国民党(こくみんとう、正式名:中国国民党、Kuomintang/KMT)は、孫文が掲げた三民主義(民族・民権・民生)を旗印に、清末・民初の革命運動から出発して中華民国の建設と国家統一を目指した政党です。辛亥革命後の混乱と軍閥割拠を経て、1920年代の第一次国共合作のもとで党軍(国民革命軍)を整備し、北伐により南京を中心とする国民政府を樹立しました。1937年からの全面的抗日戦争を指揮したのち、第二次世界大戦後の内戦で中国共産党に敗れて1949年に台湾へ政権を移転します。台湾では長期の権威主義体制(いわゆる党国体制)を経て、1990年代に民主化と政権交代を経験し、現在は台湾の主要政党の一つとして選挙政治に参加しています。国民党は、革命政党・統治政党・亡命政府の与党・民主化後の政党という複数の顔をもつ稀有な存在であり、東アジアの近現代史と現在の両岸関係を理解する上で欠かせないキープレイヤーです。
成立と理念・組織:三民主義、同盟会から国民党へ
国民党の源流は、1905年に孫文らが東京で結成した中国同盟会にあります。清朝打倒と共和政樹立を掲げた地下結社は、辛亥革命(1911)で清を倒す原動力となり、革命後には複数勢力を糾合して国民党(1912)を組織しました。しかし、袁世凱の専制化と議会解散、第二革命の失敗を経て、国内は再び軍閥が割拠する状況に戻ります。亡命と挫折を重ねた孫文は、革命の再起のために綱領と党組織の立て直しに踏み切り、1919年に中国国民党を再建、1924年の第一次全国代表大会で党の大改革(連ソ・容共・扶助工農)を決定しました。
この再建では、党の指導に軍と政府を従える「党治」の構想が明確化します。黄埔軍官学校(広州、校長・蒋介石)を設立して政治委員制度や政治部を備えた党軍を育成し、宣伝部・組織部・民衆運動各部を通じて労働者・農民・学生への浸透を図りました。三民主義は〈民族の独立=反帝国主義〉〈民権の確立=共和・憲政〉〈民生の安定=土地と生計の保障〉を柱とし、ソ連・コミンテルンの助言を受けつつも、中国の実情に合わせた漸進的改革の路線をとります。党章・党規は支部—県—省—中央というヒエラルキーを定め、党員教育と規律で結束を強めました。
産業資本家・都市中間層・士官・郷紳・学生知識人など多様な層が支持基盤で、同時に地域差・派閥差も抱えます。孫文の後継をめぐっては、蔣介石(軍事・組織を掌握)と汪兆銘(政治・宣伝で影響力)などの間で主導権争いが続き、地方有力者の取り込みと中央集権化のせめぎ合いが党の慢性的課題になりました。
国民革命と南京政府:北伐・分裂・統一と国家建設
1925年の孫文死去後、広州の国民政府は第一次国共合作の枠組みで北伐を開始(1926)。呉佩孚・孫伝芳らの軍閥を撃破しつつ、労働者・農民の大衆運動と政治工作を連携させる「軍政と民政の結合」を進めました。しかし、上海における労働者蜂起をめぐって路線対立が激化し、1927年の四・一二事件(上海クーデタ)で蔣介石が共産勢力を弾圧。第一次国共合作は崩壊し、国民党は南京(蔣介石)と武漢(汪兆銘)の分裂状態に陥ります。のちに武漢側も南京に合流し、1928年までに張学良の易幟を経て名目的な全国統一が達成され、南京国民政府が「正統政権」として国際的承認を得ました。
統一後の南京十年(1928–37)は、国家建設の試練期です。法制整備(六法全書編纂)、中央銀行と通貨制度、関税自主権の段階的回復、鉄道・電力といったインフラ建設、教育・衛生の拡充など、近代国家の骨格づくりが進みました。外交では条約改正交渉を進め、国内では軍閥の編制統一・軍縮・財政統合に取り組みます。他方で、中原大戦や地方の離反、農村の土地・租税問題、都市失業・労働争議、党内派閥抗争など内憂が絶えず、統治の実効性は地域により大きく揺れました。
