心と才覚は確かに重要でしたが、彼を支え、時に導いたのは先住の人びとの選択と内紛、そして大西洋をまたぐ制度の変換装置でした。本稿では、出自と渡航、遠征と帝国崩壊の過程、統治と搾取の制度、宗教・文化の断層、史学上の評価と遺産を、具体例を交えつつわかりやすく解説します。
出自・出発—イベリアの辺境からカリブ海へ
コルテスはスペイン中西部エストレマドゥーラ地方のメデジンに生まれました。同地域は貴族地縁と辺境的農地が混在する土地で、のちにピサロやバルボアなど多くの「コンキスタドール」を輩出します。若き日の彼はサラマンカで短期間学んだと伝えられますが、大学教育を全うする前に新大陸行きを志し、19歳頃にイスパニョーラ島(サントドミンゴ)に渡りました。そこで書記・農園主・遠征団員として経験を積み、さらにキューバの征服指導者ディエゴ・ベラスケスのもとで行政と軍務を学びます。キューバではハバナ創建にも関与し、地元エリートとの婚姻で影響力を増しましたが、強い野心は「未知の大陸」への直接遠征へと彼を駆り立てました。
1519年、メキシコ湾岸での交易調査と布教を名目に遠征が組織されます。当初、総督ベラスケスは指揮権を他者に与える意向でしたが、コルテスは急進的に準備を進め、自らを隊長とする艦隊(十数隻、兵員数百、馬十数頭、大砲数門、火縄銃・弩を装備)で出航しました。この越権行為は後に大きな政治問題となりますが、現地での迅速な既成事実化こそが彼の戦略でした。沿岸のトトナカ系都市で朝貢・反アステカ連合の機運を掴んだ彼は、ヴェラクルスに自治市(カビルド)を置いて法的な根拠を捏出し、自分を「王の代理人」に選出させる法技術でベラスケスの権限を回避しました。
この頃、彼は重要な同盟者マリンチェ(マリンツィン、スペイン名ドーニャ・マリーナ)を得ます。彼女はナワトル語とマヤ語のバイリンガルで、さらにスペイン人通訳ヘロニモ・デ・アギラール(マヤ語とスペイン語)と組み合わせることで、スペイン語—マヤ語—ナワトル語の「連鎖通訳」が可能になりました。マリンチェは単なる言語媒介者ではなく、交渉における文化翻訳者・戦略助言者として大きな役割を果たし、のちにコルテスの子を産むことで、征服と混血の象徴的存在となります。
進撃と反復—テノチティトランへの道、退却と再攻囲
内陸進撃の第一の難関は、強力な戦士社会を誇るトラスカラとの衝突でした。数度の激戦ののち、双方は講和し、トラスカラは以後コルテスの同盟者として主要兵力を提供します。トラスカラにとってこれは、長年対立してきたアステカに対抗する現実的選択であり、彼らの参加はスペイン勢の兵数・兵站・地理情報を飛躍的に強化しました。この「先住勢力の選択」が征服のエンジンであった点は強調すべきです。
1519年11月、コルテスはテスココ湖の湖上都市テノチティトランに到達し、皇帝モクテスマ2世と会見します。当初、モクテスマは贈答と儀礼で時間を稼ぎ、神託や地政の計算から対応を模索しました。コルテスは宮殿に滞在しつつ皇帝を事実上の拘束下に置くという大胆な政治劇を演じ、街の秩序を保ちながら支配権を侵食していきます。しかし、キューバからベラスケスが派遣した追討軍(パンフィロ・デ・ナルバエス隊)が上陸すると、状況は一変します。コルテスは一部兵を率いて湾岸へ逆行し、夜襲でナルバエスを制圧、彼の兵を自軍に編入することに成功しました。
