イッソスの戦い – 世界史用語集

イッソスの戦いは、紀元前333年にアレクサンドロス大王率いるマケドニア軍と、アケメネス朝ペルシアのダレイオス3世の主力が激突した会戦を指します。舞台は小アジア南端、キリキアとシリアの境に近い沿岸低地で、戦場を横切るピナロス川と周囲の山地によって地形が狭まり、兵力差を生かしにくい場となっていました。アレクサンドロスはこの地形的制約を味方につけ、右翼の突撃でペルシア左翼を崩し、中央に迂回して王ダレイオスに迫ることで総崩れを誘いました。ダレイオスは戦場を離脱し、王族と輜重がマケドニア側に捕えられ、地中海東岸の諸都市は次々とアレクサンドロスに屈しました。戦いは一回の勝敗にとどまらず、その後のフェニキア沿岸掌握やエジプト進出、最終決戦ガウガメラへの道筋を開く転機となりました。

本稿では、なぜ両軍がこの狭隘な海浜平野で対峙するに至ったのか、各軍の兵種構成と布陣、戦闘の推移、そして戦後の政治・軍事上の展開を、古代史料の性格にも目配りしながら具体的にたどります。概要だけでも大枠は把握できますが、詳しい経緯や戦術上の要点に関心のある方は以下の各セクションをご参照ください。

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背景と戦場――小アジアからシリアへ、狭隘地形が生んだ勝機

イッソスの戦いに先立ち、アレクサンドロスはヘレスポントスを渡って小アジアに上陸し、グラニコス河畔の戦いでペルシア側の地方軍を破りました。続いてアナトリア内陸の制圧と沿岸諸都市の帰順を進め、サルディスやハリカルナッソスなどを掌握して前線を南東へと延ばしていきます。ペルシア王ダレイオス3世は、地方軍の敗北を受けて自ら出馬し、諸邦から兵を糾合して主力を編成しました。

問題は、両軍がどこで会うかでした。地中海東端に向かうアレクサンドロスは、タウロス山脈からアマヌス山地に続く隘路を越えてキリキアへ入り、内陸での休養と軍の再編を施しました。ダレイオスはこれに対し、広い平野で数の優位を生かすべくシリア側から北上する計画でしたが、機動の行き違いが起こり、アレクサンドロス軍の背後に回り込む形で小アジア側のイッソス近辺へ出てしまいます。アレクサンドロスは即座に反転し、両軍は海岸線と山地に挟まれた狭い帯状の平野で相まみえることになりました。

戦場を特徴づけたのは、海に注ぐピナロス川(古代名)でした。川自体は大河ではありませんが、湿地や段丘を伴い、正面から渡河して隊形を維持するには骨の折れる障害です。さらに東側は山腹が迫り、側面機動の余地が限られます。通常ならば兵力に勝る側が開豁地で包囲・側撃を狙うのが定石ですが、イッソスでは地形がその選択肢をほぼ封じました。結果として、歩兵正面の押し合いと、一点突破からの斜め攻撃という、アレクサンドロス得意の「右突撃—中央切断」の形がはまりやすい舞台が整ったのです。

古代史料は、ペルシア軍の兵力を誇張して伝える傾向があります。どの程度の差があったかは議論が分かれますが、少なくともアレクサンドロス側より数で優越していたことは確かです。ただし、兵士の練度や兵種のバランス、戦場の幅、指揮統制の密度といった要素が、単純な頭数以上に勝敗を左右しました。とくにイッソスのような狭隘地形では、多数を展開しきれず、前面に投入できる戦力が自然と圧縮されます。これは、深く統制のとれた長槍歩兵(サリッサ装備のファランクス)と精鋭騎兵を擁するマケドニア軍に有利に働きました。

兵種と布陣――ファランクスと近衛、伴騎兵/王の中軍とギリシア傭兵

マケドニア軍の中核は、サリッサと呼ばれる長槍を構える重装歩兵のファランクスでした。複数の旅団(タクシス)が横に並び、互いに間隙を埋め合いながら前進・防御を行います。中央のファランクスを左右から支えたのが、王直属の近衛歩兵ヒュパスピスタイ(楯持ち)と、高い機動力をもつ軽歩兵・投槍兵・弓兵です。騎兵は二本柱で、アレクサンドロス自らが率いる右翼の伴騎兵(ヘタイロイ)が突撃の槍先となり、左翼ではテッサリア騎兵が巧みな防御運動で敵の圧力を受け止めました。全体指揮は、右翼を王が、左翼を名将パルメニオンが担い、突破と持久の役割分担が明確でした。

ペルシア側は、諸民族から集成した大規模な軍で、優秀な騎兵を豊富に備えていました。ダレイオスは自身が中央に位置し、近衛の歩兵や王族衛士に護られ、その前面には多数のギリシア人傭兵による重装歩兵が配されました。彼らはホプライト的な密集戦に熟達し、正面での押し合いでは強さを発揮します。翼側には弓騎兵や軽歩兵、重騎兵が多く、平野さえ広ければ包囲や側撃に威力を出し得る編制でした。しかしイッソスでは展開幅がなく、兵力を前面に活かしにくかったことが致命傷となります。

