国民党左派(中国) – 世界史用語集

国民党左派(こくみんとうさは)とは、1920年代の中国国民党(KMT)内部で、反帝国主義・大衆動員・社会改革を重視し、中国共産党との協力(第一次国共合作)を積極的に支持した潮流を指します。代表的な指導者には汪兆銘(汪精衛)、宋慶齢、陳公博、陳友仁(ユージン・チェン)、譚延闓、孫科らが含まれ、拠点は広東から長江中流の武漢(三鎮:漢口・漢陽・武昌)へと移りました。1927年の北伐最中に、蔣介石の上海での共産勢力弾圧(四・一二事件)に反対して武漢に「国民政府」を樹立し、労働・農民運動と結びついた国家再編を試みました。のちに武漢政権は共産党の影響拡大や農村闘争の過熱、列強・軍閥との緊張に直面し、同年夏に路線を転換して蔣側と妥協、第一次国共合作は崩壊します。国民党左派はこののちも「改組派」や反蔣の政治勢力として存続しつつ、抗日戦争期には再統合される局面もあり、汪兆銘の分離・日中戦争下の対日協力政権への転落という複雑な帰結も生みました。本項では、形成の背景、武漢政府期の政策と葛藤、分裂・転回とその後、歴史的評価の観点をわかりやすく整理します。

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形成の背景:三民主義の再解釈と「連ソ・容共・扶助工農」

国民党左派の思想的源泉は、孫文の三民主義(民族・民権・民生)を、反帝国主義と社会改革の方向へ積極的に展開した解釈にありました。辛亥革命後の軍閥割拠と列強の不平等条約体制の下で、民族独立と民権の確立を進めるには、都市労働者と農民を政治の主体として組織化し、租界・関税・治外法権などの構造を揺るがす必要があると考えたのです。

1923年の第一次国共合作は、ソ連顧問(ミハイル・ボロディンら)の助言と、黄埔軍官学校における軍事・政治教育の結合を通じて、「党治」による国家建設と大衆動員を結びつけました。広東の国民政府は、労働組合・農民協会・学生団体と連携し、ボイコット・ストライキ・デモを駆使して英仏租界資本や地方軍閥に圧力をかけました。五・三〇運動(1925)と香港・広州の大ストは、反帝国主義の気運と都市大衆の動員能力を示し、左派の政治的自信を高めます。

孫文没後、党内では蔣介石(軍事主導・秩序重視)と汪兆銘(政治・宣伝を軸に大衆連携)を中心に力学が変化しました。北伐(1926~)の進行とともに、各地で労働者ストや農民運動が急速に拡大し、左派はこれを「革命の推進力」と評価しました。他方で、保守的な商工層・地主層・外資企業・列強領事団は急進化を警戒し、都市秩序の維持を名目とする右派の臨戦態勢が整っていきます。

武漢国民政府の成立と政策:反帝・反軍閥・大衆運動の接合

1927年4月、蔣介石は上海で労働者武装組織と共産党に対する弾圧(四・一二事件)を断行しました。これに抗し、武昌・漢口・漢陽からなる武漢三鎮では、汪兆銘・譚延闓・宋慶齢・陳友仁・陳独秀(共産党)らが連携し、左派主導の国民政府(武漢政府)を形成します。ここで掲げられた目標は、(1)北伐の継続による全国統一、(2)反帝国主義—租界・関税・治外法権の是正へ向けた交渉と圧力、(3)労働・農民の組織化と社会改革の推進—でした。

具体的政策として、工会(労働組合)の公認と保護、最低賃金・労働時間・仲裁制度の整備、農民協会の支援と小作料・高利貸の規制、婦人解放(婚姻・教育の改善)などが掲げられます。宣伝部・農民部・労工部は、集会・講演・夜学・宣伝冊子を通じて「革命の語彙」を広め、都市と農村の横断的なネットワークづくりに取り組みました。外交面では、陳友仁が外相として列強と交渉し、治外法権撤廃・関税自主権回復を強く主張します。

しかし、武漢政府の路線は急速に限界に突き当たります。第一に、農村の一部では小作料減免や地主裁判の「革命法廷」が過激化し、保守層の反発と治安不安を招きました。第二に、都市ではストと商工活動の停滞が重なり、税収や補給に支障が出ます。第三に、北伐の進行で武漢が前線の中継地となる中、軍事指揮と政治動員の軸がずれ、軍の規律と物資動員に摩擦が生じました。第四に、ソ連顧問・共産党との協力関係をめぐり、党内外で「影響力が過大」「国民党の主導が損なわれる」との批判が高まります。

