三仏斉(さんぶっせい)は、中国史書に現れる東南アジアの海上王国の呼称で、一般にスマトラ島を中心に7~13世紀頃に栄えた室利仏逝(シュリーヴィジャヤ、Srivijaya)と重ねて理解されます。現在のインドネシア・スマトラ島南部(パレンバン周辺)やリアウ地方、さらにはマレー半島の港市を結びつけ、インド洋と南シナ海をむすぶ海上交通の要衝を押さえて発展しました。仏教、とりわけ大乗・密教系の学問と修行の拠点としても知られ、中国・インド・中東・東南アジアの交易商人が行き交う国際都市の性格を帯びていました。日本の教科書では「海上交易国家」「港市国家」と説明され、唐・宋への朝貢やインド僧義浄の滞在、そして11世紀のチョーラ朝による侵攻などの出来事とともに語られます。三仏斉という表記は、同時代の中国側の呼び名で、時期や文献によっては室利仏逝・仏逝などの異称も併用されますが、いずれも同じ広域的な政治・交易ネットワークを指す場合が多いです。海峡の支配、航海知識、宗教・言語の多様性が一体となって機能したことが三仏斉の特徴であり、その興隆と衰退をたどることは、前近代のインド洋世界を理解するうえで欠かせません。
名称・領域・起源――三つの呼称が示す広域ネットワーク
「三仏斉」という表現は主として宋・元代の中国史料に見られ、音写や当て字に幅があります。より古い時期の文献には「室利仏逝(しつりぶっせい)」が頻出し、これはサンスクリットの「シュリー・ヴィジャヤ(栄光の勝利)」の音写に相当します。両者は厳密な意味で完全同一ではなく、書かれた時代・場所・筆者の理解により射程が揺れますが、概ねスマトラ島南部を核として、マレー半島の港市(カダラム=ケダ、タムブラリンガ=ナコーン・シー・タマラート、リーゴール=ラグナスリ?など)を結び付けた広域的な「海上王権」を指します。政治中心は時期により移動し、パレンバン(ムシ川下流域)に加え、ジャンビ(古代の「マラユ」)に重心が移ることもありました。これは内陸河川と外洋航路の交差点、すなわち香料・金・樹脂・樟脳・錫といった産品の集散地を押さえる戦略的判断に基づきます。
起源については、7世紀後半の碑文史料(カドゥカン・ブキット碑文、タラン・トゥウォ碑文、コタ・カプール碑文など)が、早くも「征討」「河川の制御」「仏教的福祉の誓願」などを語っており、初期シュリーヴィジャヤが内陸水系と外洋を結ぶ軍事・宗教・行政の複合体であったことを示唆します。唐代の仏僧・義浄は671年に室利仏逝に滞在し、ここで仏教を学び、航海の季節風を待ってからインドのナーランダ僧院へ向かったと記しています。すなわち、三仏斉は宗教上の中継基地であり、同時に季節風貿易のリズムを体現する港市連合の結節点でした。
政治形態は、しばしば「マンダラ型」と表現されます。固定的な国境や全国統一官僚制ではなく、中心に近い河口・港市が強い支配力をもち、周辺の港・内陸の首長(ダトゥ)・海民(オラン・ラウト)と、朝貢・婚姻・保護・徴税を通じた重層的ネットワークを結びます。中心が軍事と航海知識を提供し、周辺は人員・物資・海上警備を供出する交換関係が築かれ、航路の安全と通商の独占により富が生み出されました。
海上交易と宗教文化――海峡支配が生んだ繁栄
三仏斉の繁栄の鍵は、マラッカ海峡とスンダ海峡の航行管理でした。季節風に合わせてインド洋から来る船は、海峡で補給・積み替え・商談を行い、中国方面へ向かう船と貨物を交換します。胡椒・丁子・肉桂などの香料、カンフル(樟脳)、錫・金、象牙・犀角、伽羅などが積み替えられ、中国からは絹・陶磁器・銅銭、インドからは綿布・宝石、イスラーム圏からは銀貨やガラス器が流入しました。港市にはアラブ・ペルシア・タミル・中国・ジャワ・スンダ・スマトラ各地の商人と職人が混在し、多言語・多宗教のコスモポリタンな社会が形成されました。