初期配置で重要だったのは、ピナロス川をはさんだ両軍の距離感と地形適応です。ダレイオスは川の向こう岸に兵を並べ、渡河点での乱れを突く狙いでした。対してアレクサンドロスは、右翼の伴騎兵とヒュパスピスタイをやや後方に配置し、敵の左翼の前面に生じるわずかな緩みや浅瀬を探りました。左翼のパルメニオンは海岸近くの平地で密に隊形を組み、敵の攻勢を受け止める構えです。こうして「左は耐え、右で刺す」というマケドニア軍の典型的な布陣が形づくられました。

戦闘の推移――右翼突破、中央斜行、王の離脱

交戦は、両翼の騎兵小競り合いと射撃戦から始まりました。海岸寄りの左翼では、ペルシア騎兵が激しく圧力をかけ、パルメニオンは縦深を使った後退・踏みとどまりを繰り返して時間を稼ぎます。ここで決壊すれば全軍の側面がさらされるため、左翼の粘りは戦場全体の前提条件でした。

主導権を握ったのは右翼のアレクサンドロスです。彼は自ら先頭に立ち、伴騎兵とヒュパスピスタイを率いてピナロス川の渡渉に成功しました。川岸の段差と湿地は歩兵の密集を乱しやすいのですが、ヒュパスピスタイが橋頭堡を確保し、騎兵がそこに突入して突破口を広げます。ペルシア左翼は川岸での反撃に失敗し、やがて崩れが波及しました。

突破の瞬間、アレクサンドロスは騎兵の進路を中央へ斜行させ、ペルシア軍の側面—ひいては王ダレイオスの位置—に圧力をかけます。これは、前面でファランクスがギリシア傭兵と組み合う「正面釘付け」と、右翼からの「斜め切断」を組み合わせる典型的な戦術でした。中央にいたダレイオスは、戦況の逆転可能性を見極めようとしますが、王の直近に危険が迫ると、護衛は王の安全を最優先に行動します。王の戦場離脱は、古代の軍において単なる退却ではなく、軍全体の命脈にかかわる心理的合図となりがちでした。ダレイオスが戦場を去ると、統制は急速に崩れ、各部隊は背後の輜重地帯へ殺到します。

左翼で持久戦を強いられていたパルメニオンは、王の突撃の成功に合わせて反撃に転じ、圧迫していたペルシア騎兵を押し返しました。やがて戦場全体がマケドニア側の手に落ち、ペルシアの陣地・輜重が占拠されます。ここで王族や王妃、姫君たちが捕えられ、莫大な財貨がマケドニア軍の戦利品となりました。アレクサンドロスが王家の女性たちを丁重に遇したという逸話は、彼の対外イメージ形成に大きく寄与し、征服地のエリート層に対する懐柔策と一体で語られます。

損害の実数については、古代史料間で幅があり、誇張も疑われます。重要なのは、戦術的勝利がただちに戦略的な地殻変動へ結びついた点です。ダレイオスは再起を期して内陸へ退きますが、沿岸の諸都市は王なき軍に支えられず、マケドニア側への投降や帰順が相次ぎました。アレクサンドロスはここで勝ち急がず、地中海東岸の港湾網をていねいに押さえる「海の扉」戦略へと移ります。

戦後の展開――沿岸掌握からエジプトへ、そして最終決戦へ

イッソスの勝利後、アレクサンドロスはフェニキア沿岸の諸都市を次々と屈服させ、強固な城壁と海軍力で知られたティルスには長期包囲の末に突入します。続いてガザを攻略し、ナイル河口からエジプトへ入ります。エジプトでは歓待を受け、アレクサンドリアの建設が決定され、シワ・オアシスの神託により「ゼウスの子」の称号を得るなど、軍事・政治・宗教の全方位で威信を高めました。これは、内陸で再起を図るダレイオスに対し、海上交通と補給の掌握、背後の安全保障という形で圧力をかける間接戦略でもありました。

外交面では、ダレイオスが捕虜となった家族の返還や講和を持ちかけ、領土割譲や多額の賠償を提示したと伝えられます。アレクサンドロスはこれを退け、「アジアの王」を自任する姿勢を鮮明にしました。イッソスで得た財貨は軍の給餌と新補充に回され、また、捕獲した王家の財宝や宮廷美術は各地でのプロパガンダの素材となります。のちにローマ・ポンペイの「イッソスの戦いのモザイク」が描き出すのは、まさに王対王の会戦というイメージであり、後世の想像力に強い印象を残しました。

補給と人心の掌握を整えたアレクサンドロスは、やがてメソポタミアへの進撃を再開し、紀元前331年、ガウガメラでダレイオスと再び相まみえます。そこでは広い平野に戦車・騎兵を活かすペルシアの構想が復活しますが、アレクサンドロスはここでも中央切断—王への圧力という原則を貫き、最終的な勝利を収めました。イッソスの戦いは、その前口上としてだけでなく、地形認識と兵種連携、指揮統制と心理戦の連動がいかに戦局を決するかを示す具体例として、古代戦史の中で繰り返し参照されてきました。