決定的だったのは、蔣側の上海拠点と武漢側の対立が長期化する中で、地方軍や行政の多くが実利を求めて蔣側に傾き、武漢の政治的孤立が深まったことです。さらに、長江沿岸の商業・金融の利害が「秩序回復」を求め、左派の大衆運動に距離を置くようになりました。

転回と崩壊:七・一五分裂、国共決裂、そしてその後

1927年7月、武漢政府は方針を転換し、「七・一五」と呼ばれる決定で共産党員の政府・軍・党からの除名・排除を進めます。これにより第一次国共合作は事実上終焉し、武漢左派は蔣側との協調に向かいます。同年8月、共産党は南昌起義(のちの人民解放軍の建軍記念日に位置づけ)など武装蜂起へ転じ、秋には毛沢東の秋収起義など農村を基盤とする路線が始動しました。左派の旗印だった「連ソ・容共・扶助工農」は急速に後退し、国民党の全国統一は蔣介石主導へと収斂していきます。

左派の主要人物の行方も分かれました。汪兆銘はその後もしばしば反蔣の中心となり、「改組派」として党改革や対外方針で異議を唱えましたが、1930年代後半には権力闘争と対日政策をめぐり転変を重ね、最終的に1940年、南京で日本軍の支援下に「国民政府」(通称・汪兆銘政権)を樹立して歴史的な批判を浴びます。宋慶齢は一貫して反ファシズムと統一戦線を支持し、国際的な支援活動・救済活動に従事しました。陳公博は当初の左派知識人から汪政権の要職へと傾き、戦後に処刑されています。陳友仁は外交やジャーナリズムで反帝国主義を唱え続けたものの、党内実権からは次第に遠ざかりました。

1937年の全面的抗日戦争勃発は、国民党内の右派・左派の多くを「抗日統一戦線」の名の下に再結集させ、共産党との第二次国共合作が成立します。とはいえ、戦時の統一は脆く、相互不信や地方統治の矛盾が残りました。国民党左派は、かつての武漢期のようなまとまった潮流としては再興せず、むしろ「反蔣」「改組」「対外強硬/妥協」などの局面ごとに緩やかなネットワークを作って影響力を行使したと見るのが適切です。

評価と位置づけ:大衆政治の試みと国家建設の矛盾

国民党左派の歴史的意義は、軍事と国家建設に偏りがちな国民党の軌道の中で、労働者・農民・婦人・学生といった社会の多数派を政治の正面に据え、反帝国主義と条約改正の交渉を大衆動員と接続しようとした点にあります。武漢政権期の政策群—労働立法、農村改革、婦人の権利拡大、教育・宣伝の重視—は、のちの南京政府や戦後の中国政治にも間接的な影響を残しました。また、外交舞台での積極的な交渉姿勢は、関税自主権回復や治外法権撤廃の長期的流れの一部を先取りするものでした。

一方で、左派の挫折は、(1)大衆運動の急速な拡大を持続可能な制度設計に結び付ける難しさ、(2)軍事・財政・治安の基盤が脆弱なまま全国政権を主張した戦略的無理、(3)都市商工層・地主層・官僚機構との橋渡しを欠いたこと、(4)国際環境(列強の圧力)と党内権力闘争の複合圧力、を示しています。さらに、共産党との協力をいかに「対等・限定・目的合理的」に管理するかという課題に、当時の左派は有効な解を持ちませんでした。七・一五以後の急転回は、その限界を逆説的に物語っています。

総じて、国民党左派は、北伐期の「もう一つの国民革命」の可能性と、その可能性が制度・軍事・外交の三角関係の中で押し潰される過程を可視化する鏡です。武漢という地理—長江の物流・租界経済・列強のプレゼンス—を背景に、都市と農村、軍と大衆、民族と階級の力学が一点に集まり、短い時間に凝縮して噴出したといえます。人物のその後の軌跡(宋慶齢の反ファシズム、汪兆銘の転落、陳公博の変質)は、理念と現実の圧力の狭間で分岐する近代中国政治の難しさを象徴しています。