宗教面では、大乗仏教、とりわけ密教系(マハーヤーナ・ヴァジュラヤーナ)の影響が強く、王権は仏教的正統性を掲げることで海域の盟主としての威信を演出しました。港市近郊には仏塔・僧院が営まれ、リアウ内陸のムアラ・タクス遺跡群などにその痕跡が残ります。義浄の証言に見られるように、三仏斉はインドへ向かう僧侶・学徒の「準備学校」の機能を持ち、経典の書写・梵語・パーリ語・仏教儀礼の基礎修練が行われました。これは、海商の寄進・王権の庇護と結びつき、港市の精神的中心としての僧院が、同時に書記・翻訳・計数の教育機関でもあったことを示します。
言語・文字の面では、古マレー語にサンスクリット語彙が交じる碑文が広く用いられ、ナーガリ系・パッラヴァ系文字の系統が見られます。王号や年号、仏教用語はサンスクリット、行政や民間慣行は古マレー語が使い分けられることが多く、これは対外威信と実務運営の両立を意識した言語政策と理解できます。こうした多層性は、のちのマレー世界における言語・イスラーム化の進行においても受け継がれ、交易語としてのマレー語の基盤を太くしました。
中国・インドとの関係――朝貢・外交・チョーラ朝の衝撃
対中国関係では、唐・宋代に三仏斉の朝貢・互市が頻繁に記録され、宋代には航海術の発達と紙銭・銅銭の流通拡大に伴って、福建・広東の港市とスマトラ・マレーの港市の交易が制度化されました。中国側の冊封・朝貢秩序は、王権の正統化に利用できる一方、実際の取引は民間商人のネットワークが主導し、三仏斉は関税・倉庫・通訳・仲買の仕組みを整えて港湾収入を得ました。
インド側との関係では、インド南部のパーンディヤ朝・チョーラ朝のタミル系商人が大きな役割を果たしました。特に11世紀初頭、チョーラ朝のラージェーンドラ1世は海上遠征を敢行し、スマトラやマレー半島の諸港を攻撃・略奪します。碑文には、三仏斉の王が捕らえられた、あるいは主要港市(カダラム=ケダなど)が攻略されたとする記事が見え、これが三仏斉の海域支配に大きな打撃を与えました。遠征の背景には、香料・錫・海上交通の利権をめぐる競合、そしてタミル商人組合(アイーナール、マーナグラム、アンジュヴァナム等)の活動基盤拡張がありました。チョーラの衝撃は三仏斉の中枢と周縁の結節を緩ませ、のちの重心移動と諸王権の自立化を促す契機になったと見られます。
もっとも、衰退は直線的ではありません。チョーラ遠征の後も、三仏斉は朝貢を続け、各地の港市ネットワークを束ね直す努力を重ねました。政治中心がパレンバンからジャンビ(古マラユ)へ移ったり、マレー半島側の港市の自立度が高まったりするなかで、三仏斉は「同盟の再編」によって海域覇権の回復を図ります。しかし、12~13世紀になると、ジャワ島のシンガサリ、続くマジャパヒトの台頭、そしてマレー半島・スマトラ沿岸におけるイスラーム港市の勃興が進み、三仏斉の旧来の統合力は次第に低下していきました。
政治秩序と社会――港市国家の運営技法
三仏斉の王権は、固定租税の徴収だけでなく、通行税・港湾使用料・計量検査・保護料・仲買手数料などの多様な収入で支えられていました。港市の鍵は「秤と印章」です。計量の統一と官印の付与は、商人間の信頼を担保し、偽造や過小申告を防ぐ仕掛けでした。王権はまた、海民(オラン・ラウト)を組織して航路の監視・救難・海賊取締を担わせ、その代償として寄港地での優先権や分配を保証しました。王侯の婚姻は周辺首長との同盟の結節であり、宗教的儀礼(灌頂、仏塔供養)は政治的忠誠の確認でもありました。
都市社会は、多言語・多宗教・多職能の分業で成立します。市場の周辺には、倉庫・両替商・書記・通訳・料理人・船具職人が軒を連ね、異郷の人々が暮らしやすい宿泊施設や浴場、信仰施設が整備されました。中国人居住区、タミル人居住区、アラブ人居住区などのコミュニティは半ば自治的に運営され、王権はそれぞれの慣習を承認しつつ、紛争調停と治安維持を司ります。疫病と火災は常に脅威で、港市は井戸・排水溝・防火空地の管理を重視しました。船団の入港時には検疫が行われ、寺院は祈願と施療の場として機能しました。