政治体制は、三民主義の段階論(軍政→訓政→憲政)に基づき、国民党が一時的に国家を訓導する「訓政期」が宣言されます。国民大会・政治訓練委員会・監察・考試といった制度が整えられ、地方自治の拡大や選挙の試行も行われましたが、党の統制と治安維持が優先され、反対勢力への抑圧や言論統制も併存しました。社会政策では、民族工業の育成、労働立法、家族法の改革(女性の権利拡大)など一定の進展が見られ、都市文化は上海・南京・武漢などで活況を呈します。
抗日戦争から内戦へ:総力戦の重圧と政権の疲弊
1937年の盧溝橋事件を契機に全面戦争が勃発すると、国民党政権は抗日民族統一戦線を掲げて共産党と第二次国共合作を成立させ、重慶へ遷都して持久戦に臨みました。上海・南京・武漢などで大規模会戦を戦い、戦略転進と遊撃戦を組み合わせて抗戦を継続します。対外的には米英ソの支援を受け、ビルマ・インド方面との連携や航空援助(フライング・タイガース)、レンドリース供与が生命線となりました。
長期戦は政権に重い代償を強いました。税制と物価の混乱、難民と疫病、官僚・軍の腐敗、徴発と治安の強圧が民心を損ない、統治能力が摩耗していきます。戦時期、共産党は農村根拠地の拡大と民衆工作で勢力を伸長し、終戦時には広大な支配圏を形成していました。1945年の勝利後、国共の和平努力は短期で破綻し、内戦は鉄道・都市・平原での大規模戦闘へと拡大します。
1948年からの遼瀋・淮海・平津の三大決戦で国民党軍は敗北し、1949年、国民政府は広州・重慶・成都を経て台湾へ撤退しました。中華人民共和国の成立により、中国本土の主権を失い、中華民国政府は台北に拠点を移して存続することになります。
台湾での展開と現代:党国体制、民主化、路線転換
台湾に移った国民党は、1950年代以降、米国の安全保障・経済支援の下で党国体制(党が国家機構と深く結合した体制)を築きました。動員戡乱時期の戒厳令下で政治的自由は大きく制限され、選挙は限定的でしたが、土地改革(小作地の買上・自作農化)や輸出指向工業化、教育普及が進み、高成長と社会の近代化が実現します。行政・軍・メディア・教育に国民党の人的・制度的影響が及び、青天白日のシンボルは国家の象徴とも重なりました。
1970–80年代、国際環境の変化(国連代表権の喪失、米中国交正常化)と国内の社会変動を背景に、言論・社会運動のうねりが高まり、1987年の戒厳令解除、1991年の動員戡乱時期終結を経て、台湾は本格的民主化へ踏み出します。李登輝総統の下で地方直選の拡大、国会の全面改選、1996年の総統民選が実現し、2000年には民進党への政権交代が成立しました。国民党は野党期を経て2008年に政権復帰、以後は選挙を通じて与野党を往復する普通選挙政党となっています。
現代の国民党は、(1)市場経済・企業支持層の重視、(2)中華民国憲政秩序の維持、(3)対中(大陸)関係の安定的管理・経済交流推進(いわゆる「両岸政策」)を政策の柱に掲げることが多いです。他方、党資産問題の清算、世代交代・本省人/外省人の歴史記憶、移行期正義(過去の人権侵害への向き合い)といったテーマで社会的批判や自己改革の課題を抱えます。若年層の支持獲得、アイデンティティ(台湾主体・中華民国/中国文化)の折り合い、国際環境の緊張への対応は、党の将来を左右する争点です。
要するに、国民党は、革命・統一・戦争を経て「国家を作る政党」として振る舞い、その後は亡命与党として統治を続け、さらに民主化後の競争政党へと変身してきました。三民主義と党治の理念、北伐と国家建設、抗戦と疲弊、台湾での党国体制と民主化という長い弧を押さえると、アジアの近現代における国家形成・権威主義・民主化・越境的なアイデンティティの問題が一つの線でつながって見えてきます。