その間、テノチティトランでは副官アロンソ・デ・アブリルやアルマグロらの軽挙や、宗教的緊張が暴発し、祭礼中の「大神殿虐殺」と呼ばれる惨劇が発生。都市は一斉蜂起に傾きます。戻ったコルテスは事態収拾を試み、群衆の前にモクテスマを立たせますが、石礫が皇帝に当たり、彼は致命傷を負ったと伝えられます(死因には異説あり)。窮地のスペイン勢は1520年6月末、夜陰にまぎれて撤退を図り、多くの戦死者・溺死者を出した「悲しき夜(ノーチェ・トリステ)」を経て、トラスカラへ退却しました。
しかし、コルテスはここで粘る選択をします。彼は同盟網の再編と補給の確保、湖上戦の準備に注力し、内陸で分解していた反アステカ勢力を束ね直しました。さらに、解体して運んでいた船材から小型の帆走・櫂走船(ブリガンティン)を組み立て、テスココ湖での制水権を確保します。1521年、陸と湖の両面からテノチティトランを包囲し、堤道を奪い、市街戦で水と食料の供給路を遮断しました。このとき天然痘がメキシコ谷に流行し、同盟者・敵双方に被害を与えつつ、人口密集地だった首都に壊滅的影響をもたらします。新皇帝クアウテモクの抵抗は最後まで激烈でしたが、1521年8月、都市は陥落しました。
テノチティトランの崩壊は、帝国そのものの瞬時の消滅ではなく、朝貢連邦の枠が外れて多中心化・再編が進む起点でもありました。スペイン勢は廃墟の上にメキシコ・シティを建設し、教会・役所・広場を配置して支配の視覚言語を植え付けます。同時に、トラスカラなど同盟先住社会には特権と負担の双方を与え、反乱と協力の間を管理する統治術を編み上げていきました。
統治と制度—新スペインの骨格、搾取の仕組み、宗教の導入
征服後、コルテスは「ヌエバ・エスパーニャ総督(カピタン・ヘネラル)」として実質的な統治者にのし上がります。ヴェラクルスからメキシコ谷、さらに太平洋岸・オアハカ・ミチョアカンへと遠征隊を派遣し、金銀の採掘地・農業地帯・交易路の掌握を進めました。土地と労働力の再配分では、エンコミエンダ制が導入され、スペイン人に先住民集団からの貢租徴収とキリスト教化の「委託」が与えられます。実態としては強制労働と収奪が横行し、人口激減と社会解体に拍車をかけました。のちに王権はバリャドリード法や新法でエンコミエンダの世襲や過酷を抑制しようとしますが、現地実務との軋轢は続きます。
都市計画では、格子状街路と中庭型住居、中央広場(プラサ・マヨール)を核に、カテドラルと政庁、商業アーケードを配置する「スペイン的都市」が形成されました。これに修道会(フランシスコ会・ドミニコ会・アウグスチノ会)の布教拠点が加わり、教会・学校・病院が設けられます。宣教師たちは先住言語で教理書や辞書を編纂し、舞台芸術・図像・巡礼を用いてキリスト教世界観を浸透させました。一方で、偶像破壊や祭祀禁止、在来知識体系の抑圧が進み、文化的断絶と混淆が同時に進行しました。
経済面では、メソアメリカの陸上交易網がスペイン帝国の大西洋体系に結び込まれ、銀の産出拡大(とくにのちのサカテカス・グアナフアト)、家畜・鉄器・車輪・新作物の導入が生産と消費の様式を変えました。スペインからは小麦・葡萄・柑橘・家畜、逆にアメリカ大陸からはトウモロコシ・ジャガイモ・トマト・カカオなどが旧世界へ渡り、いわゆる「コロンブス交換」が世界規模の人口・経済変動を引き起こします。コルテス自身も太平洋岸の開発とアジア貿易の夢を追い、カリフォルニア半島の探検(「コルテス海」=カリフォルニア湾の呼称に名を残す)を支援しました。