文化交流の面では、仏典・密教儀礼・医薬学・天文暦法が行き交い、インド洋世界の知が港市に集積しました。寺院の装飾にはインド・スリランカ・東南アジアの様式が混淆し、青銅仏・石仏・木彫・スタッコの技法が共存します。工芸では、中国の白磁・青磁、ペルシアのガラス器、インドの綿布、地元の黒色土器や金銀細工が混ざり合い、墓碑銘や寄進銘は多言語で刻まれました。こうした混淆は、のちのマレー・イスラーム文化の寛容性・交易志向と深く結びつきます。
衰退と継承――イスラーム港市の勃興とマジャパヒトの圧力
13世紀以降、イスラーム商人のネットワークがスールー海・マラッカ海峡・ジャワ海をより密に覆うようになり、スマトラ北端のパサイ王国(サムドラ=パサイ)がイスラーム王国として勃興します。彼らはアラブ・ペルシア・グジャラートとの直結を売りにして、香料・金・錫の貿易を取り込み、イスラーム法に基づく取引慣行と貨幣経済を進展させました。これに対し、ジャワ島ではヒンドゥー・仏教王権のシンガサリ、のちにマジャパヒトが海域支配を強め、マレー半島・スマトラの港市に軍事的圧力をかけます。海域覇権は分割・競合し、三仏斉の旧ネットワークは、イスラーム港市とジャワ勢力の二重の圧力の中で解体・再編されていきました。
とはいえ、三仏斉の遺産は消えたわけではありません。航海技術・港湾運営・言語(交易語としてのマレー語)・宗教文化(仏教的寛容と受容の作法)は、形を変えてマラッカ王国(15世紀)に受け継がれます。マラッカはイスラームを受け入れつつも、異教徒商人の保護と公平な取引制度を掲げ、三仏斉以来の「海の法」を継承して国際港として飛躍しました。こうして、三仏斉は直接の政治体としては終焉しても、インド洋世界の制度的記憶のなかで生き続けたのです。
史料と研究――碑文・遺跡・中国史書の相互読み
三仏斉研究の柱は、(1)スマトラ島内外の碑文と遺跡、(2)中国側の正史・地理書・仏教関係文献、(3)インド洋世界のアラビア語・タミル語史料の三系統です。碑文は王権の宣言と遠征、仏教的誓願、行政命令を直接に伝え、遺跡は僧院・仏塔・港湾施設の実在を裏づけます。中国史書は朝貢と地理・風俗を記述し、往還した僧侶・商人の見聞を補います。タミル碑文やアラビア語記録は商人組合と航路、遠征・交易の現場を照らします。これらを相互に突き合わせることで、名称の揺れ(室利仏逝・三仏斉)、中心地の移動、ネットワークの範囲が立体的に再構成されます。
学界では、三仏斉を<単一の集中国家>とみるか、<港市連合のゆるやかなヘゲモニー>とみるかで議論が続いてきました。近年は、マンダラ・モデルとネットワーク理論を併用し、季節風・河川交通・海民組織・寄進経済の結節が実際にどのように運用されたかを具体的に描く研究が進んでいます。また、イスラーム化の速度や範囲、チョーラ遠征の破壊度、マレー半島諸港の自立性など、細部の再検討が続いています。三仏斉をめぐる学説のゆれは、史料の偏りと、多中心的な海域世界のダイナミズムを映しています。
まとめると、三仏斉(室利仏逝/三仏斉)は、スマトラとマレー半島の港市を束ね、海峡を押さえて交易と宗教の結節点となった海上王権でした。義浄が見た仏教の学舎、宋人が通った交易の港、タミル商人が往来した航路、アラブ商人が記した風聞――それらが重なり合って、海のアジアの「見えない帝国」を築きました。その栄華はチョーラの矢とイスラームの帆、ジャワの勢威に押されてやがて沈みますが、制度と文化の記憶はマラッカや後世のマレー世界に脈打ち続けます。三仏斉を学ぶことは、陸の国境では捉えきれない、海の窓から世界史を眺め直す試みなのです。