政治的には、コルテスの個人的権力が強すぎることを懸念した王権は、監査官(オイダー)による監督や王立アウディエンシア(高等法院)を設置して統治の分権化を図ります。1528年には第一アウディエンシアが設けられ、その専横と混乱を経て、1535年に初代副王メンドーサのもとでヌエバ・エスパーニャ副王領が制度化されました。これにより、コルテスは形式上の地位を削がれ、領地経営者・遠征者としての役割へと押し戻されます。彼はホンジュラス遠征やスペイン帰還で名誉回復を試みますが、完全な政治復権は果たせませんでした。
宗教と文化の断層—破壊・創出・混淆
征服は宗教空間の大規模な作り替えを伴いました。大神殿を壊し、その石材で教会や修道院が建てられ、広場は新たな儀礼と権威の舞台になりました。異教祭祀の禁止と偶像破壊は、先住の宇宙論・記憶装置(絵文書・儀礼・舞踊)を破砕しますが、同時に、聖人崇敬や行列、祝祭といったカトリック儀礼が在来の音楽・衣装・象徴体系と結びつき、混淆(シンクレティズム)の新しい表現が生まれます。宣教師による先住言語文献化は、伝統の一部を保存する皮肉な役割も果たしました。
マリンチェの像は、近代以降、とりわけメキシコの国民的想像力の中で複層的な意味を帯びました。裏切り者・母・通訳・文化の架け橋——彼女は征服の語りをめぐる倫理・ジェンダー・アイデンティティの争点となり、言語と権力の関係を考える鏡でもあります。コルテス自身の『書簡』は、皇帝への戦果報告と正当化の文書であり、征服の暴力を抑制的に叙述しつつ自己を英雄化するレトリックに満ちています。近現代の歴史学は、考古学・先住史料・疫学・環境史の知見を総動員し、コルテス中心の物語を相対化してきました。
評価と遺産—神話から多声的歴史へ
長らくヨーロッパの歴史叙述では、コルテスは「少数で大帝国を倒した天才」として描かれてきました。彼の決断力、即興の政治技術、軍事上の柔軟性は確かに顕著です。しかし今日の研究は、征服の成功を、同盟先住勢力の大規模動員、アステカ帝国内の被支配都市の不満と離反、天然痘の流行、地形と補給の優位確保、そしてスペイン帝国の制度的後ろ盾といった複合要因の交差として理解します。英雄譚から離れ、暴力と搾取、抵抗と適応、混血と文化創出の多面的プロセスを描くことが求められています。
メキシコ社会にとって、征服は終わった過去ではなく、いまも続く歴史的地層です。先住民族の権利回復運動、言語・文化の再生、土地と資源をめぐる争い、カトリックと在来信仰の共存、国民的シンボルとしてのアステカ遺産の再解釈など、コルテスの物語は現在進行形の課題と響き合います。一方、世界史の尺度では、征服は大西洋世界の形成、グローバル市場の誕生、旧世界・新世界の生物交換と疫病波及という巨大な変化の節点でした。
コルテス個人の終幕は、政治的孤立と体調悪化のなかで訪れました。彼はスペイン帰国後、法廷での補償請求と名誉回復に執念を見せますが、完全な満足を得ぬまま1547年に没しました。彼の名はメキシコ・シティの地名、カリフォルニア湾の異名、各地の像や通りに残りつつ、同時に批判と再解釈の対象でもあり続けます。
総じて、エルナン・コルテスは、個人の野心と帝国の拡張、同盟と裏切り、破壊と創造が絡み合う渦の中心にいた存在でした。彼を理解することは、単なる人物評伝を超え、帝国・疫病・宗教・言語・制度の総合史に触れることを意味します。テノチティトランの石は教会や宮殿となり、歌や儀礼は形を変えて生き残りました。征服の現場で交わされた無数の選択と声に耳を澄ませるとき、私たちはコルテスの時代を、神話ではなく多声的な人間の歴史として読み直すことができるのです。

